上 下
31 / 34

31、新五利治/本能寺

しおりを挟む
夜明け前に到着した妙覚寺の門をくぐり、まっすぐ信忠様の寝所へと向かった。
しかし遅くまで本能寺で信長様と酒を飲んでおられた信忠様は、声を掛けても気付かぬほど、ぐっすりと眠りこんでおられた。

困り果てていると、ちょうど供廻りの兵助の姿があった。兵助は美濃から京まで信忠様にずっと付き従っていたはずだ。

「兵助よ!わしじゃ、新五じゃ。お主に聞くが、この妙覚寺に来て何か不穏なことはなかったか」

「いえ…特に今の所はございませぬが。新五殿はいかがなされたのです?美濃におられるはずではなかったのですか?病だと伺いましたが」

「病?」

わしが戦に出ず信忠様の供もせぬのは、どうやら病と喧伝されているらしかった。側近が側におらぬのには理由も確かに必要であろう。

「病などとうに治った。それよりも、光秀殿は今はどうしておられる」

「明智殿なら、中国攻めの援軍を任されたゆえ、丹波で出陣の準備をなさっておられるはず」

丹波も中国も、京とはまるで方角が違う。
寺の周りも警固番に囲まれ、辺りは静まり返っている。
ひとまず今宵は何も起こるまい。
夜が明けたら早々に信忠様、そして信長様に進言せねばならぬ。

翌朝、妙覚寺の住職である兄上へ挨拶を済ませ、信忠様の朝の支度が済むのを待っていた明け六つ頃(午前六時頃)、本能寺から急使が駆け込んできた。

「申し上げます!明智光秀、謀反にございます!10,000人余りの兵を従え、本能寺に討ち入り、寺は既に火に巻かれておりまする!じき光秀は妙覚寺にも参りましょう。急ぎ、お逃げ下され」

わしは呆然とした。何のためにわしは京へやって来たのか。

信忠様は裸足で境内へと駆け出ると、遠くに立ち上る黒煙を目にされた。

「わしはこれより本能寺へ行く」

信忠様は申されたが、既に敗色強く、また堀と明智勢に囲まれた本能寺に入るのは至難の業であった。

「それはなりませぬ。どうか安土まで、お逃げ下され」

わしが言うと、信忠様は驚いて目を見開いた。

「新五ではないか。お主、ようここへ参ったな。戦に出るなと言われておったに急にやってくるとは、虫の知らせか」

「信忠様と命運を共にするのが、わしの務めにございますれば」

「そうか。よい心がけじゃ。じゃがわしは逃げぬ。光秀のことよ、わしが逃げられぬよう既に策を弄しておろう」

信忠様は先へ先へと考えを巡らすお方であった。それをこの非常時にやってのけるとは、さすがわが主は天下人になるお方よ。改めて信忠様に敬慕を抱きつつ、次の手段を示した。

「されば、妙覚寺を出て二条の御城へ参りましょう。御城ならば兵が来るまで持ちこたえましょう」

我らは急ぎ妙覚寺を出た。
御城におわした親王様がたを逃れさせ、御城にて籠城の構えに入った。

信忠様の手勢は当初わずか500ほどであったが、その後在京の織田の味方が駆け付け、1500ほどにまで増えた。加治田衆を率いて来なんだことが、心より悔やまれた。

午の刻(正午ごろ)、明智の軍勢が御城を取り巻いた。
もはや、我ら織田勢に命を惜しむ者はいない。この御城を死地と決めた我らの体からは陽炎が立ち登り、その妖気は明智勢を切り裂く勢いであった。
満を持して、信忠様が雄叫びを上げた。

