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第一話
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町の外に出れば見えてくるのは自然豊かな大地。木々が生い茂る森には瑞々しい果実や種類豊富な山菜が。太陽の光でキラキラと光る小川には脂がのった魚や、美味しい水を求めてやってきた小動物達が。そして、それらを糧とする人々もまた日常の光景として組み込まれていた。
一見すれば生態系の頂点に立っている人類であったが、同じ位置に立つ種が別にあった。
魔物。人類がいつどうやって誕生したのか完全にはわからないように、魔物もまたそのルーツはわからない。だが、人類と魔物は長い年月争い続けてきたということだけは間違いないことと言える。なにせお互いに捕食者であり被食者なのだ、生きる為には当然の関係であった。
しかし、魔物に対して人類は弱かった。弱肉強食の自然界で生きる魔物は動物に似た姿や特性を備えている為、繁殖力も成長も早く、何より持って生まれた能力が高い。それに対して人という種は賢く進化してきたが為に秩序を重んじ、平和の生活を手に入れた代償として肉体的な強さは魔物には到底及ばない。
互いに魔力という超常の現象を引き起こす力を備えているものの、基礎となる力が違うのでは勝敗は火を見るより明らかだ。そこで人類は心を鍛え、技を鍛え、体を鍛え己を戦士へと昇華させた。そうして得た力は魔物とのパワーバランスを均衡にまで持ち直すに至った。
しかし、人類全てが強さを手に入れたわけではなくむしろ大多数が弱いままだと言える。それも当然だ、皆が強くなろうと己を鍛えるだけでは生活は成り立たない。着る物も食べる物も住む家も、如何に強くなろうともそれだけでは手に入らないのだから。生産者がいる、流通する仕組みがある、消費者がいる、これらがあるからこそ生活は豊かになっていく。つまりは戦士はごく一部だということになる。
「ひっ、来ないで……来ないでください」
そして、残念なことに今魔物に襲われている少女は戦士ではなかった。名前はティナ、小さな宿屋の一人娘であり少しでも家計の足しになればと日課である薬草の採集に森に来ただけの一般人でしかない。
下衆な笑みを浮かべながら少女に近づく魔物はゴブリン。醜悪な容姿と獣臭さ、成体でも子ども程度の大きさが特徴としてあげられる比較的弱い魔物だが、そんな存在が周りを囲むように何十匹もいるティナにしてみれば悪鬼羅刹にしか見えなかった。
「逃げなきゃ……逃げっ!?」
震える足で少しずつあとずさりしていたが、巨木の根に引っかかり尻もちをついてしまった。金色の長い髪を下敷きにするように座り込んでしまい非常に立ち上がりにくい。薬草の採集の為動きやすい恰好をしているが、これでは逃げようとしても万に一つも成功しないだろう。それを理解したのかティナの顔色は見るからに悪くなっていく。堪えきれなくなった涙が頬を伝い、それを見たゴブリンの笑みがますます下衆なものへと変わっていく。
ティナの脳裏に浮かぶのは家を出る時に心配そうにしていた母の顔と、申し訳なさそうな父の顔であった。決して繁盛しているとはいえない宿屋ではあったが、ティナにとっては大好きな我が家であった。家の仕事を手伝いながらたまにある暇な時間は全力で友達と遊んでいた。もうそういったことが出来なくなる。まるで走馬灯のように思い出が頭の中で流れていく。
結局のところ今回は人が被食者で魔物が捕食者であった、ただそれだけのことでしかなく、世界中でいつでも起こり得る話でしかない。けれど自分の身に起こるとは誰も思っていない出来事だからこそ絶望感は溢れる。
「……死にたくないよ」
涙で視界が悪くなったのは不幸中の幸いだろう。空腹で仕方なかったゴブリンは涎をダラダラと垂らしながら、血走った眼をしていたのだ。恐怖で縛られた今の状態でこの顔をしっかり見てしまったのならば、もはや正気ではいられなかっただろう。
「誰か、誰か助けて!!」
それでも怖いものは怖い。無駄と分かりながらもティナは叫んだ。心の底から今までに一度も出したことのない大声を上げて叫んだ。喉がおかしくなっても構わない勢いで叫んだ。実際には頭を両手で抱えながら体を丸め、恐怖で声も上ずっていたため大した叫びではなかったのだが、そんな叫びでも聞き取ってくれる人がいればそれは大きな意味を持つ。
「もう大丈夫だ」
「……え?」
それはひどく優し気な声であった。直接耳に語り掛けられたような錯覚を覚えたティナは、強張っていた体が解きほぐされていくのを実感する。見たくもない現実から目を逸らすために閉じた瞳であったが意を決して、けれど恐る恐る開くと少し癖のある髪をかき上げ気怠そうにしている青年がティナを庇うように立っていた。
青年が戦士である確証などどこにもなく、体格はお世辞にも良いとは言えないのでゴブリン一匹でも苦戦しそうな印象を受ける。だが、腰に下げられた剣と先ほどの優し気な声でティナの心を支配していた不安や恐怖は薄れていき、何の根拠もなくこれで大丈夫だと思ってしまった。それ程までに精神的に追い詰められていたようだ。
「助けて……くれるの?」
「ああ。さすがに見過ごせないからな」
ティナの涙声に青年は振り返ることなく返事をすると、会話の内容を理解したのかゴブリンが威嚇してくる。せっかくのご馳走を前にして邪魔が入ったのだ、その怒りは相当なものだろう。だが、ゴブリン達は自分達が負けるとは微塵も思っていない。ただ食事の時間が遅くなり量が多くなるだけ、腹立たしいがむしろ望ましいことだと考えていた。
「それにこいつらには確認したいことがあるんでね」
青年の優し気な雰囲気が四散し、強烈な殺気がゴブリンにたたきつけられる。威圧、魔力を必要とせず、武術にせよ魔術にせよある一定以上の実力を持つ者であれば造作もなく放てると言われている超人が持つ技術の一つ。
ゴブリンのみを対象としていたようだが、青年の雰囲気が変わったかのような印象だけはティナにも捉えることができたようだ。そう、一般人であるティナにも青年から発せられる確かな強さを感じとることができたのだ。
だというのにゴブリンは一匹たりとも逃げていない。野生で生きていれば相手の強さを多少なりとも測れるものだが、青年の威圧はゴブリンが恐れ逃げだすには十分すぎるものにも関わらず、尚この場に留まっている。
それはまるで恐れる心を持ち合わせていないような。より正確に言えば心が壊れてしまっているような。ゴブリンの生物としての本能は食欲しか残っていない、そう思わせるほどに威圧の効果はなかった。
「やっぱ逃げないか……面倒だな」
もはや戦闘は避けられないと判断したのだろう、青年は大きなため息をつくと腰に差した剣の柄に手をかける。一方でゴブリン達も自らが選び抜いた武器、棍棒を構え体勢を低くして戦闘に備えていた。
「すぐに終わらせるからそこから動かないでくれよ?」
「はっ、はい!」
ティナが大きく返事をすると、満足気な笑みを浮かべた青年は無造作にゴブリンに近づいていく。散歩にでも行くかのようにゆっくりと、ゴブリンなど歯牙にも掛けないような悠然とした態度で一歩ずつ距離を詰めていたが……一瞬ぶれたかと思うと、溶けるようにその体がかき消えてしまった。
一見すれば生態系の頂点に立っている人類であったが、同じ位置に立つ種が別にあった。
魔物。人類がいつどうやって誕生したのか完全にはわからないように、魔物もまたそのルーツはわからない。だが、人類と魔物は長い年月争い続けてきたということだけは間違いないことと言える。なにせお互いに捕食者であり被食者なのだ、生きる為には当然の関係であった。
しかし、魔物に対して人類は弱かった。弱肉強食の自然界で生きる魔物は動物に似た姿や特性を備えている為、繁殖力も成長も早く、何より持って生まれた能力が高い。それに対して人という種は賢く進化してきたが為に秩序を重んじ、平和の生活を手に入れた代償として肉体的な強さは魔物には到底及ばない。
互いに魔力という超常の現象を引き起こす力を備えているものの、基礎となる力が違うのでは勝敗は火を見るより明らかだ。そこで人類は心を鍛え、技を鍛え、体を鍛え己を戦士へと昇華させた。そうして得た力は魔物とのパワーバランスを均衡にまで持ち直すに至った。
しかし、人類全てが強さを手に入れたわけではなくむしろ大多数が弱いままだと言える。それも当然だ、皆が強くなろうと己を鍛えるだけでは生活は成り立たない。着る物も食べる物も住む家も、如何に強くなろうともそれだけでは手に入らないのだから。生産者がいる、流通する仕組みがある、消費者がいる、これらがあるからこそ生活は豊かになっていく。つまりは戦士はごく一部だということになる。
「ひっ、来ないで……来ないでください」
そして、残念なことに今魔物に襲われている少女は戦士ではなかった。名前はティナ、小さな宿屋の一人娘であり少しでも家計の足しになればと日課である薬草の採集に森に来ただけの一般人でしかない。
下衆な笑みを浮かべながら少女に近づく魔物はゴブリン。醜悪な容姿と獣臭さ、成体でも子ども程度の大きさが特徴としてあげられる比較的弱い魔物だが、そんな存在が周りを囲むように何十匹もいるティナにしてみれば悪鬼羅刹にしか見えなかった。
「逃げなきゃ……逃げっ!?」
