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天狐(後編)
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俺は白蓮が出してくれた茶を一口飲んでみた。まろやかで香ばしいほうじ茶だった。
「ゴンの妖術は、白蓮さんが教えられたんですよね?猫に妖術を教えるのは大変じゃなかったですか?」
「そうですね。ゴンは器用な子でしたが、やはり私も狐以外の子に妖術を教えるのは初めてだったので、一筋縄ではいかないことも多々ありましたね…」
「でしょうね。あんなに妖術に長けた『猫又』は見たことがありせん。教えられたお師匠さんは相当苦労されたんじゃないかと思ってました」
「でも私があの子に教えたことより、あの子から教わったことのほうがずっと多いように思います。お陰でこうやって、狐以外の子どもたちも引き取れるようになりましたしね」
そう言うと白蓮はもう随分冷めてしまった茶を一口のんだ。
外の鐘楼に吊り下げられていた鐘が、時の流れを告げるように響く。遅れて子どもたちの楽しそうな笑い声が聞こえる。
「ゴンをここで働かせようとは、思わなかったのですか?」
俺はさっきから気になっていたことを聞いてみた。白蓮は狐の寺で『猫又』を育てるのに相当な苦労をしたのだ。その分ゴンへの思い入れも強いだろうということは想像に難くない。それにゴンは怠け者体質とはいえ、あれだけの妖術が使えればこの寺でだってきっと役に立つ。白蓮とゴンは仲が悪いというわけでもなさそうだし、どうして手放したのだろうか。
「ゴンをここで、ですか?」
白蓮は少し驚いたような、困ったような顔をした。
「ゴンが望むなら、私はもちろん構いません。でも、私が育てたからといって、あの子をここに束縛しようとは思わない。大切な教え子ですが、私の所有物ではありませんから」
それを聞いて、白蓮はゴンのことを、俺が思っていたよりもっとずっと信頼しているのだろうと感じた。でなければこんな言葉はきっと出てこない。お互いを信頼しているからこそ、離れることを選択できたのだ。
「そうですか。あなたとゴンはお互いを信頼しているんですね」
俺がそう言うと、白蓮は朗らかに微笑んだ。
「『稲神様』だってそうでしょう。神様と、神使でもない妖が一緒に働くなんて、信頼関係がなければ成り立たないことです。それに、あの『河童』のお嬢さんはもしかして…」
バタバタバタバタ。
また外が騒がしくなってきた。そして本堂の入り口の扉が、いきなりバンと開いて、子どもたちとゴンと楓が本堂の中に慌てて駆け込んできた。
「おおおお寺になんか変なのが入って来た!!!」
「落ち着け楓、何があったんだ?」
「大蛇だよ。子どもたちを狙ってやって来たんだと思う」
「あれ?この前、結界を張りなおしたところだったんだけどね」
結界を破って入って来た?どこかで聞いたことがある話だ…。
「あの、すみません。もしかしたら、こいつが原因かもしれません。楓は結界を中和してしまうんです」
「なんと、そうでしたか。結界を?それは珍しい。どこかで結界破りの術を学ばれたんですか?それとも体質的な…」
「師匠、そんなのあとにして、早くあの大蛇なんとかしないと」
「そうだね。じゃあ、ゴンはお客様方と子どもたちを頼みます。大蛇は、私が行って見てこよう」
そう言うと白蓮は、まるでちょっとそこまで買い物にでも行くような気安さで、本堂の外に出て行った。
俺たちは少し開いた本堂の扉の隙間から外をうかがう。すると、本堂の仏像を一飲みにできそうなくらい大きな蛇が、門をくぐってこちらに近づいてくるのが見えた。
白蓮はその大蛇に、軽い足取りで近づいていく。大蛇は白蓮に噛みつこうとするが、白蓮は落ちてくる落ち葉を避けるように、手を後ろで組んだまま、するりするりとかわしていった。
そして白蓮は、大蛇から少し距離をとると、懐から木の葉を一枚取り出し、その葉になにか唱えた。すると、大蛇の身体が徐々に透き通った水に姿を変えていく。
その水に変化した大蛇を見上げながら、白蓮が胸元でパンっと手を鳴らした。その瞬間、大蛇の形をした水は、一気に蒸発し霧となっていった。
