愚者の墓標に刻む詩

アーケロン

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二四  追跡開始

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 内部事情に詳しい関係者が警察に疑われることを承知で、富樫篤史は但馬を自分の勤めていた西川運送の倉庫に運んで殺した。富樫篤史の海外放浪癖を知った警察は、真っ先に出国記録を調べたはずだ。そこで自分が国外にいると警察に確認させれば、容疑者リストから真っ先に自分の名前を外させることができ、第二第三の犯行にも着手しやすくなる。正規のパスポートで出国した後、フィリピンで偽造バスポートを手に入れて帰国し、父親の復讐を果たす。十分ありうる話だ。日本の警察がフィリピン当局に容疑者の消息を調査するよう依頼しても、あの国の警察が外国の警察からの調査依頼に真面目に対応するとは思えない。
 富樫篤史には、事件当日フィリピンにいたというアリバイがあった。しかし、それでも康祐は日本にいないはずの富樫篤史を追おうとしていた。鋭い洞察力だ。
「与謝野という名前はそんなに多くない。大学に問い合わせれば住所くらいはすぐにわかるだろう」
 ベンツに乗り込み、まっすぐに大妻女子大学の千代田キャンパスまで出向いた。
「二年前にこちらの大学を卒業した与謝野さんの消息を知りたいのですが」
 後藤が学生課の女性職員に記者証と名刺を見せた。女性職員が目の前の端末を操作し、「与謝野朱美さんですね」というと、後藤の差し出した名刺を持って奥のデスクに歩いていった。
 しかし、後藤の考えは甘かった。
「たとえ取材目的であっても、大学としては卒業生や在校生の個人情報を外部に漏らすわけにはいきません」
 歯切れのいい言葉だった。責任者らしき三十代後半の女性は、背筋をぴんと伸ばし、その場所を死守する衛兵のような鉄壁な眼差しを二人に向けてきた。彼女の頑なな目つきに、後藤もすっかり恐縮してしまっていた。個人情報保護法の壁は、思っていたよりずっと厚く手強いものだった。
「御用があるのなら、大学から相手方のご家族に連絡を入れさせていただきます。用件とそちらの連絡先をご家族からご本人に伝えていただきますので、先方から連絡が入るまでお待ち願えますか?」
 そんな悠長なことをしていては、いつ与謝野朱美から連絡がもらえるかわからないし、連絡してこないかもしれない。結局、彼女の射るような鋭い視線に気圧されながら、こちらの連絡先を教えた後、学生課を出た。
「まあ、こんなこともあるさ」
 後藤はバツが悪そうに顎を掻きながら、オフィスにいる藤井に連絡を取った。そして、名簿会社をあたって大妻女子大学の卒業者名簿から与謝野朱美という女性の住所を調べるように依頼した。
 別の取材の予定があるというので、一度千代田駅の前で後藤と別れた。自由の身になったので、やり残していた仕事に手をつけたいらしい。フリーの拓哉と違って、組織に属している後藤は康祐のことばかりに構ってはいられないのだろう。
 一度アパートに戻ってシャワーを浴び、ひと眠りすることにした。与謝野朱美を捕まえるにしても、彼女の仕事帰りを押さえることになるだろうから、それまでにまだ時間がある。

