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03 グラシェル公爵家
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温室を出ると、やわらかな風が頬を撫で、乱れた心を少しだけ落ち着かせてくれる。
(一旦、元の場所に戻ろうかしら)
胸の鼓動を抑え、庭園へ戻ろうとしたそのとき。
「まあ、お姉様?」
振り返れば、噴水のそばにルシアンとエミリアの姿があった。
エミリアは心底驚いたように目を丸くし、次の瞬間には駆け寄ってくる。
(どうして二人が一緒にいるのかしら)
フィオレッタはルシアンがいると言われた場所で大変な目に遭ったのに、二人は談笑をしていたように見受けられる。寄り添うように立っている姿が、フィオレッタの心に刺さる。
「どうしたの、お姉様。すっごく顔色が悪いわ!」
「そう、かしら」
「ええ、とっても酷い顔よ。帰って休んだ方がいいわ。ルシアン様ぁ、フィオレッタお姉様をお送りしましょう?」
「いいえエミリア、私は大丈夫よ」
「ええっ、無理をしてはダメよ、お姉様! ルシアン様もそう思うでしょう?」
ようやく目が合ったルシアンが、眉を寄せる。その瞳は心配よりも、どこか冷ややかな色があった。
「倒れられては侯爵も迷惑だろう。すぐに馬車を手配させる。一人で帰れるな?」
「……ありがとうございます。申し訳ありません、それでは先に帰らせていただきます」
「ではな、フィオレッタ。ああ、明日も執務があるんだ、今日中に治せよ」
「……はい」
「フィオレッタ様、こちらに!」
ルシアンの言葉に、侍従の一人がフィオレッタを馬車の場所へと促してくる。フィオレッタは丁寧に頭を下げ、二人から離れた。
「気をつけてね、お姉様っ!」
背後でエミリアの優しげな声が響く。それが本心かどうか、もはや考える気力もない。
用意された馬車に乗り込むと、疲労がどっと押し寄せる。
瞼を閉じると、温室での出来事と、青い瞳の残像が交互に浮かんだ。
――あの人は、誰だったのだろう。
答えのない問いを胸に抱えたまま、馬車は石畳を静かに進んだ。
***
グラシェル公爵邸の玄関をくぐると、すぐに母の声が飛んできた。
「まあまあまあ、こんな時間に一人で帰ってくるなんて! 貴女は茶会ひとつまともにこなせないの?」
「申し訳ありません。体調が優れなくて」
「それなら最初から行かなければいいでしょう。ああ本当に困った子ね……エミリアが取り繕ってくれることでしょう」
棘を含んだ声色に、フィオレッタの心はさらに重くなる。
母はいつもそうだ。フィオレッタを心配する言葉はひとつもなく、エミリアのことだけを褒める。
フィオレッタは返す言葉を飲み込み、礼だけして部屋へ戻った。
靴を脱ぎかけたところで、机の上の書類が目に入る。
(そうだわ……この書類を処理し忘れていたわ)
それは、ルシアンが放置していた執務書類だった。自分の執務室に書類が山盛りになっているのは恥だと言って、フィオレッタに強引に持ち帰らせたものだ。
機密文書を持ち出してはいけないと何度も言ったが、最後はこうして代わりに処理をすることになってしまった。
体調は悪いが、このままでは問題になる。
「……こっそり返しにいくしかないわね」
そう決意して机の上の書類を抱えたとき、控えめなノックの音がした。
「お嬢様、もうお休みになられるのではなかったのですか?」
入ってきたのは、年配の侍女リゼだった。
若い頃からグラシェル家に仕え、フィオレッタが物心ついた頃からずっとそばにいる。この冷たい公爵家の中でただ一人、彼女を『お嬢様』と変わらぬ敬意で呼び続けてくれる人だった。
「少し、仕事を片付けてからにするわ」
「お顔の色が優れません。お休みになった方がよいのではありませんか」
「大丈夫。明日にはきっと落ち着くもの」
そう言って笑おうとしたが、リゼは眉を寄せたまま首を振る。
「お嬢様、どうかご無理だけはなさいませんように。誰も見ていなくとも、私は見ております。貴女さまがどれほどお辛い思いをされてきたか……」
