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猿飛佐助

第21話『愛憎怨怒なき剣よ』

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 座禅を組むとき、たなごころを上にした右手の上に、左手を置く。これは、心の動きを司る右手を、無念無想の左手で抑えるという意味合いがあるという。
 ある方面では『神の左手、悪魔の右手』と言われることもある。
 とかく、剣士たるもの闘争心と気迫は必須なれど、不動心で用いなければすべてが無駄となるのを心得ている。
 そして、忍者。
 忍びという文字は、刃の下に心がある。これは、刃を心胆で支えると看る者もいれば、心を刃で殺すと観る者もいる。実際は、後者であろう。

 転じて、左という方向には敵意が現れるという。
 果たし状は左封じである。

 剣士であれ、忍者であれ、技術を鈍らせる愛憎怨怒を不動心で抑えねばならぬのは道理である。
 故に、達者であればあるほど剣を執って殺傷するにあたり意は介在することが少ない。指示であれ命令であれ運命であれ、状況に対して術が反応し、技を繰り出す。

ほこを止めると書いて、『武』か。止めるという字も、もとは行軍らしい。その皮肉に気付くか気付かざるか」
「ぶん殴って止めるってことか」
「がきんちょはそれでいいかもな。ま、『戦う覚悟と力をもって前にすすめ』――くらいにしとこうや」

 秋晴れであった。
 日は、中天に差し掛かりつつある。
 北から望む谷川岳は、紅が混じりつつある。抜ければ、あちら側もこちら側も冬に入るだろうか。

「ガキがけんかするなら、大人はなんで戦をするんだ」
「阿呆だからだろう」
「じゃあなんで剣術があるんだ」
「馬鹿だからだろうなァ」

 とりとめのない会話をしながら、馬の背に揺られ揺られて、お藤は背中を預けている宗章に頭突きを繰り返している。胸板に当たる少女の後頭部を顎で迎撃しながら、宗章は「佐助と会うのが怖いか」と問う。

「怖くはないけど」
「けど悲しいか。まあどっちかが死ぬものな。――痛いからやめんかこら」
「佐助には死んでほしくはないな」
「俺に死ねと」
「おっちゃんとは別に仲良くないし。……それに、佐助はきっと、生きても死んでも大坂に行くから」

 太閤の首を取りに。
 宗章にもそれはわかっていた。

「山猿が町に出て何するのかね」
「柴田家の宝物を世に返すっていってた」
「ああ。――」

 やはり死にに往くか。
 柴田が無念、漆手の意地は仁であろう。湯村の意地は義理であろう。果たして、進む勇気は無謀の類やもしれぬ。

「ここまで旅してきて、仲良くないはなかろうよ」
「気にしたのか」
「しておらぬよ」
「してるじゃないか。意外とさみしがり屋か。佐助と似てるな」
「してないと言うとろうに」

 軽口が終わる。
 お藤は谷川岳を望みながら、曇った顔のままだ。
 強がりは終わったのだろう。

「佐助は、おそらく抜ける際で待っておろう。隻眼鬼を倒した竹林の……こっちからは手前に、うってつけの雑木がある。雑木というか、赤松と杉だな。猿が飛ぶには申し分ない」
「話したいことがあるんだ」
「佐助にか。叶わぬだろう。あ奴に言葉はもはや届かぬ」

(少なくとも、俺との対決が了るまではな)

 尋常の対決を望むだろう。
 猿飛敗れたりとの言葉に囚われた佐助を相手にするには、新生猿飛と相対し、これを打ち破らねば剣者がすたるというものだ。佐助とて望むところであろう。
 ゆえに、少女が介在してよい部分は、対決の後にしかない。どちらかが敗北したのちにのみ許される。
 佐助は許さんだろうし、宗章も困るだろう。

「谷川岳の地蔵の物語を知っておるか」
「地蔵。――」

 肩越しに聞き返すお藤に、宗章は語る。

「働き者の姉弟がおってな。弟は山に入るとき、かならずお地蔵様に挨拶をしておったそうだ。『きょうは芝刈りするべさ』とか『獣を取りに行くべさ』とかな。山から出るときも『こんだけ刈ったべさ』『こいつを獲ったべさ』とな」

 姉弟としたのは、お藤と佐助を意識してのことである。

「姉は、弟が山に入ったら必ずお供えをして、『どうか弟をお守りくだせ』、無事に帰ってきたら『まっことありがとうございますだ』と手を合わせたそうだ」
「いい姉弟だね」
「ある冬、冬眠に失敗した熊が山野で人を襲うようになったときでも、弟は日々の生活たつきのためにどうしても獣を獲らねばならなかった。だから山に入ってしまった。お地蔵さまには『なにかあったら姉を頼みますだ』と言い残してな」