この寒さの中を漂う霧は、辺りに満ちた妖気を含みながら氷晶となり、陽の光を浴びて、きらきらと妖しげな光をちらつかせながら、白蓮の頭上に舞い降りていった。
その光景は、ひどく妖しく、恐ろしい夢を見た後のような昂りを、俺の心に残した。
すっかり霧が晴れると、こちらを振り返った白蓮の笑顔を合図に、本堂の中にいた子どもたちが一斉に飛び出して白蓮に駆け寄った。
「あれは『変化』の術の応用だよ。結構、難しい術なんだぜ」
子どもたちに続いて白蓮のところに向かいながら、ゴンがちょっと誇らしげに解説してくれた。本堂の外に出てみると、辺り一帯に満ちた強い妖気で、肌がチリチリするほどだった。
「あ、また石畳がボロボロになってしまったなぁ」
白蓮は壊れた石畳を見て肩を落とした。
「いっそのこと、全部粉々にして砂利にした方がいいんじゃないか?」
「ああ!それはいいかもしれないね」
白蓮とゴンは楽しそうに笑っている。
なぜこの寺がこんなにもボロボロなのか、今よく分かった。子どもたちを狙って、きっと今のようなことが頻繁にあるのだろう。その度に寺のあちこちが壊れてしまうのだ。
「せっかく来て頂いたのに、なんだか騒々しくてすみません。時々、結界の隙を狙って、ああいうのが入ってくるんですよ」
他の狐たちが皆辞めてしまったというのも、分からなくもないなと思った。あんなのを軽くあしらえる白蓮だからこそ、ここを続けていられるのだろう。
「ええっと、さっきは何の話をしているところでしたっけ。あ、そうそう。お渡ししたいものがあるんです。少し待っててください」
白蓮はそう言って先ほど自分が壊した石畳に躓きながら、庫裡の中に駆け込んで行った。
ゴンと楓の様子を見てみると、子どもたちと遊んでかなり疲れているようだった。今日は帰ったら早く休ませよう。
「お待たせしました。これをお渡ししたかったんです」
白蓮は、小さな桐の箱を持って戻って来た。
「これは、ある神様から頂いたお守りなんですよ。お嬢さんに差し上げます。『稲神様』のご加護があれば、まず心配はないでしょうけど、お嬢さんのような可愛らしい方には、お守りはいくつあってもいいでしょう」
白蓮は持ってきた桐の箱を楓の手にそっと渡して、ちらりと俺の方を見た。そして一瞬、ほんのわずか、にこっと微笑んでみせた。
たぶん、白蓮は楓が人間だということに気づいている。楓にかけた『目くらましの術』はすでに完成しているというのに、彼は俺の術を見破っているのだ。
先ほどの妖術といい、この白蓮という男は、一体何者なのだろう。
楓が、手渡された桐の箱を開けると、小さな螺鈿の首飾りが入っていた。俺は宝石や飾り物の類にはあまり眼識がないが、この首飾りは、そんな俺ですら高級なものだと分かる代物だった。
「これ、すごく貴重なもののように見えるんですが…本当に楓が、頂いちゃっていいんですか?」
「ええ、いいのです。ゴンがお世話になっているのですから。それに、このお守りは彼女のようなひとが持っているのが相応しいのです。肌身離さず持っていると良い。きっとあなたを守ってくれるから」
楓は嬉しそうに、白蓮からもらった首飾りをつけた。その首飾りについている螺鈿からは、この寺の空気のような「澄んだ気」が感じられた。
「それから、どうも天界で不穏な動きがあるという噂を耳にしました。『神堕ち』の件もありますし、あなた方も厄介なことに巻き込まれないよう、どうぞお気を付けください」
「ありがとうございます。もしお時間があれば、うちにもぜひ一度遊びに来てください。もちろん子どもたちが怪我や病気をしたときは診させてもらいますよ」
俺たちは、白蓮と子どもたちに別れを告げ、提灯小僧の牽く車に乗って帰路についた。
帰る途中の車の中、ゴンはなぜかいつもより口数が少なかった。
「なあ、瑞穂って『天狐』に会ったことあるか?」
「いや俺はまだ直接会ったことはないな。何でだ?」
「俺さ…師匠って実は、『天狐』なんじゃないかって思うんだよ」
そう言うゴンの横顔は風になびく髪のせいでよく見えなかった。
「なんで、そう思うんだ?」
「なんとなく…だけど」
「まあ『天狐』は自分のことを『天狐』だ。とは言わないらしいから、あり得るかもな」
