【小説】ヒーローのいない街で

文人画人【人は悩む。人は得る。創作で。】

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第四章:熱狂と虚無

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ケンジの獣のような咆哮は、地下の観客たちを熱狂の渦に叩き込んだ。
彼らが求めていたのは、台本通りの綺麗な勝利ではなかった。
彼らは、経済不安や社会の閉塞感という、姿の見えない巨大な「敵」に毎日殴られ続けている。
だからこそ、自分たちの代わりにその身に痛みを受け、血を流し、それでもなお立ち上がって吠える「生贄(スケープゴート)」を求めていたのだ。

ケンジの戦いは興行(ショー)だった。
だが、肉体に刻まれる痛みは本物だった。
その叫びに滲む後悔は本物だった。
観客は、その嘘のない「本物」の感情に酔いしれた。

ケンジの戦いは、誰かが隠し撮りしたスマートフォン動画を通じて、瞬く間にネットの海へ拡散された。
『謎のヒーロー、地下リングに現る』
『彼の叫びは、現代社会への怒りそのものだ』

動画はノイズまみれで、画質も粗悪だ。
だが、地下の薄暗い照明が、男たちの飛び散る汗と血を艶めかしく照らし出している。
そこには、CGもワイヤーアクションもない。
ただ、殴り、殴られ、喘ぎ、叫ぶ、一人の「レッド」がいるだけだ。
人々は、その泥臭い姿に、新しい時代のヒーロー像を幻視した。

スーパー戦隊の終焉は、古い価値観の死を意味していた。
人々は、伝統や過去の栄光に縋ることに疲れ果てている。
彼らは、この予測不能な未来を共に這いつくばって歩む、新しい象徴に飢えていた。
輝かしい未来像。夢。希望。
そんな白々しい言葉を、もう誰も信じていない。
だが、この「レッド」は、ビジョンではなく「痛み」を共有してくれた。
「お前らと同じように、俺も痛いんだ」と。
「お前らと同じように、俺も叫びたいんだ」と。

ケンジは、一夜にして地下の英雄となった。
手に入れたファイトマネーで、当面の生活苦からは解放された。
アパートの冷蔵庫は、発泡酒ではなく本物のビールで満たされた。
だが、ケンジの心は満たされるどころか、乾いていく一方だった。

試合後の控室。
ひび割れた鏡に、自分の顔が映る。
紫色に変色した痣。ドス黒く腫れ上がった瞼。

「……これが、ヒーローか」

勝利の高揚感など微塵もない。
あるのは、泥のような疲労と、底知れない虚無感だけだ。

(俺は、誰かを救ったのか?)
(違う)
(俺は、ただの見世物だ)
(俺の痛みと後悔を切り売りして、奴らの鬱憤を晴らしているだけだ)
(あのショッピングモールの男も、路地裏の少年も、公園の子犬も、誰一人として救ってはいない)
(俺はあの時と同じだ。リングという安全な檻の中から、観客の熱狂という名の傍観者に守られているだけだ)

彼は惰性でSNSを開く。
画面には、自分の戦いを賞賛するコメントが溢れ返っていた。
『レッドこそ、日本を救う真のヒーローだ』
『彼の雄叫びに勇気をもらった』
『俺たちの怒りを体現してくれている』

(日本を救う?)
(勇気?)
(冗談じゃない)

ケンジはスマートフォンをソファに投げ捨てた。
リングに上がれば上がるほど、熱狂が大きくなればなるほど、あの日の後悔が色濃く蘇る。
血液が沸騰するような感覚。
だが、その熱はリングの上で暴力としてしか解放されない。このままでは、本当にただの野獣に成り下がる。

「違う……これじゃない」

ケンジは、控室の隅に置いてあった、あの古い「レッド」のマスクを手に取った。
撮影用の、歴戦の傷が刻まれたFRPのヘルメット。
彼は静かにそれを被った。
視界が、細く暗いスリット越しに限定される。
内側に染み付いたウレタンと汗の匂いが、強烈に記憶を呼び覚ます。

(ヒーローとは、何だ)
(この世界の不安を払拭し、明確な未来像という夢を見せる存在?)
(そんなものは、もうどこにも存在しない)
(なら、俺は何だ)

彼は鏡を見る。
鏡には、傷だらけの「レッド」が映っている。
それは、テレビの中の完璧で美しいヒーローではない。
地下で殴り合う野蛮な見世物でもない。
ただ、後悔に苛まれながら、それでも立とうとしている一人の男の姿だった。

(もし、あの時)
(俺が、このヘルメットを被ってでも、立ち上がっていたら……)

後悔が、再び彼の血液を沸騰させた。
だが、今度の熱は、虚無感を伴っていなかった。
それは、明確な「目的」を持った、静かで青い炎のような熱だった。

(まだ、間に合うか)
(いや)

ケンジは、ヘルメットを脱ぎ、その目を鏡の中の自分に向けた。

(間に合わせるんだ)

彼は、地下のリングではない、本当の「戦場」へ行くことを決意した。
彼が戦うべき「敵」は、「増税」や「インフレ」などという安直な名前のレスラーではない。
彼が救うべきは、熱狂して憂さ晴らしをする観客ではない。

彼が戦うべき敵は、かつて彼が見過ごし、目を背けた「日常に潜む悪意」そのものだ。
彼が救うべきは、今この瞬間も、どこかの路地裏や部屋の片隅で、声なき悲鳴を上げている「かつての彼ら」だ。
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