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それぞれの了

第25話『小早川秀秋の了』

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 関ヶ原の合戦のきっかけは、徳川家康の上杉家討伐の軍事侵攻である。
 ときは一六〇〇年、秀吉の死後、たったの二年である。

「宗章、私を見るな」
「殿」

 かくして、小早川秀秋となった羽柴秀俊の家臣となった柳生宗章は、この関ヶ原の戦場にも近侍として付いてきている。戦が始まり、宗章の弟の宗矩がいる徳川家康の陣へと攻め込むため、今か今かと小早川軍は力を蓄えている。
 前日に、一万と五〇〇〇の軍勢を率い、南西は松尾山城に入城したのだ。そのやる気たるや、想像を超えている。
 西軍は、石田三成が率いる『豊臣恩顧の軍』。
 東軍は、徳川家康が率いる『新規権力の軍』。

 小早川秀秋は、かつては豊臣秀吉の後継者として建てられた、恩顧の将である。とうぜん、西軍の巨頭である。

「宗章、これ以上、わたしを見ないでおくれ」
「殿。――」

 甲冑姿の青年の後ろ姿は、涙なき慟哭に溢れていた。
 その顔を拝まぬまま、柳生宗章は城を去った。
 主君の気持ちを痛いほど分かっていたからである。

 関ヶ原の合戦が始まったのは、午前十時頃。
 西軍が有利に事が運んでいた頃合いである。

 しかし、西軍の巨頭である小早川秀秋は、松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。同じ西軍を攻撃し始めたのである。
 裏切りである。

 しかし、これを裏切りと取っていたのは、小早川家の家臣にはほとんどいなかったという。松尾某という大将はこの離反に同意せず、宗章と共に城を去った。ほとんどの家臣は、これを意趣返しと思っていたであろう。

「恩顧を仇で返すとは獣の心、小早川め七代祟ってくれるわ」

 と、攻め込まれた大谷吉継が吠えたのは時代に残っている。
 しかし、その実はどうであったろうか。

 羽柴秀俊が小早川秀秋になったとき、「これぞ豊臣の後継者」と、数多の武将はこれを持て囃した。さしもの賢き少年も、重鎮らによる持て成しに翻弄され、持ち上げられるまま、齢九つにして酒毒に犯されてしまう。

 アルコール依存症となった小早川秀秋だが、『小早川秀秋』となった五年後、あの秀吉に実子が生まれてしまう。
 豊臣秀頼である。
 完全に後継者のはしごを外され、あれほど持て囃した武将から見放され、残ったのはアルコールに犯された十二の少年である。

 彼を酒毒で震える手足にしたのは、豊臣恩顧の武将たちである。
 疎遠に見放したのは、豊臣恩顧の武将たちである。
 遠ざけたのは石田三成である。
 にっくきは西軍なのである。
 未来を奪ったのは豊臣の臭いそのものなのである。

(宗章、私を見るな)

 豊臣の自分のため命を賭けた家臣に、裏切るさまを、顔を、嬉嬉として泣く顔を見られたくはなかった。こんなにも嬉しそうに豊臣に引導を渡す私を、俺を、みないでおくれ。
 四肢の震えがピタリと止んだとき、東軍の勝ちが決まっていた。

 その後、秀秋への評は惨憺を極めた。豊臣家の養子として出世したにもかかわらずの卑劣な裏切り。恩顧の武将たちの西軍を崩壊させたことは卑怯極まりないものとして嘲笑を受けたのである。

 後年、岡山は五十五万石に封じられる。いかに徳川家康が小早川秀秋の『裏切り』に賭けていたのかが窺える。いや、賭けではなかったであろう。後年、銃を撃ち込み決意させたという言説が流れ、如何にも優柔不断なさまが描かれていく彼であったが、その実、とうぜんの儀を仕っただけのことである。

 そして二年。
 西暦一六〇二年、二十歳と少しの若さでこの世を去る。
 周囲の総てから裏切り者の誹りを受け続け地獄を生き、終まで裏切り者として豊臣の酒毒に狂い肉体を蝕まれ死んだ。

 小早川秀秋の了である。
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