3 / 29
第1章
第2話 アレクシス王太子との午後
しおりを挟む
(エリアナ 16歳・エリアナ視点)
朝の光が、白いカーテンをやわらかく透かしていた。
エリアナは椅子に腰掛け、鏡越しに自分の髪を見ている。背後では、侍女のミレーヌが慣れた手つきで、艶やかな栗毛に櫛を通していた。
「今日は、少し編み込みを入れますか? それとも、少しだけ毛先を整えて動きを出しましょうか」
「うーん……」
エリアナは首を傾け、少し考える。鏡の中の自分と目が合い、肩をすくめた。
「アレクシス殿下が散歩もしたいとのことでしたので。風に吹かれても手ぐしで直せるよう、あまり固めすぎないで。低めの位置でリボンでまとめてちょうだい」
「では、そのように」
ミレーヌは笑い、指先でさらりと髪を束ねる。飾りは控えめなリボンだけ。けれど、丁寧に梳き上げられたストレートの栗毛は、彼女が動くたびに背中でとろけるような光の帯を作り、絹の重なりのような音を立てる。
「楽しみですね」
不意にそう言われ、エリアナは目を瞬かせた。
「……顔に出てます?」
「ええ、朝から。お嬢様が幸せそうで、私も嬉しいですわ」
ミレーヌは何でもないことのように言う。その声に微かな陰りがあることに、エリアナは気づかなかった。ミレーヌは、王都の空気が少しずつ淀み始めていることを、侍女同士のネットワークですでに察知していたのかもしれない。
エリアナは少しだけ頬を押さえ、それから諦めたように笑った。
「楽しみです」
◇◇◇
庭園に出ると、紅茶の香りが先に届いた。白い卓布の上に陽が落ち、影がやわらかく揺れている。王太子アレクシスはすでに席に着いていて、 エリアナの姿を見ると、静かに立ち上がった。
視線が、風に遊ぶ彼女の長い髪に留まる。
「飾らないその髪、朝の光によく合っている。今日の君は、いつもより近くに感じられるね」
思いがけない言葉に、エリアナは一瞬、足を止めた。
「……ありがとうございます」
ほどけそうなほど緩く結んだ髪を、無防備に褒められた気恥ずかしさに、エリアナは指先でリボンの末端をそっとなぞった。アレクシスは気づいたふうもなく、椅子を引いた。
カップが置かれ、紅茶が注がれる。湯気とともに、少し甘い香りが立った。エリアナは一口含み、目を細める。
「今日の香りは、好みに合ったようで良かった」
アレクシスがそう言ってから、少し間を置く。
「実は、先ほど持ってきたものなんだ」
エリアナは顔を上げた。
「紅茶を?」
「うん。好みを聞いたことがあったから」
言いながら、どこか照れたように視線を外す。
「早めに来て、侍女にお願いして淹れてもらった」
少し照れたようなその言い方に、エリアナの胸が、きゅっと鳴った。
「……そうだったんですね」
アレクシスの誠実さは、いつも一点の曇りもなかった。エリアナもまた、その甘やかさにただ身を委ねていた。
「とても、おいしいです」
その声は、少しだけ柔らかかった。
◇◇◇
紅茶の話は、しばらく続いた。どこで飲んだことがあるか、 どんな香りが好きか。取り留めのない話が、心地よく続いた。
「それなら、次はもう少し軽いものがいいかもしれない」
「え、もう考えているんですか」
「念のため」
そう言って、アレクシスは穏やかに笑う。エリアナは頬が緩み過ぎないように、カップを口に運んで隠した。
「君が楽しそうだと、こちらまで嬉しくなる」
不意に、そんなふうに言われた。 エリアナは、言葉に詰まった。
「……ずるいです」
小さく、そう言ってから、ようやく笑う。アレクシスも、声を立てずに笑った。
◇◇◇
「少し歩こうか」
ちょうど話題が途切れたところでアレクシスが立ち上がり、庭園に誘う。砂利の小道を進むと、足元が少し不安定になる。
