胎のなか

シマノ ワタオ

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胎のなか

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   安らかな眠りなど、自分には一生訪れないのだろう。
 大橋おおはし 陸太りゅうたは身体を起こすと、額に滲む汗を拭った。
 つぎから次へと滴るぬるい雫は、肌のあちこちにまとわりつき、手足を伝って、真新しいシーツをぐっしょりと濡らしている。
 鈍痛の残る頭を持ち上げて時計を確認すると、針は起床予定の三時間前を示していた。夜が明けたばかりの新鮮な空気に歓喜するように、窓の外ではツバメたちが、ほのかな陽光を浴びてぺちゃくちゃと囀っている。
 爽やかな一日のはじまりだったが、陸太は排水路の淀みに飲み込まれていくような絶望感に浸っていた。
 自分は永遠に、この呪いから逃れることはできないのだ。
 まぶたを閉じると深い闇がどこまでも、ひたひたと後をついてきた。
                                   *
  
 「今日も、よく眠れなかったのね……陸太くん、本当に大丈夫なの?」
 スクランブルエッグとベーコンの載った皿を食卓に並べながら、大橋 瞭子りょうこが不安げな視線をよこしてくる。
 陸太は、重い口を開いた。
「さぁ、どうだろう。今日まで、一度もまともに眠れたことないから」
「やっぱりもう一度、お医者さまに診てもらいましょうよ。私もついて行くから」
 瞭子の縋るような視線に、陸太は内心、ため息をつく。原因など、とっくの昔に分かっているのだから、いまさら診察したところで何の意味もなさない。
「その話はしないって、約束したじゃないか……母さん」
 口元に笑みをつくって、陸太は運ばれてきたベーコンに手をつける。いつもながら、瞭子は調理の際にフライパンにたっぷりと油を引くため、突き刺したフォークが妙にてらてらと艶めいていた。
「夜中に目が冴えてしまうようなら、真っ昼間にうんと身体を動かしておくのはどうだい?僕が野球部だった頃は、泥まみれの汗まみれでへとへとになって、帰りの電車でよく眠りこけたものさ」
 妻の気の毒そうな様子を察してか、先ほどまでとなりで優雅にコーヒーを啜っていた夫の俊夫としおが朗らかな声をあげた。
「……それはいい考えね。今日はお天気もいいみたいだし、海岸沿いを散歩してみたらどう?」
 瞭子も賛同する。
「そういえば、ビーチでマグロだかイルカだかが目撃されたって聞いたな」
「ビーチって、クラゲビーチのこと?」
 陸太の頭に浮かんだのは、ここから歩いて三十分ほどのところにある近所の海水浴場だった。本来の名前は「白星ビーチ」だが、一年中、たちの悪いクラゲたちが浮かんでいることから、近所の住民たちはこぞって「クラゲビーチ」と呼んでいる。
「そうそう!昨日の夕方くらいだったかな……海からあがろうとしたサーファーの、すぐ横を通り過ぎたらしい」
 あんな海によく立ち入るな、と陸太は思った。
  
                                    *
 また、同じことを繰り返している。
 ベッドに身を投げたはいいものの、陸太の目はこれでもかというほどに開かれていた。
 部屋中の闇が、自分の瞳めがけて押し寄せてくる。
 隅に、陰鬱な気配を感じた。
 一歩、また一歩。
 次第に気配が歩み寄ってくる。
 陸太はまぶたを閉じた。
「……イコネ、ット、……マッテ、ネ」
 『それ』の息づかいが聞こえた。
  