それを聞いたゴンの口元が、わずかに微笑んだような気がした。
「ゴンの妖術は、白蓮さんが教えられたんですよね?猫に妖術を教えるのは大変じゃなかったですか?」
「そうですね。ゴンは器用な子でしたが、やはり私も狐以外の子に妖術を教えるのは初めてだったので、一筋縄ではいかないことも多々ありましたね…」
「でしょうね。あんなに妖術に長けた『猫又』は見たことがありせん。教えられたお師匠さんは相当苦労されたんじゃないかと思ってました」
「でも私があの子に教えたことより、あの子から教わったことのほうがずっと多いように思います。お陰でこうやって、狐以外の子どもたちも引き取れるようになりましたしね」
そう言うと白蓮はもう随分冷めてしまった茶を一口のんだ。
外の鐘楼に吊り下げられていた鐘が、時の流れを告げるように響く。遅れて子どもたちの楽しそうな笑い声が聞こえる。
「ゴンをここで働かせようとは、思わなかったのですか?」
俺はさっきから気になっていたことを聞いてみた。白蓮は狐の寺で『猫又』を育てるのに相当な苦労をしたのだ。その分ゴンへの思い入れも強いだろうということは想像に難くない。それにゴンは怠け者体質とはいえ、あれだけの妖術が使えればこの寺でだってきっと役に立つ。白蓮とゴンは仲が悪いというわけでもなさそうだし、どうして手放したのだろうか。
「ゴンをここで、ですか?」
白蓮は少し驚いたような、困ったような顔をした。
「ゴンが望むなら、私はもちろん構いません。でも、私が育てたからといって、あの子をここに束縛しようとは思わない。大切な教え子ですが、私の所有物ではありませんから」
それを聞いて、白蓮はゴンのことを、俺が思っていたよりもっとずっと信頼しているのだろうと感じた。でなければこんな言葉はきっと出てこない。お互いを信頼しているからこそ、離れることを選択できたのだ。
「そうですか。あなたとゴンはお互いを信頼しているんですね」
俺がそう言うと、白蓮は朗らかに微笑んだ。
「『稲神様』だってそうでしょう。神様と、神使でもない妖が一緒に働くなんて、信頼関係がなければ成り立たないことです。それに、あの『河童』のお嬢さんはもしかして…」
バタバタバタバタ。
また外が騒がしくなってきた。そして本堂の入り口の扉が、いきなりバンと開いて、子どもたちとゴンと楓が本堂の中に慌てて駆け込んできた。
「おおおお寺になんか変なのが入って来た!!!」
「落ち着け楓、何があったんだ?」
「大蛇だよ。子どもたちを狙ってやって来たんだと思う」
「あれ?この前、結界を張りなおしたところだったんだけどね」
結界を破って入って来た?どこかで聞いたことがある話だ…。
「あの、すみません。もしかしたら、こいつが原因かもしれません。楓は結界を中和してしまうんです」
「なんと、そうでしたか。結界を?それは珍しい。どこかで結界破りの術を学ばれたんですか?それとも体質的な…」
「師匠、そんなのあとにして、早くあの大蛇なんとかしないと」
「そうだね。じゃあ、ゴンはお客様方と子どもたちを頼みます。大蛇は、私が行って見てこよう」
そう言うと白蓮は、まるでちょっとそこまで買い物にでも行くような気安さで、本堂の外に出て行った。
俺たちは少し開いた本堂の扉の隙間から外をうかがう。すると、本堂の仏像を一飲みにできそうなくらい大きな蛇が、門をくぐってこちらに近づいてくるのが見えた。
白蓮はその大蛇に、軽い足取りで近づいていく。大蛇は白蓮に噛みつこうとするが、白蓮は落ちてくる落ち葉を避けるように、手を後ろで組んだまま、するりするりとかわしていった。
そして白蓮は、大蛇から少し距離をとると、懐から木の葉を一枚取り出し、その葉になにか唱えた。すると、大蛇の身体が徐々に透き通った水に姿を変えていく。
その水に変化した大蛇を見上げながら、白蓮が胸元でパンっと手を鳴らした。その瞬間、大蛇の形をした水は、一気に蒸発し霧となっていった。
この寒さの中を漂う霧は、辺りに満ちた妖気を含みながら氷晶となり、陽の光を浴びて、きらきらと妖しげな光をちらつかせながら、白蓮の頭上に舞い降りていった。