「気をつけて」
差し出された大きな掌。エリアナは誘惑に負けそうになる心を律し、エスコートを受けるための最低限の指先だけを、そっと預けた。
触れた手はすぐに離れたけれど――
「ありがとうございます」
小さくそう言って、指先を離す。
それ以上、手を預けることはしなかった。父の「線を引け」という教えが、無意識にエリアナの心を制御していた。アレクシスの隣にいたいと思いながら、どこかで彼に縋りすぎることを恐れていた。
アレクシスは何も言わず、エリアナが砂利の小道を抜けるのを待った。彼はいつだって優しく、エリアナが立ち上がるのを待ってくれる。
噴水のそばで立ち止まる。水音が静かに響く。
「今日は、いい午後ですね」
エリアナがそう言うと、アレクシスは頷いた。
「ああ。とても」
二人の間に、穏やかな沈黙が落ちた。道はまだ平坦で、どこまでも穏やかに見えていた。その「線」を越えた先に何が待ち構えているのか、二人が知るには、まだ少しだけ時間が必要だった。
朝の光が、白いカーテンをやわらかく透かしていた。
エリアナは椅子に腰掛け、鏡越しに自分の髪を見ている。背後では、侍女のミレーヌが慣れた手つきで、艶やかな栗毛に櫛を通していた。
「今日は、少し編み込みを入れますか? それとも、少しだけ毛先を整えて動きを出しましょうか」
「うーん……」
エリアナは首を傾け、少し考える。鏡の中の自分と目が合い、肩をすくめた。
「アレクシス殿下が散歩もしたいとのことでしたので。風に吹かれても手ぐしで直せるよう、あまり固めすぎないで。低めの位置でリボンでまとめてちょうだい」
「では、そのように」
ミレーヌは笑い、指先でさらりと髪を束ねる。飾りは控えめなリボンだけ。けれど、丁寧に梳き上げられたストレートの栗毛は、彼女が動くたびに背中でとろけるような光の帯を作り、絹の重なりのような音を立てる。
「楽しみですね」
不意にそう言われ、エリアナは目を瞬かせた。
「……顔に出てます?」
「ええ、朝から。お嬢様が幸せそうで、私も嬉しいですわ」
ミレーヌは何でもないことのように言う。その声に微かな陰りがあることに、エリアナは気づかなかった。ミレーヌは、王都の空気が少しずつ淀み始めていることを、侍女同士のネットワークですでに察知していたのかもしれない。
エリアナは少しだけ頬を押さえ、それから諦めたように笑った。
「楽しみです」
◇◇◇
庭園に出ると、紅茶の香りが先に届いた。白い卓布の上に陽が落ち、影がやわらかく揺れている。王太子アレクシスはすでに席に着いていて、 エリアナの姿を見ると、静かに立ち上がった。
視線が、風に遊ぶ彼女の長い髪に留まる。
「飾らないその髪、朝の光によく合っている。今日の君は、いつもより近くに感じられるね」
思いがけない言葉に、エリアナは一瞬、足を止めた。
「……ありがとうございます」
ほどけそうなほど緩く結んだ髪を、無防備に褒められた気恥ずかしさに、エリアナは指先でリボンの末端をそっとなぞった。アレクシスは気づいたふうもなく、椅子を引いた。
カップが置かれ、紅茶が注がれる。湯気とともに、少し甘い香りが立った。エリアナは一口含み、目を細める。
「今日の香りは、好みに合ったようで良かった」
アレクシスがそう言ってから、少し間を置く。
「実は、先ほど持ってきたものなんだ」
エリアナは顔を上げた。
「紅茶を?」
「うん。好みを聞いたことがあったから」
言いながら、どこか照れたように視線を外す。
「早めに来て、侍女にお願いして淹れてもらった」
少し照れたようなその言い方に、エリアナの胸が、きゅっと鳴った。
「……そうだったんですね」