                                    *
 陸太は夢をみていた。
 場面は自分のよく知る場所――クラゲビーチだ。錆びれた「ようこそ」という看板がぽつんと立っているだけの、白い砂浜。
 その上で、陸太は膝を抱えている。
 ここが夢だということは、なぜだかはっきりと自覚していた。
「おじさん、弱そうね」 
 ふと、聞こえてきた声に振り向くと、そこには少女が立っていた。黒髪に、灰色のワンピース。おそらく、自分より十年はあとに生まれてきたであろう小さな女の子だ。
 しかし、それを考慮したって自分はまだ「おじさん」と名称される年齢ではない。
「おじさんなわけないだろ。俺は高校生だぞ」
「コウコーセー?なにそれぇ」
 利発そうだと思ったが、案外、そうでもないのだろうか。そう考えてから、陸太は聞き捨てならないセリフをもう一つ思い出した。
「大体、弱そうってなんだよ。初対面の相手に失礼なやつだな」
 そう口にしてから、陸太は夢の中なんだから初対面も何もないと気がついたが、知らないふりをした。
「おじさんってのは嫌なの?じゃあ、なまえ、なんていうの?」
 二つ目の言葉はまるで聞こえていないのか、少女はのらりくらりと会話を進める。
「陸太だ。大橋 陸太」
「二つ名前があるの、いいなぁ。私はねぇ、スミ。いい名前でしょ?私じゃなくて、兄弟がつけた名前なのよ」
 少女――スミが得意げな顔で身を翻す。
 陸太は眉間に皺を寄せた。
「……兄弟が?親はどうしたんだ」
「チチオヤとは会ったことないの。ママとは時々、お話しするんだけど」
 陸太の額に嫌な汗がにじんだ。
「だから、リュウタが私とお話ししてくれる?お兄さんも、弟も妹も、みんな疲れて寝てるみたい」
 スミが顔を覗き込んでくる。その眼窩には磨いたビー玉のような瞳が、青く輝いていた。
 陸太は咄嗟に視線をそらす。
 そのとき、前方で大きく水しぶきが上がった。
 海面から飛び出してきた彼らに陸太は目を見開く。
 見たことのある影だった。
「イルカだ!」
 スミが叫ぶ。
「……ハンドウイルカだ」
 そう付け加えると、スミは首を傾げた。
「はんどう?」
「ハンドウイルカ。水族館でもよく飼育されてる種類のイルカだよ。バンドウって呼んでる人もいるけど、それは間違い」
 スミが目を輝かせたのが分かった。
「詳しいのね!リュウタは海が好きなの?」
「別に。海が好きなわけじゃない」
「ふぅん。じゃあどうして知ってるの?」
 ――この少女は、なんでも質問しないと気が済まないのだろうか。
「小さいときに、よく図鑑を眺めてたんだ。『海のなかま百科』って、知ってる?……結構まえの本だから知るわけないか。とにかく、そればっかり読んでたんだ」
「読んでた?こんなに近くに海はあるのに?」
「うるさいな!関係ない――」だろ、と続けようとした唇を、おもわず陸太は止めた。
 自分は何故、声を荒げてなんかいるのだろう。
 こんなの、夢の中の出来事じゃないか。
 この砂浜も、あの海もイルカも、こうやって自分と話しているスミも、すべては作り物で、現実の世界には足を踏み入れることなんてできやしない。
 そう考えた途端、全てのことがどうでもよくなってしまった。
 陸太は唇を閉じたまま、横にたたずむスミに目を向ける。曇りのないその青色は、相変わらずまっすぐに自分を捉えていた。
 自然と、口が開いた。
「……自分の海は、図鑑だけだったんだ」
 自分をせき止めていたものが、ぷちんと切れた。
「……ええ?図鑑だけ?」
「外に出ることが許されなかったんだよ。俺、ちっちゃい頃はハハオヤとふたり暮らしだったんだけど、俺のハハオヤ、子供が好きじゃなかったみたいでさ……ほとんど家に帰ってこなくて、留守番を快諾したときだけ『いい子ね。ずっと待っててね』って頭をなでられたよ」
 全て吐露してしまおう。夢の内に。
「夜はよく、震えてた。部屋のかどっこでブランケット握って、早く朝になりますようにって祈るんだ。今でも、そのことを思い出すよ。毎晩ね」
 見つめてくるスミの目は、どこかが奇妙だった。
 哀れみの色も、怒りの炎のない――しかし、どこか獰猛な輝きを放っていた。
「今もその人と住んでるの?」
「いいや。今は優しい母さんと父さんのもとで暮らしてるさ。ハハオヤは帰ってこなくなったから」
「……決めた」
 ゆっくりと、スミが立ち上がる。
「あなたの……リュウタの元の母親を、食べてあげる」
 小さな白い刃が、口元からこぼれた。
  
                                        *
 クラゲビーチの砂浜で、陸太は膝を抱えていた。
 実に奇妙な夢をみたな、と思う。
 考えてみれば、こんな汚い海水浴場にイルカが来るわけないじゃないか。
 母さんが勧めるから足を運んでみたものの、実際はビニール袋やら吸い殻やらが散乱した、見るに堪えない灰色の海だ。
 俺には一度だって、安らかな眠りは訪れない。
 いや、一度くらいはあったかもしれない。
 産声をあげる前の――そう、母の胎内におさまっていたときなら……。
  
  
 ふと、陸太は海に漂う大きな塊を見つけた。
 しばらく観察するうちに、それは浅瀬へと打ち上げられる。
 サメだった。
 三メートルほどのサメが、胎を食い破られて死んでいた。
 陸太は息を吞む。
 胎のあなから小さな影が顔を覗かせた。
 ――青い目のサメだ。
 陸太は、図鑑のある一文を思い出した。
  
「サメのなかには、おかあさんのお腹でおおきくなる種類がいます。お腹の中から出ることができないので、生まれたこどもはほかの卵や兄弟をたべておおきくなります」
 ――胎を食い破りでもしないかぎりは。
 
 子ザメが陸太の膝にすり寄った。
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