その光景は、ひどく妖しく、恐ろしい夢を見た後のような昂りを、俺の心に残した。
すっかり霧が晴れると、こちらを振り返った白蓮の笑顔を合図に、本堂の中にいた子どもたちが一斉に飛び出して白蓮に駆け寄った。
「あれは『変化』の術の応用だよ。結構、難しい術なんだぜ」
子どもたちに続いて白蓮のところに向かいながら、ゴンがちょっと誇らしげに解説してくれた。本堂の外に出てみると、辺り一帯に満ちた強い妖気で、肌がチリチリするほどだった。
「あ、また石畳がボロボロになってしまったなぁ」
白蓮は壊れた石畳を見て肩を落とした。
「いっそのこと、全部粉々にして砂利にした方がいいんじゃないか?」
「ああ!それはいいかもしれないね」
白蓮とゴンは楽しそうに笑っている。
なぜこの寺がこんなにもボロボロなのか、今よく分かった。子どもたちを狙って、きっと今のようなことが頻繁にあるのだろう。その度に寺のあちこちが壊れてしまうのだ。
「せっかく来て頂いたのに、なんだか騒々しくてすみません。時々、結界の隙を狙って、ああいうのが入ってくるんですよ」
他の狐たちが皆辞めてしまったというのも、分からなくもないなと思った。あんなのを軽くあしらえる白蓮だからこそ、ここを続けていられるのだろう。
「ええっと、さっきは何の話をしているところでしたっけ。あ、そうそう。お渡ししたいものがあるんです。少し待っててください」
白蓮はそう言って先ほど自分が壊した石畳に躓きながら、庫裡の中に駆け込んで行った。
ゴンと楓の様子を見てみると、子どもたちと遊んでかなり疲れているようだった。今日は帰ったら早く休ませよう。
「お待たせしました。これをお渡ししたかったんです」
白蓮は、小さな桐の箱を持って戻って来た。
「これは、ある神様から頂いたお守りなんですよ。お嬢さんに差し上げます。『稲神様』のご加護があれば、まず心配はないでしょうけど、お嬢さんのような可愛らしい方には、お守りはいくつあってもいいでしょう」
白蓮は持ってきた桐の箱を楓の手にそっと渡して、ちらりと俺の方を見た。そして一瞬、ほんのわずか、にこっと微笑んでみせた。
たぶん、白蓮は楓が人間だということに気づいている。楓にかけた『目くらましの術』はすでに完成しているというのに、彼は俺の術を見破っているのだ。
先ほどの妖術といい、この白蓮という男は、一体何者なのだろう。
楓が、手渡された桐の箱を開けると、小さな螺鈿の首飾りが入っていた。俺は宝石や飾り物の類にはあまり眼識がないが、この首飾りは、そんな俺ですら高級なものだと分かる代物だった。
「これ、すごく貴重なもののように見えるんですが…本当に楓が、頂いちゃっていいんですか?」
「ええ、いいのです。ゴンがお世話になっているのですから。それに、このお守りは彼女のようなひとが持っているのが相応しいのです。肌身離さず持っていると良い。きっとあなたを守ってくれるから」
楓は嬉しそうに、白蓮からもらった首飾りをつけた。その首飾りについている螺鈿からは、この寺の空気のような「澄んだ気」が感じられた。
「それから、どうも天界で不穏な動きがあるという噂を耳にしました。『神堕ち』の件もありますし、あなた方も厄介なことに巻き込まれないよう、どうぞお気を付けください」
「ありがとうございます。もしお時間があれば、うちにもぜひ一度遊びに来てください。もちろん子どもたちが怪我や病気をしたときは診させてもらいますよ」
俺たちは、白蓮と子どもたちに別れを告げ、提灯小僧の牽く車に乗って帰路についた。
帰る途中の車の中、ゴンはなぜかいつもより口数が少なかった。
「なあ、瑞穂って『天狐』に会ったことあるか?」
「いや俺はまだ直接会ったことはないな。何でだ?」
「俺さ…師匠って実は、『天狐』なんじゃないかって思うんだよ」
そう言うゴンの横顔は風になびく髪のせいでよく見えなかった。
「なんで、そう思うんだ?」
「なんとなく…だけど」
「まあ『天狐』は自分のことを『天狐』だ。とは言わないらしいから、あり得るかもな」
それを聞いたゴンの口元が、わずかに微笑んだような気がした。
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