アレクシスの誠実さは、いつも一点の曇りもなかった。エリアナもまた、その甘やかさにただ身を委ねていた。
「とても、おいしいです」
その声は、少しだけ柔らかかった。
◇◇◇
紅茶の話は、しばらく続いた。どこで飲んだことがあるか、 どんな香りが好きか。取り留めのない話が、心地よく続いた。
「それなら、次はもう少し軽いものがいいかもしれない」
「え、もう考えているんですか」
「念のため」
そう言って、アレクシスは穏やかに笑う。エリアナは頬が緩み過ぎないように、カップを口に運んで隠した。
「君が楽しそうだと、こちらまで嬉しくなる」
不意に、そんなふうに言われた。 エリアナは、言葉に詰まった。
「……ずるいです」
小さく、そう言ってから、ようやく笑う。アレクシスも、声を立てずに笑った。
◇◇◇
「少し歩こうか」
ちょうど話題が途切れたところでアレクシスが立ち上がり、庭園に誘う。砂利の小道を進むと、足元が少し不安定になる。
「気をつけて」
差し出された大きな掌。エリアナは誘惑に負けそうになる心を律し、エスコートを受けるための最低限の指先だけを、そっと預けた。
触れた手はすぐに離れたけれど――
「ありがとうございます」
小さくそう言って、指先を離す。
それ以上、手を預けることはしなかった。父の「線を引け」という教えが、無意識にエリアナの心を制御していた。アレクシスの隣にいたいと思いながら、どこかで彼に縋りすぎることを恐れていた。
アレクシスは何も言わず、エリアナが砂利の小道を抜けるのを待った。彼はいつだって優しく、エリアナが立ち上がるのを待ってくれる。
噴水のそばで立ち止まる。水音が静かに響く。
「今日は、いい午後ですね」
エリアナがそう言うと、アレクシスは頷いた。
「ああ。とても」
二人の間に、穏やかな沈黙が落ちた。道はまだ平坦で、どこまでも穏やかに見えていた。その「線」を越えた先に何が待ち構えているのか、二人が知るには、まだ少しだけ時間が必要だった。
10
あなたにおすすめの小説
婚約破棄された人たらし悪役令嬢ですが、 最強で過保護な兄たちと義姉に溺愛されています
由香
ファンタジー
婚約破棄のその日、
悪役令嬢リリアーナは――弁明すら、しなかった。
王太子と“聖女”に断罪され、すべてを失った彼女。
だがその裏で、王国最強と名高い三人の兄と、
冷静沈着な義姉が、静かに動き始めていた。
再検証によって暴かれる“聖女の嘘”。
広場で語られる真実。
そして、無自覚に人を惹きつけてしまう
リリアーナの優しさが、次々と味方を増やしていく――。
これは、
悪役令嬢として断罪された少女が、
「誰かの物語の脇役」ではなく、
自分自身の人生を取り戻す物語。
過保護すぎる兄たちと義姉に溺愛されながら、
彼女は静かに、そして確実に幸せへ向かっていく。
【完結】元悪役令嬢は、最推しの旦那様と離縁したい
うり北 うりこ@ざまされ2巻発売中
恋愛
「アルフレッド様、離縁してください!!」
この言葉を婚約者の時から、優に100回は超えて伝えてきた。
けれど、今日も受け入れてもらえることはない。
私の夫であるアルフレッド様は、前世から大好きな私の最推しだ。 推しの幸せが私の幸せ。
本当なら私が幸せにしたかった。
けれど、残念ながら悪役令嬢だった私では、アルフレッド様を幸せにできない。
既に乙女ゲームのエンディングを迎えてしまったけれど、現実はその先も続いていて、ヒロインちゃんがまだ結婚をしていない今なら、十二分に割り込むチャンスがあるはずだ。
アルフレッド様がその気にさえなれば、逆転以外あり得ない。
その時のためにも、私と離縁する必要がある。
アルフレッド様の幸せのために、絶対に離縁してみせるんだから!!