震える足で少しずつあとずさりしていたが、巨木の根に引っかかり尻もちをついてしまった。金色の長い髪を下敷きにするように座り込んでしまい非常に立ち上がりにくい。薬草の採集の為動きやすい恰好をしているが、これでは逃げようとしても万に一つも成功しないだろう。それを理解したのかティナの顔色は見るからに悪くなっていく。堪えきれなくなった涙が頬を伝い、それを見たゴブリンの笑みがますます下衆なものへと変わっていく。
ティナの脳裏に浮かぶのは家を出る時に心配そうにしていた母の顔と、申し訳なさそうな父の顔であった。決して繁盛しているとはいえない宿屋ではあったが、ティナにとっては大好きな我が家であった。家の仕事を手伝いながらたまにある暇な時間は全力で友達と遊んでいた。もうそういったことが出来なくなる。まるで走馬灯のように思い出が頭の中で流れていく。
結局のところ今回は人が被食者で魔物が捕食者であった、ただそれだけのことでしかなく、世界中でいつでも起こり得る話でしかない。けれど自分の身に起こるとは誰も思っていない出来事だからこそ絶望感は溢れる。
「……死にたくないよ」
涙で視界が悪くなったのは不幸中の幸いだろう。空腹で仕方なかったゴブリンは涎をダラダラと垂らしながら、血走った眼をしていたのだ。恐怖で縛られた今の状態でこの顔をしっかり見てしまったのならば、もはや正気ではいられなかっただろう。
「誰か、誰か助けて!!」
それでも怖いものは怖い。無駄と分かりながらもティナは叫んだ。心の底から今までに一度も出したことのない大声を上げて叫んだ。喉がおかしくなっても構わない勢いで叫んだ。実際には頭を両手で抱えながら体を丸め、恐怖で声も上ずっていたため大した叫びではなかったのだが、そんな叫びでも聞き取ってくれる人がいればそれは大きな意味を持つ。
「もう大丈夫だ」
「……え?」
それはひどく優し気な声であった。直接耳に語り掛けられたような錯覚を覚えたティナは、強張っていた体が解きほぐされていくのを実感する。見たくもない現実から目を逸らすために閉じた瞳であったが意を決して、けれど恐る恐る開くと少し癖のある髪をかき上げ気怠そうにしている青年がティナを庇うように立っていた。
青年が戦士である確証などどこにもなく、体格はお世辞にも良いとは言えないのでゴブリン一匹でも苦戦しそうな印象を受ける。だが、腰に下げられた剣と先ほどの優し気な声でティナの心を支配していた不安や恐怖は薄れていき、何の根拠もなくこれで大丈夫だと思ってしまった。それ程までに精神的に追い詰められていたようだ。
「助けて……くれるの?」
「ああ。さすがに見過ごせないからな」
ティナの涙声に青年は振り返ることなく返事をすると、会話の内容を理解したのかゴブリンが威嚇してくる。せっかくのご馳走を前にして邪魔が入ったのだ、その怒りは相当なものだろう。だが、ゴブリン達は自分達が負けるとは微塵も思っていない。ただ食事の時間が遅くなり量が多くなるだけ、腹立たしいがむしろ望ましいことだと考えていた。
「それにこいつらには確認したいことがあるんでね」
青年の優し気な雰囲気が四散し、強烈な殺気がゴブリンにたたきつけられる。威圧、魔力を必要とせず、武術にせよ魔術にせよある一定以上の実力を持つ者であれば造作もなく放てると言われている超人が持つ技術の一つ。
ゴブリンのみを対象としていたようだが、青年の雰囲気が変わったかのような印象だけはティナにも捉えることができたようだ。そう、一般人であるティナにも青年から発せられる確かな強さを感じとることができたのだ。
だというのにゴブリンは一匹たりとも逃げていない。野生で生きていれば相手の強さを多少なりとも測れるものだが、青年の威圧はゴブリンが恐れ逃げだすには十分すぎるものにも関わらず、尚この場に留まっている。
それはまるで恐れる心を持ち合わせていないような。より正確に言えば心が壊れてしまっているような。ゴブリンの生物としての本能は食欲しか残っていない、そう思わせるほどに威圧の効果はなかった。
「やっぱ逃げないか……面倒だな」
もはや戦闘は避けられないと判断したのだろう、青年は大きなため息をつくと腰に差した剣の柄に手をかける。一方でゴブリン達も自らが選び抜いた武器、棍棒を構え体勢を低くして戦闘に備えていた。
「すぐに終わらせるからそこから動かないでくれよ?」
「はっ、はい!」
ティナが大きく返事をすると、満足気な笑みを浮かべた青年は無造作にゴブリンに近づいていく。散歩にでも行くかのようにゆっくりと、ゴブリンなど歯牙にも掛けないような悠然とした態度で一歩ずつ距離を詰めていたが……一瞬ぶれたかと思うと、溶けるようにその体がかき消えてしまった。
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