猫が湯ざめをする前に

くさなぎ秋良

文字の大きさ
上 下
31 / 50

涙の主成分はお薬です

しおりを挟む
 くさなぎが映画を初めて観たのは、小学生のときだ。

 ある少女漫画に、オードリー・ヘップバーンの大ファンという設定のキャラがいた。オードリーを知らなかったくさなぎはそれで興味を抱き、衛星放送で全ての出演作を観たのだ。

 映画の内容は理解できず、共感するにはあまりにも世間知らずだった。ただ、映画を観ていることで大人になったような気分を噛み締めていた。

 中学生になると、映画で初めて泣いた。『ステラ』という作品である。ベット・ミドラー演じる母親の選んだ道に納得いかないまま、その愛に号泣した。

 大学時代は、貪るように映画を観た。某大手レンタルショップでアルバイトをしていたので、社員割引があったのである。ここぞとばかりに名作と言われるものを手当たり次第に観た。
 今まで何百という映画を観てきたが、七割はこの時期に観たものだと思われる。

 泣ける映画を観る日は真夜中の暗い部屋でソファに胡座をかき、タオルケットにくるまってティッシュの箱を抱えて観る。
 そして、えずくまで大泣きする。まるでダムから水を抜くように涙も鼻水も噴き出しっぱなしである。観終わったあとは映画の余韻に浸るのが快感だった。アルコールに酔うのも好きだが、映画の世界に酔うことも好きだったのだ。

 映画で大泣きしたくさなぎは、しばらくして現実世界に戻ると、憂鬱や不安、苛立ちが一掃されているのに気づいた。洪水がいい土を運んでくるようなもので、手荒な方法ではあるが効果は絶大だった。

 社会人になると、知人がこう教えてくれた。

「思いきり泣くって良いんだよ。ただし、自分のこと以外でね」

 それを聞いた当時、もうタオルケットにくるまって映画を観ることもなくなっていた。そのかわり映画ではなく、自分のことでよく泣いていた。

 人間の背筋と視野は無意識のうちに縮んでいく。意識しなければ、自分の世界が徐々に狭くなる。見えないものが増える。そんなとき、知人の一言で映画と過ごした日々を思い出し、世界が開けた気がした。

 自分の境遇を悲嘆して迎える明け方は体の芯まで冷たくて、とげとげしかった。けれど、映画を何本も観終わった明け方の空は美しく清々しかったではないか。自分の悩みなんてちっぽけに見えるほどに。

 映画や小説、漫画といったフィクションに涙を流すのは精神衛生上とても良いのだろう。しかしくさなぎは、自分のことでも思いきり泣いていいと考えている。
 世界でたった一人になったような孤独感や、居場所がないような心許なさ、暗闇に閉じ込められた終わりの見えない絶望にとらわれても、泣いてどん底まで行ったと思えたら、あとは浮上するだけなのだ。思いきり泣いて泣いて吹っ切れたとき、歩くべき道がモーセの十戒のように現れる。

 涙の主成分は心のお薬なのだ。心の目に目薬をさし、熱をとり、痛みを和らげ、詰まったものを押し出し、炎症を抑えてくれる。

 泣きたくなったら、風呂で泣けばいい。顔が濡れてもお湯か涙かわからない。全部、湯船の中に落として溶かし、最後には「えいや」と、綺麗さっぱり流してしまえばいいのである。

 さて、今宵はここらで風呂を出よう。

 猫が湯ざめをする前に。
しおりを挟む

処理中です...