推しである夫が大好きすぎる元悪役令嬢のカタリナと、妻を愛しているのにまったく伝わっていないアルフレッドのラブコメです。
全4話+番外編が1話となっております。
※苦手な方は、ブラウザバックを推奨しております。
死亡予定の脇役令嬢に転生したら、断罪前に裏ルートで皇帝陛下に溺愛されました!?
六角
恋愛
「え、私が…断罪?処刑?――冗談じゃないわよっ!」
前世の記憶が蘇った瞬間、私、公爵令嬢スカーレットは理解した。
ここが乙女ゲームの世界で、自分がヒロインをいじめる典型的な悪役令嬢であり、婚約者のアルフォンス王太子に断罪される未来しかないことを!
その元凶であるアルフォンス王太子と聖女セレスティアは、今日も今日とて私の目の前で愛の劇場を繰り広げている。
「まあアルフォンス様! スカーレット様も本当は心優しい方のはずですわ。わたくしたちの真実の愛の力で彼女を正しい道に導いて差し上げましょう…!」
「ああセレスティア!君はなんて清らかなんだ!よし、我々の愛でスカーレットを更生させよう!」
(…………はぁ。茶番は他所でやってくれる?)
自分たちの恋路に酔いしれ、私を「救済すべき悪」と見なすめでたい頭の二人組。
あなたたちの自己満足のために私の首が飛んでたまるものですか!
絶望の淵でゲームの知識を総動員して見つけ出した唯一の活路。
それは血も涙もない「漆黒の皇帝」と万人に恐れられる若き皇帝ゼノン陛下に接触するという、あまりに危険な【裏ルート】だった。
「命惜しさにこの私に魂でも売りに来たか。愚かで滑稽で…そして実に唆る女だ、スカーレット」
氷の視線に射抜かれ覚悟を決めたその時。
冷酷非情なはずの皇帝陛下はなぜか私の悪あがきを心底面白そうに眺め、その美しい唇を歪めた。
「良いだろう。お前を私の『籠の中の真紅の鳥』として、この手ずから愛でてやろう」
その日から私の運命は激変!
「他の男にその瞳を向けるな。お前のすべては私のものだ」
皇帝陛下からの凄まじい独占欲と息もできないほどの甘い溺愛に、スカーレットの心臓は鳴りっぱなし!?
その頃、王宮では――。
「今頃スカーレットも一人寂しく己の罪を反省しているだろう」
「ええアルフォンス様。わたくしたちが彼女を温かく迎え入れてあげましょうね」
などと最高にズレた会話が繰り広げられていることを、彼らはまだ知らない。
悪役(笑)たちが壮大な勘違いをしている間に、最強の庇護者(皇帝陛下)からの溺愛ルート、確定です!
地味な私では退屈だったのでしょう? 最強聖騎士団長の溺愛妃になったので、元婚約者はどうぞお好きに
有賀冬馬
恋愛
「君と一緒にいると退屈だ」――そう言って、婚約者の伯爵令息カイル様は、私を捨てた。
選んだのは、華やかで社交的な公爵令嬢。
地味で無口な私には、誰も見向きもしない……そう思っていたのに。
失意のまま辺境へ向かった私が出会ったのは、偶然にも国中の騎士の頂点に立つ、最強の聖騎士団長でした。
「君は、僕にとってかけがえのない存在だ」
彼の優しさに触れ、私の世界は色づき始める。
そして、私は彼の正妃として王都へ……
「お前みたいな卑しい闇属性の魔女など側室でもごめんだ」と言われましたが、私も殿下に嫁ぐ気はありません!
野生のイエネコ
恋愛
闇の精霊の加護を受けている私は、闇属性を差別する国で迫害されていた。いつか私を受け入れてくれる人を探そうと夢に見ていたデビュタントの舞踏会で、闇属性を差別する王太子に罵倒されて心が折れてしまう。
私が国を出奔すると、闇精霊の森という場所に住まう、不思議な男性と出会った。なぜかその男性が私の事情を聞くと、国に与えられた闇精霊の加護が消滅して、国は大混乱に。
そんな中、闇精霊の森での生活は穏やかに進んでいく。
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる