愚者の墓標に刻む詩

アーケロン

文字の大きさ
上 下
22 / 30

二二  闖入者

しおりを挟む
 一通り写真を眺め、拓哉の書いた記事を読んだ藤井は、興奮気味に「これで木島も終わりだな」といって、脚を軽く引きずりながらデスクの元へ飛んでいった。これまでメールで原稿のやり取りをしていたので会うのは初めてだったが、彼は脚がかなり悪いらしい。
 前原海運の船の写真。あの写真が公表されれば、木島はもう言い逃れができなくなる。
 謎の男は、木島の違法行為を世間に訴えるために写真を託した。自分の持っていた写真を拓哉を介して公表するために。
 木島に写真を送って脅迫していたのもその男なのか。
 原稿を若干手直しして、午後五時の印刷の締め切りに間に合った。記事が世に出れば、警察も重い腰をあげて動き出すだろう。警察が来れば証拠として提供してもいい。そういって、すべての写真を藤井に渡しておいた。あとは、木島が警察に追われるのをゆっくりと見物していればいい。
 しかし、果たしてこれで康祐の仇を討ったことになるのか。康祐が叶えたかったことを本当に実現してやることができたのか。彼を殺したのはいったい誰だったのか。胸の奥に黒い澱のようなものが溜まっているように感じ、釈然としない。
 時計を見ると午後五時半を回ったところだ。大学病院から美月が帰ってくるまでまだ少し時間がある。静かな店でゆっくりと酒を飲みたい気分だったが、酒の匂いをさせてバイクで戻れば美月の逆鱗に触れてしまう。ドゥカティで上野に向かい、キリマンジャロでコーヒーを飲むことにした。
 キリマンジャロで一時間ほど時間を潰し、マンションに戻った。ドゥカティを停めて窓を見上げる。部屋の明かりがついている。美月が帰っているようだった。
 結婚すれば、こんな場面が日常の一部になるのだろう。部屋に誰かがいるというのは、思っているほど鬱陶しい事ではないのかもしれない。拓哉は女と同じ部屋で暮らしたことはなかった。同棲など窮屈すぎて真っ平だと思っていた。しかし、相手が美月ならどうだろうか。これまでつきあったどの女よりも気を遣わなければならない女だ。それでも、答えはわかっている。彼女と一緒に暮らしてもいい。いや、暮らしたい。彼女を手放そうなんて、やはり間違っていた。
 急に心が軽くなったような気分になった。これが以前詩織の言っていた、素直になるということなのかもしれない。
 鍵を開けて玄関に入ると、シチューの匂いが漂ってきた。タンシチューは美月の得意料理だった。
「早かったな」
 そういってリビングに一歩足を踏み入れて、息を呑んだ。
「遠慮はいらないよ。君の部屋だ」
 美月が青い顔でソファに座り、その前で男が脚を組んで椅子にかけていた。男は土足で部屋にあがっていた。
「大丈夫。彼女には何もしていないよ。ここに来て彼女の横に座りたまえ」
 紺色の高級スーツに赤いストライプのネクタイ。髪はオールバックに撫でつけてある。手に持った拳銃の銃口が、美月の胸に向いていた。
「彼女に銃を向けるな」
 拓哉が男を睨んだ。そして美月の横に座って、膝に乗っていた彼女の手を取った。じとっと汗ばんでいてひんやり冷たかった。よほど怖い思いをしながらここに座っていたようだ。
「大丈夫か、美月」
 拓哉の言葉に美月が黙って頷いた。いつもは薄いピンクの彼女の唇が、真っ青になっている。
「この方はお医者さんなんだってね。実に聡明な女性だ。私に銃を突きつけられても、悲鳴ひとつあげなかった。今日、ここに君は帰ってこないと言ってがんばっていたんだが、買い物袋に二人分の食材が入っていたとあっては、彼女の言葉を信じるわけにはいかなかったんだよ」
 落ち着き払った声で男がいった。
「あんた、黄義成だろ」先日何者かから受け取った写真に写っていた男に間違いない。
「まったく、君のおかげでとんだ目に遭ってしまったよ」
 訛のない完璧な日本語を話している。この男は日本にかなり長く住んでいるようだ。拓哉は目だけを動かして部屋の中を見まわした。この部屋に武器はない。いざとなればこの男を押さえて美月を外に逃がすしかない。美月が素直に逃げてくれればの話だが。
「あんたと木島はもう終わりだよ」そういって拓哉は黄義成を睨んだ。「俺の言葉の意味はわかるだろ?」
「やはり、富樫君が持っていた写真は君の手に渡っていたんだね。写真を回収しようと思ってここに来たんだが、一足遅かったようだね。もう間もなく公になってしまうのかな」
「そういうことだ」
 黄義成は顔色一つ変えずに、そうかといって頷いた。冷静というより、彼の態度に目標を見失った諦めのようなものを感じた。
「富樫君が妙なことをしていると思っていたんだが、まさか向こうのブローカーと一緒にいるところを撮られていたとはね。手を尽くしたんだが、結局取り返せなかった。君はその写真を誰から手に入れたのかね?」
「さあね、それは俺にもわからない」
「情報提供者の秘匿かね」
「知っていても絶対に喋らない。しかし、今回に限ってはどこの誰があんなとんでもないものを託したのか俺も知らなくてね。本当だぜ。俺は、カルタックの社員の内部告発だと思っているがな」
 そういって、拓哉は辺りに目を配った。この状況からどのように脱したらよいのかを、必死で考えた。美月が手の指を微かに動かした。彼女の緊張している様子がひしひしと伝わってくる。これまでの彼女の人生で、これほど怖い目にあったことはないだろう。
「あの会社の社員は全部で三十名ほどだ。そんな大それたことをすれば、すぐに誰だかわかる」
「富樫さんの行動は掴みきれていなかったんだろ?」
「誰かが裏で手を貸していた。だから富樫君はあれだけのことをやれたのだ」
 小野田玲子。彼女が手引きしたことを知ったら、この男はどんな顔をするだろう。
「あんたたちが康祐を殺したのか?」
「康祐? 杉田康祐かい?」黄義成の拓哉を見る表情は穏やかだった。「君は杉田君の友人なのかね?」
「あいつはあんたたちのことを探っていた。何かとんでもない秘密でも知られてしまったのかい?」
 黄義成がまるで他人事のように大きな溜息をついた。予想外の彼の反応を見て、自分が的外れな言葉を口にしたことに気づいた。
「我々が杉田君を殺すなんてありえないよ。彼は我々にとって重要な人物だった。大切な仲間だったんだ」
 拓哉は自分の耳を疑った。掌を包んでいた美月の手が、一瞬、強張った。
「ありえねえ、そんなこと」
「本当だよ。海外に譲渡した製品の痕跡を消すのと、我々のことを探ろうとするものの調査。それが彼の仕事だった。非常に優秀な男だったよ。我々の組織にはなくてはならない存在だった」
「ふざけるな!」
 拓哉が立ち上がった。黄義成が慌てて銃口を拓哉の胸に向けた。
「座りたまえ。話はすぐに終わる。話が終われば私は黙って出て行くつもりだよ」
 横に座っている美月が、拓哉の腕を掴んで引っ張った。再び美月の横に腰を下ろす。
「彼が自分を使ってくれと言って私に近づいてきたとき、たしかに我々のことを探っている気配はあった。でも、一目見て使える男だと思ったよ。私はこれでも人を見る目はあるんだ。彼は、諸悪を社会から排除するのが真の正義だと妄信している幼稚で青臭い連中とは違った。自分が何をなすべきなのか、何に命を賭けるべきなのかをよく知っていた。彼の友人なら、そんな彼の気持ちに気づいていたんじゃないのかね」
「いい加減なことを言うんじゃない」だが、口から出た言葉に力はなかった。
 生きているって実感が欲しい。康祐がそんなことを言っていたときはたしかにあった。
「私は彼をいたく気に入ったよ。ある日、私は彼を呼び出した。目の前に大金を積んで、我々の仲間になるのがいいか、敵対して殺されるのがいいかと迫ったんだ。そのとき、彼はにやりと笑ったよ。いい笑顔だった。捜し求めていたものにようやく巡り合えたといった顔をしていたよ」
 拓哉は何もいえなかった。横から黙ってこちらの様子を伺っている美月の視線を感じる。「いつかこんなことになるんじゃないかって思ってたのよ」実家を訪ねた時の康祐の母親の言葉をまた思い出した。いくら親友を気取ったところで、実の母親の直感にはかなわない。
 黄義成の言葉に嘘はない。証拠があるわけではなかったが、そう確信できた。
「しばらくして、彼が木島の不正行為を告発した記者の仲間だとわかった。しかし私は、彼が仲間になってくれると確信していた。だから、彼の存在を木島の目から隠していたんだ。つまらない正義感なんかで己の信念を左右されない男だよ、杉田康祐という男は」
 この男は康祐のことをよく理解している。社会通念や世間一般の倫理観では微塵も揺らがない、確固たる信念を持った男だった。
「私が杉田君を殺すわけがない。確かに知りすぎた男ではあったが、私は彼を気に入っていたんだからな」
「じゃあ、誰が康祐を殺したというんだ」
「犯人は但馬君も手にかけている」
 拓哉は思わず腰を浮かせかけた。その様子を見て黄義成がにやりと笑った。
「もしかして、但馬君を殺したのも我々だと思っていたのかい? 彼も我々の仲間だったんだ。買収を持ちかけると、あっさり富樫君を裏切ったよ。杉田君は但馬君を殺した犯人を追っていた。そして、どこかで犯人と接触して殺されてしまったと私は思っている。木島の指示で朴に犯人探しを引き継がせたが、君が彼を殺してしまった」
「不可抗力だ。奴は俺を殺そうとしたんだ」
「それに、犯人は李美花も殺している。彼女は北朝鮮に友人や親戚が多かったんだ。こちらと向こうの重要なパイプ役だったんだよ。この三人を我々が手にかけるはずがない」
 身体が震えている。美月がそっと拓哉の背中を撫でた。
 黄義成が椅子からゆっくりと立ち上がった。
「あんたはどうするんだい?」拓哉が黄義成を見た。
「じたばたしても始まらんさ」
「腹を決めているようだな」
 黄義成はにやりとした。彼の目に焦りも怒りも後悔も恨みも読み取ることはできなかった。全てを捨てて戦いに挑む、覚悟を決めた男の目だった。どうやら、黄義成に対して見当違いの人物像を当て嵌めていたようだ。
「結局、あの男には最後まで利用されっぱなしだった。それと愛理にもな」
「あの女はどうしたんだ?」
「いなくなったよ。彼女は無力になった男に用はないんだ」
 黄義成を棄てたのだ。木島も黄を切り捨てるだろう。カルタックと木島との繋がりも闇の中に消える。
「杉田君は私の右腕にするつもりだった。この先、木島と刃を交えるときがきっとくる。そのとき、彼は私の力になって大いに役立ってくれるはずだったんだ」
「あんたは康祐のことを軽く見過ぎている。あいつはあんたの思い通りになるような男じゃなかった」
 黄義成は拓哉の言葉に答えず、銃口を力なく床に向けた。
「怖い思いをさせて悪かったね」そういって、黄は美月の顔を覗き込んだ。「本当に美しい女性だ。こんな形で出合ったのでなければ、食事にでも誘いたいところなんだが」
「ありがとう……」
 青い顔のまま、美月がぎこちなく微笑んだ。声がまだ微かに震えている。
「小野田玲子は、まだあんたのことが好きなようだな」
 黄義成が拓哉を見た。隠していた感情をうっかり漏らしてしまったかのような、悲哀に満ちた目だった。
「わかってるよ」黄が低い声で言った。「だが、今のままでいるのが彼女のためなんだ。私と一緒にいれば、彼女はいつか本当に殺されてしまう」
「知りすぎた女というわけか」
「木島は私に玲子を殺すように命じたんだよ」
 黄義成の殺すという言葉に反応して、横に座っている美月が一瞬身体を固くした。
「だが、私は彼女を殺せなかった」
 それで、黄は玲子と別れて彼女をカルタックから引き離し、木島から隠すために質素な生活をさせていたのか。もしかしたら、玲子の名前を李美花に貸していたのは、始末したことになっている玲子の存在をカモフラージュするためだったのかもしれない。やはり、この男は玲子にまだ情があるのだ。
「こうなっちまったんじゃ、あんただって危ないんじゃないのかい? あんたが死ねば、木島とカルタックのつながりは完全に消えるんだろ?」
 黄義成は拓哉の顔を見ているだけで、その問いかけに応えようとはしなかった。
「君の記事が世に出るのはいつなんだい?」
「二日後だ。止めようとしても、もうどうしようもないぜ」
「わかっているよ」そういって美月のほうを見て微かに微笑んだ。
「だが、君は木島という男を知らなさ過ぎる。あの写真が明らかになっても、木島はまだ逃げ伸びる手段を持っている」そういって、黄義成が手に持った銃を腰のベルトに差し込んだ。
「だが、おかげで奴に一矢報いることができそうだ」
「どういう意味だ?」
 拓哉の言葉に、黄は答えなかった。
「君たちはしばらくそのままでいてくれないかね。でないと、この銃を使わなければならなくなる」
 黄義成は腰に差した銃を指で撫でた。
「早く出て行け」
 背中を向けて去っていく黄の姿はもう目に入らなかった。

 どこかでボタンを掛け違えていた。
 拓哉は目を閉じた。これまでの行動を思い起こそうとしたが、頭が全くまわらない。マルボロを喫おうとジャケットのポケットに手を伸ばし、思わず苦笑いした。気配で顔をあげると、美月がソファに座って心配そうにこちらを見ていた。結局、彼女は警察に電話をしようとは言い出さなかった。
「晩御飯、まだだったよね。何か作るわ」
 そういったものの、美月はソファから腰を上げようとしなかった。危険は去ったが、安堵の表情とは言いがたい顔で拓哉を見ていた。彼女の膝がまだ微かに震えている。
「いいよ、何か食いに行こう」
「シチューを作りかけているわ」
「明日でいいよ」
 美月が溜息をついた。緊張で硬く強張っていた口元が微かに緩むのが見てとれた。ようやく緊張も解れてきたのだろう。
「コーヒーでも淹れようか。食欲、ないんでしょ?」
「酒がいい」
 拓哉は立ち上がると、食器棚を開けてバーボンの瓶を手に取った。
「飲むか?」
「そんな強いお酒、飲めないわよ」
「この前、飲んだだろ」
「あの時は、ちょっとおかしかったの」
 拓哉がふっと笑った。たしか、ソーダ水が一瓶、冷蔵庫に残っていたはずだ。拓哉はワイルド・ターキーをグラスに入れ、ソーダ水を注いて氷を浮かべた。リビングに戻ると、それを美月の前に置いた。
「これならいけるだろ」
 そういって、自分のグラスにワイルド・ターキーをなみなみと注いだ。
「そんなに飲むと身体を壊すわ」
「今夜だけだ」
 そして、グラスの半分を一気に呷った。アルコールが喉に沁みる刺激で、さっきまでの幻を見ているような霞んだ感覚が次第に醒めていった。
「俺はとんでもない勘違いをしていたようだ」拓哉は呟くように言った。「奴らが康祐を殺したとばかり思っていた。しかし、事実は違っていた。何かが間違っていたんだ」
「さっきの男が嘘を言っているのかもしれないわ。銃まで突き付けて、まともじゃない」
「あの男は嘘を言っていない。目を見りゃわかるよ」
「杉田君がさっきの男の仲間だったって話、信じるの?」
 拓哉は何も答えなかった。いざという時のために、康祐が木島の犯罪を暴露するための証拠を集めていたことは事実だ。あの海岸の写真はそのために康祐が撮ったものだ。しかし、康祐の撮った写真に黄義成は写っていなかった。カルタックを告発する証拠を手に入れようとしているのに、彼が覚せい剤密輸の現場にいる黄義成をカメラに収めないはずはない。黄を巻き込むまいとしていたのだ。やはり康祐は黄の仲間だったということなのだ。
 康祐は、木島や黄義成とつながりのない何者かによって殺されたのだ。倉庫で惨殺された但馬靖男も、そして、李美花も。すべては黄のいう通りだ。
 康祐の持っていた証拠を探していた人物が、もう一人いた。ボクサーのようにしなやかな身体を持つ若い男。木島を破滅させるために、あの写真を美月に渡した男だ。
 拓哉はグラスの残りを呷った。美月が拓哉の肩に顔を埋めた。
「なんだ、もう酔ったのか?」
 美月はすんっと鼻を鳴らすと、拓哉を抱きしめた。
「ありがとう、庇ってくれて。拓哉、すごくかっこよかった」
「惚れ直したか?」
「どうしてこんなムードの時につまらないことを言うの?」
 美月がむくれた表情を向けた。
「私、すごく怖かった。気丈に振る舞っていたわけじゃないの。怖くて声が出せなかったの。泣きそうなくらい、怖かった」
 美月が肩を震わせて泣きだした。拓哉はそっと彼女の肩を抱いた。トラウマにならなければいいのだが。
「これが拓哉の仕事なのね。私、ちっとも知らなかった」
「たまにこんなこともあるってことさ。最近は平和な紀行文を書いていることの方が多いんだよ」
「嘘」
 そういって、彼女がシャツの上から拓哉の肩を噛んだ。
「ムッソリーニか」
「え? 何?」
 確かに、似ていた。

しおりを挟む
1 / 2

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

季節の巡る彼女と少年の物語

青春 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

竜の献血医

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:0

花にまみれて、血を隠す

BL / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:2

処理中です...