 馬が、ぶると文句を言いたそうに首を振る。
 宗章は苦笑交じりに無視すると、お藤が見る谷川岳に思いを馳せる。

「姉は祈る。お地蔵さまに『どうか弟を無事にかえしてくんろ』と。――」
「どうなったんだ」
「弟は無事に帰ってきた。鹿を仕留め、無事にな。ただ、山を出るとき、お地蔵様の姿がなかったそうだ」
「なかった。――」
「その後、猟師が熊退治に山に入ったとき、人喰い熊の死体を見つけた。腹の中から、砕けたお地蔵さまが見つかったそうだ。――谷川岳の身代わり地蔵の話だ」

 作り話ではない。
 宿場の飯盛り女が話していたものだ。谷川岳の鬼に次いで、長く語られている昔ばなしだそうだ。
 神仏は敬うようにとの教えだろう。

「だから、祈っておいてくれ」
「祈る、って。――」
「佐助の無事でもいいし、俺の無事でもいい。そして、帰ってきた者と一緒に越後を去れ。いいな、お藤」

 武者修行に出てから今まで、相手憎しで剣を振るったことはない。愛ゆえに斬ったこともない。怒りから抜いたこともなければ、怨みで狙ったこともない。
 だが武門の倣いでひたすらに斬った。
 ただ仁義ゆえに殺傷を施した。

まなこを鈍らす愛憎怨怒あいぞうえんど。果たして俺の剣は。――」

 ここにきて、己が剣の奪う命というものの重さを識る。
 この時代の命の価値は軽い。しかし厚い。不思議なものである。日常的に人は死ぬし、殺すし、殺される。そして生まれ、命を全うし、様々なものを残すのだ。
 死してすら残す。
 消えず、見えぬ存在になりながらも、残し、遺す。

「月影の境地とはいかぬか」
「月影。――」
水面みなもに映る月のこと。自分の心を凪いだ水面のように落ち着かせると、相手の心が月のようにはっきり映り、わかるようになるという――まあ屁理屈さ」
「そんなことができるのか」
「愛とか、憎悪とか、怨嗟とか、怒りとか、そういうものをなくして立ち向かえば、あるいはな、というくらいさ」
「怖いとか嫌だとか逃げたいとかは大丈夫なのか」
「…………面白いことをいう」

 確かにそうだ。

「戦わねばならぬというのも、剣者最大の因習とらわれかもしれんな。がきんちょに教えられるとは未熟よな、柳生宗章」
「山の生き物は危なかったら逃げるよ」
「命あっての物種か。けだし真理だ」

 宗章は笑う。

「犬と、猿か。はたしてどうなるかな。――」

 呟き、馬から降りる。
 少し歩けば、件の地蔵のそば、立ち木に手綱を括り付ける。お藤を下ろしてやると、ひとつ頭をなでて周囲を眺める。
 南に谷川岳、雑木林の先は拓けた崖っぷちである。あそこまで誘い出せば勝ち目はあるかもしれぬと彼は思った。
 遠く、谷川の小城が見える。旗頭はよく見えぬが、だれぞ詰めておるのはたしかであろう。

「もし誰も戻らねば、あの城に行け。おっさんがいるかもしれんからな」
「真田のおじさんのことか。どうだろうな」
「こういうとこには、真田の兵がいるだろうさ。直江の兵かもしれんが。いや、上杉の兵やも。どうかな」
「誰かいるから大人に相談しろってことか」
「俺よりしっかりしておる」

 馬の首を撫で、「たのんだぞ」と叩く。
 懐から六文銭を出すと、地蔵に供えて手を合わせる。

「どうも神仏にたのむのは性に合わんのだが、地蔵菩薩だけはなんとなくこうしてしまう」
「そうなのか。――」
「お供え物とかを拝借するときが多くてな」
「よくよく拝んでおいたほうがいいと思う」

 呆れ顔のお藤にニンマリと笑みを返すと、宗章は「さて」と立ち上がり、「ではな」と背を向けて雑木林へと向かう。少し坂を上がれば、ほどなく死地に突入するだろう。

(どうした宗章、おぬし怖いのか)

 自問する。腹の底がふるえているのが分かったからだ。
 敗北を喫した相手との再戦は初めてである。稽古ではない。殺し合いである。拾った命は、あくまで生き残ったのがアラ不思議のもの。
 歩みが止まりそうになる。

「仁と義、そして。――」

 ここで死ねば、お藤はどうなる。
 ここで退けば、お藤はどうなる。
 この宗章、仁も義もそこそこの風来坊であるが、柳生を名乗り、柳生新陰流を担うのならば、せめて勇――前に出ることを躊躇ってはなるまい。

「柳生宗章、おぬし怖いのか」

 言葉に出す。

「ああ怖い。が、怖いだけだ」

 鼻からゆっくりと息を吸い込み、口から細くゆっくり大きく大きく吐き出していく。
 三度四度と繰り返し、ぴしゃりと横隔膜を引き下げ、腹式呼吸で腸腰筋を引き締める。

 この歳になって初めて、怖いからこそ前に出られるのだと思い知る。
 雑木に入った瞬間、気配が揺れる。

「きえい」

 去来した奇声に併せ、宗章は初代兼定の太刀を右の手で抜き放ち、ぶわりと両手を広げて吠える。

「柳生宗章、お相手いたす」





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