 後藤から連絡が入ったのは、午後五時を過ぎてからだった。結局眠ることはできなかった。名簿にあった彼女の実家に電話をして母親に事情を説明すると、わざわざ娘の会社に電話を入れて本人の了解を取ってくれたらしい。
 午後六時前に横須賀についた。米海軍のフリゲート艦が入港したばかりで、街には水兵が溢れていた。三笠記念公園の傍の「ラ・メール」というレストランの駐車場に車を入れた。
 約束の午後六時を十分ほど過ぎてから、彼女は姿を現した。目鼻立ちのはっきりした、活発そうな女性だった。肩まで伸びた髪は癖もなく、ジーンズとデニムのシャツの上に黄色のカーディガンを着て、肩にショルダーバックをかけていた。
 店に入った与謝野朱美はすぐに二人に気づいて、戸惑いながら傍に寄ってきた。
「与謝野です」
 そう挨拶して遅刻を詫びた後、横の椅子にショルダーバックを置いて席に着いた。拓哉が食事を勧めたが、微笑しながら彼女が首を横に振った。
「お忙しいところをお呼び立てして申し訳ありません」後藤が目の前の席に座った与謝野朱美に頭を下げた。「先ほどお電話をいただいたときに少し話しましたが、富樫篤史さんのことで話を伺いたいのです」
 後藤がゆっくりと言葉を区切りながら経緯を説明し始めた。篤史が殺人事件に関わっているという部分はうまくぼかしていた。拓哉は黙って彼女のことを観察した。テーブルの下でハンカチを握りしめ、俯いてなかなか顔を上げようとしなかったが、ようやく思いつめたように正面に座る二人を見た。店内には静かなバックグラウンドミュージックが流れている。夕食時だったが、店には他に男女のカップルが三組いるだけだった。
「与謝野さんは、彼が今どこにいるかご存知ですか? どんなことでも結構です。何か心当たりがあれば教えていただきたいのです」
「電話でも言いましたけど、篤史君とはひと月前に別れました。今はどこにいるかわかりません」そういって、彼女が再び俯いた。胸にブローチが光っている。若い女性が好みそうな、花柄をモチーフとした可愛いデザインで、淡い色をしたブルートパーズが神秘的な光を放っている。美月が好みそうな上品そうなブローチだなと思った。
「ひと月前というと、彼の父親が亡くなった頃ですね」
「はい……」
 篤史の父親が死んだ頃、突然別れを切り出されたと、与謝野朱美は言った。これから始まる長い戦いに備え、復讐の鬼になる覚悟で富樫篤史は彼女を切ったのか。
「元々、あまりうまくいっていなかったんです。彼はほとんど海外に行っているし、私は仕事が忙しいし、何のために付き合っているのかわからなかったところもありましたから」
 朱美の微笑む顔がどこかぎこちなかった。彼女が言ったことが真実かどうか、首を突っ込んで覗き見る立場にないことはわかっている。
「電話でお願いしました件ですが、富樫篤史さんの写真があればお借りしたいのです。何か見つかりましたでしょうか?」
 後藤がずいぶんと彼女に気を使っているのがわかる。こういった場面は苦手なのだろう。別れた男の写真を貸してくれと頼むのは、誰でも気が引ける。
 顔を上げた朱美と目が合った。彼女は何も言わずに頷いて、ショルダーバックを開けた。彼女が白い封筒をテーブルの上に置いた。後藤がそれを手にとって中身を確認した。写真が三枚。右下に日付が入っている。いずれも最近撮影されたもので、彼女と並んで背の高い痩身の男が立っていた。
「捨てようと思っていたんですけど、まだ踏ん切りがつかなくて」
「わかります。しばらくお借りしてよろしいですか?」
「差し上げます。用が済めば捨ててください」
 彼女は運ばれてきたアイスティを一口飲んだ。どこか物悲しそうな仕草だった。目の前の彼女に同情しない男はいないだろう。
「あの、与謝野さん」拓哉が口を開いた。「富樫篤史さんのことで話を聞かせて欲しいと、あなたに連絡してきた人は他にいませんでしたか?」
「はい、篤史君の友達という人からスマホに電話がかかってきました。急に連絡が取れなくなったからどこにいるか知らないかと聞かれました。でも、彼からそんな友達がいるなんて聞いたこともなかったですし、私の番号を知っているなんてどこか怪しいと思ったので、何も言わずに切りました。実際、彼の居場所は知らないですし、マニラのアパートも引き払っているはずですから」
 康祐だ。佐藤のような情報屋を使って与謝野朱美のスマートフォンの番号を調べさせたのだろうが、結局、彼女から富樫篤史のことは聞き出せなかったということか。では、あいつはどうやって富樫と接触したのか。
「もうひとつ伺ってもいいですか」
「どうぞ……」
「お父さんが亡くなったことを富樫篤史さんに連絡したのは、あなただったんですね」
 拓哉の質問に、朱美は黙って頷いた。

 一時間後に朱美を解放した。後藤がタバコを切らしたというので、拓哉は先にベンツの運転席に戻った。そして、朱美から渡された三枚の写真を手にとって眺めた。
 レストランで見たときから、なんとなくどこかで見た顔ではないかと思っていた。年齢は自分とほぼ同じくらいで、長身で筋肉質。顔は特に大きな特徴もなく、どこにでもいる平凡そうな男だった。以前美月が言っていた通りの人物だったので、頭の中で描いていた人物像と写真の人物がぴたり重なったための錯覚だと思っていた。しかし、こうして一人になってじっくりと眺めてみると、気のせいだとも思えなくなってきた。
 何かが閃光のように頭の中で閃いた。急に心臓の鼓動が速くなる。写真を持っている手が汗ばんできた。
 知っている。俺はこの男を知っている。
 ベンツの助手席に乗り込んできた後藤が、運転席で写真を見つめたままいつまでもエンジンをかけようとしない拓哉を怪訝そうに見た。
「どうした?」
「見覚えがある」
 拓哉が写真を見ながら呟くように言った。
「この男をか?」後藤の声のトーンが上がった。
「ああ。それも、最近顔を見たような気がする」
 そう、確かに見た。長身に茶色の髪、一見特徴のない優しそうな顔。
「どこで見たんだ」
「ちょっと待ってくれ」今、思い出している。薄暮れ。灯りに照らし出される人々の顔。囁くような話し声。思い出した。
「葬儀会場だ。康祐の葬式の夜、葬儀会場で弔問者名簿をめくっていた男だ」
 脳裏にあの男の姿が完璧に蘇った。「葬儀会場にやってきて、弔問者名簿で康祐と関係のある人物の住所を調べていたんだ」
 やはり、富樫篤史は日本にいた。偽造パスポートを使って人知れず帰国し、父親への復讐を果たすための準備を整えていたのだ。
 拓哉の言葉に、後藤がなるほどといって頷いた。手の中に納まる超小型のCCDカメラはどこででも安価に手に入る。弔問者名簿の住所を盗み撮って康祐の周辺情報を集めていたのだろう。詩織や拓哉の部屋の住所、それに美月の実家の電話番号は、康祐の葬儀会場で手に入れたのだ。もしかしたら顔写真も葬式会場で盗み撮っていたかもしれない。奴は康祐のスマートフォンから情報を得ようとしたが、パスワードがかかっていたので何の情報も得られなかった。現場からスマートフォンを持ち出せば偽装された事故だということがばれてしまう。富樫篤史には葬儀会場でしか康祐の交友関係を調べる手段がなかったのだ。
「西川運送で富樫篤史のことを知った康祐は、その後奴と接触したんだ」
「でも、どうやって? 与謝野朱美に電話をかけたのは杉田に間違いないだろうが、彼女は富樫の居場所を教えたわけじゃない」
「しかし、あいつのことだからどこかで富樫の居場所を嗅ぎつけたんだ。そして二人は会った。康祐が証拠写真を持っていることを富樫が知ったのは、おそらくそのときだ」
「そしてお前の記事が世に出た。それで、自分の持っている証拠をお前に渡したんだな。木島に復讐するために。あの記事を書いたものなら、自分が持っている証拠写真がどれほど重要な意味を持っているか、理解できると思ったからだ。二つあわせればあの木島を罪に問える決定的な証拠になる」後藤は頷いた。
 奴は父親の仇を取ろうとしていた。木島に買収されて父親を裏切った但馬靖男。事実無根の罪をきせて父親を罠に嵌めたスナックの女、李美花。康祐は黄の指示で但馬を殺した犯人を捜していた。そして、日本にいないことになっている富樫の息子に目をつけた。さすがだ。だが、返り討ちにあった。この点では富樫篤史のほうが一枚上手だったらしい。
「父親を殺した実行犯は朴孫文だが、この男はもう死んでいる。俺が殺した。黄義成が奴のターゲットかどうかはわからないが、今となっては、警察や木島の殺し屋から逃げている黄を見つけ出すことは難しい。残っているのは、すべてに関わっている木島俊夫」
「それと、李美花を使って父親を徹底的に追い詰めた斎藤愛理。二人同時に待ち伏せて仕留める。俺ならそうする」
 後藤の視線が突き刺さるように鋭くなっていた。

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