猫が湯ざめをする前に

くさなぎ秋良

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オブラートはどこへいった

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 猫という生き物は言葉の代わりに全身で感情を表現する。ヒゲ、耳、目、尻尾を見ていれば、思ったより雄弁な生き物だと思うだろう。猫にとっても人間にとっても、ジェスチャーは記号のようなものでわかりやすい。

 しかし、言葉となると難しい。『オブラートに包む』という表現があるが、ときには直接的ではなく遠回しに言うことも大事である。オブラートを忘れて、なんでもストレートにものを言っては大変なことになりかねない。

 ところが、舅も、姑も、小姑コハルさんも、このオブラートをどこかになくしてしまったタイプである。『言わなきゃいいのに』ということを、何も考えずに言ってしまうのだ。

 ある日、コハルさんの娘がくさなぎの肩もみをしてくれた。くさなぎは重度の肩こりと腰痛持ちで、整骨院に行くと「表面はそうでもないけど、奥がひどいですね。腰もぎっくり腰寸前ですよ」と言われる。

 しかし、姪は言った。

「全然こってない。柔らかい。やっぱりさ、優しい人は心も体も柔らかいんだよ」

 姪よ、柔らかいのはおそらく妊娠太りでついた贅肉のせいである。そう思いながらも、優しいと言われるとまんざらでもない。

 ところが、姑が笑顔でこう言い放った。

「だって、全然肩こるようなこと、してないもんね?」

 恐ろしいことに、これが皮肉でもなんでもなく、まったく悪気がないのである。姑が言いたいのは、「外で仕事をしているわけでもないしね」ということだが、くさなぎにしてみれば「育児も家事も肩こるんじゃ」と反論したかった。だが、育児を知らない姑には、子ども二人の世話を365日24時間する辛さは理解できない。

 舅も姑も失言が多いのだが、最も失言の多いコハルさんを「あんなこと言っちゃいけねぇよ」と諭している。目くそ鼻くそである。

 よくよく聞いてみれば、おマサさんもオブラートを持たずに生まれてきた人だったらしい。

 コハルさんが多感な中学生の頃だ。コハルさんあての電話を受けたおマサさんはこう言った。

「あぁ? コハル? 今な、う◯こ。しばらくかかるぞ」

 おマサさんの大きな声はトイレまで届いたらしく、コハルさんは便器に座ったまま「ぎゃあああ!」と叫んだらしい。相手がクラスメイトだっただけでも恥ずかしいが、もし好きな人だったら立ち直れないことだろう。
 オブラートは気遣いでできていると、くさなぎはしみじみ思うのであった。

 さて、今宵はここらで風呂を出よう。

 猫が湯ざめをする前に。
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