「いけや―!我ら武田を討ち果たした猛者ぞ、光秀など何ほどのことやある!」

 「おおーっ!」

迫り来る明智勢に、我らは狂ったように襲い掛かった。
敵は見知った顔ばかりだが、幸いじっくり顔を見ている暇はない。

槍を八の字に振り回し、飛んでくる矢を薙ぎ払う。と、黒い胴丸姿の男が槍を後ろに引き付けながら、わしの腹を目掛けて突っ込んでくる。

「うらあ!」

わしは声を上げながら、男の首を横から槍で叩きつけ、払い投げた。
男が視界から消えると、その背後から前立のない兜姿の男が奇声を上げて刀を振り上げる。

「きええーッ」

わしは槍で男の刀を受けながら、左手で腰の刀を抜き、男の腹を突き破った。

横たわるいくつもの遺骸を跨いで前に進む。首からおびただしい血を流して死んでいるのは、兵助だった。

兵助の先には百貫もありそうな大男がそびえていた。武具が折れたのか、大男は素手でわしに飛びかかってきた。

組み伏せられ倒れるが、地面のそばに矢を見つけると、すぐさま掴んで大男の背中に突き刺した。のけ反った隙に男の体から這い出ると、男の背中に馬乗りになり髷を掴み、後ろから首を切りつけた。

隣で死闘を繰り広げていた男の刀の切っ先が、左腕を掠める。血が滴り落ちたが気にも止めない。殺す相手を探しながら、さらに先へ進んでいく。

槍で二十人ほど薙ぎ倒したであろう頃、斎藤利三の姿が見えた。
利三もわしの姿を認めると、長い槍を備え、こちらに向かってまっしぐらに走ってきた。

「斎藤新五利治―っ、お主、利堯様の計略にまり、まんまとここへ参ったな。今頃美濃では、稲葉殿が利堯様を担いで、岐阜城を抑えておるわ。信長の臣下になり下がり、命を散らしに来た愚か者よ。利堯様こそ、美濃の主にふさわしい」

兄上か。やはり兄上か。

先の戦で一年以上城を開けた際、兄上は着々と策を練っていたのだろう。稲葉と結託し、縁のある斎藤利三を用いて、光秀を唆し謀反を起こさせたのか。
安藤が武田と内通したという話も、或いは兄上の作り話かもしれぬ。

「おのれ、謀ったか!うぬを生かしてはおかぬ」

わしは雄叫びを挙げて槍を掲げた。
利三とわしの槍が空に浮き、音を立てて火花を散らした。
こやつは強いとすぐに感じた。

利三の素早い槍さばきが、わしを受け身にさせた。蹴りを食らわそうと足掻くが、隙が出来ると利三の槍は怒濤のように降ってくる。
突き合わせるうちに、ついにわしの槍が折れた。

急ぎ腰のものを抜こうとするが、その隙をついて、利三はわしのこめかみに槍を食い込ませた。

頭が激しく揺れた。
目の前が暗くなり、膝が体を支えきれず倒れこんだ。やがて、腹にも鋭いものが入ってきた。

寒い。体がどんどん冷えてゆく。
信忠様はどうされているか。

「ちちうえ」

空耳だろうか。
蓮与の声が聞こえたような気がした。

「ちちうえ」

いや、違う。この声は幼い頃のわしだ。
手を伸ばすと、父上がわしの手を取った。

「よう来たのう。待ちわびたぞ」



その頃近江では、一人の早馬が、野盗に襲われ無残な死を遂げていた。
その男の懐には、文があった。

――斎藤新五利治殿

近く、信長様と信忠様を討つ。
わしは美濃をもう一度、土岐の手に戻したい。
明智、引いては土岐の血を引き、道三様のお子でもある新五殿こそ、美濃の主となるべきである。
稲葉は甥の利堯殿を主にと目論んでおるが、わしは新五殿こそふさわしいと思っている。
追放された安藤守就も同じ思いでおる。
新五殿は即刻安藤を解放し、安藤と共に岐阜城の利堯殿と稲葉を排除し、岐阜城を収めるよう、切にお願い申し上げる。
                      ――明智日向守光秀
しおりを挟む

処理中です...