その静かな言葉に、胸がかすかに締めつけられる。
「ありがとう、リゼ。でも本当に大丈夫よ。殿下のご機嫌を損ねてしまっては、もっと厄介だから」
「ではせめて、道中お気をつけてくださいませ。私もご一緒いたします」
「いえ、あなたは忙しいでしょう? 馬車の用意だけしてくれる?」
「……わかりました」
リゼは少し不服そうながらも、一礼するとすぐに出発の支度を整えに行った。
彼女の背中を見送りながら、フィオレッタはほんの少しだけ安堵を覚える。
この家で、自分を気にかけてくれる人がまだいる――その事実が、唯一の支えだった。
ドレスの上にショールを羽織り、鏡の前で髪を整える。まだ髪を下ろす前で良かった。
でも、鏡の中にいるフィオレッタの顔色は悪い。それでも、いつものように口角を上げた。
(一旦、元の場所に戻ろうかしら)
胸の鼓動を抑え、庭園へ戻ろうとしたそのとき。
「まあ、お姉様?」
振り返れば、噴水のそばにルシアンとエミリアの姿があった。
エミリアは心底驚いたように目を丸くし、次の瞬間には駆け寄ってくる。
(どうして二人が一緒にいるのかしら)
フィオレッタはルシアンがいると言われた場所で大変な目に遭ったのに、二人は談笑をしていたように見受けられる。寄り添うように立っている姿が、フィオレッタの心に刺さる。
「どうしたの、お姉様。すっごく顔色が悪いわ!」
「そう、かしら」
「ええ、とっても酷い顔よ。帰って休んだ方がいいわ。ルシアン様ぁ、フィオレッタお姉様をお送りしましょう?」
「いいえエミリア、私は大丈夫よ」
「ええっ、無理をしてはダメよ、お姉様! ルシアン様もそう思うでしょう?」
ようやく目が合ったルシアンが、眉を寄せる。その瞳は心配よりも、どこか冷ややかな色があった。
「倒れられては侯爵も迷惑だろう。すぐに馬車を手配させる。一人で帰れるな?」
「……ありがとうございます。申し訳ありません、それでは先に帰らせていただきます」
「ではな、フィオレッタ。ああ、明日も執務があるんだ、今日中に治せよ」
「……はい」
「フィオレッタ様、こちらに!」
ルシアンの言葉に、侍従の一人がフィオレッタを馬車の場所へと促してくる。フィオレッタは丁寧に頭を下げ、二人から離れた。
「気をつけてね、お姉様っ!」
背後でエミリアの優しげな声が響く。それが本心かどうか、もはや考える気力もない。
用意された馬車に乗り込むと、疲労がどっと押し寄せる。
瞼を閉じると、温室での出来事と、青い瞳の残像が交互に浮かんだ。
――あの人は、誰だったのだろう。
答えのない問いを胸に抱えたまま、馬車は石畳を静かに進んだ。
***
グラシェル公爵邸の玄関をくぐると、すぐに母の声が飛んできた。
「まあまあまあ、こんな時間に一人で帰ってくるなんて! 貴女は茶会ひとつまともにこなせないの?」
「申し訳ありません。体調が優れなくて」
「それなら最初から行かなければいいでしょう。ああ本当に困った子ね……エミリアが取り繕ってくれることでしょう」
棘を含んだ声色に、フィオレッタの心はさらに重くなる。
母はいつもそうだ。フィオレッタを心配する言葉はひとつもなく、エミリアのことだけを褒める。
フィオレッタは返す言葉を飲み込み、礼だけして部屋へ戻った。
靴を脱ぎかけたところで、机の上の書類が目に入る。
(そうだわ……この書類を処理し忘れていたわ)
それは、ルシアンが放置していた執務書類だった。自分の執務室に書類が山盛りになっているのは恥だと言って、フィオレッタに強引に持ち帰らせたものだ。
機密文書を持ち出してはいけないと何度も言ったが、最後はこうして代わりに処理をすることになってしまった。
体調は悪いが、このままでは問題になる。
「……こっそり返しにいくしかないわね」
そう決意して机の上の書類を抱えたとき、控えめなノックの音がした。
「お嬢様、もうお休みになられるのではなかったのですか?」
入ってきたのは、年配の侍女リゼだった。
若い頃からグラシェル家に仕え、フィオレッタが物心ついた頃からずっとそばにいる。この冷たい公爵家の中でただ一人、彼女を『お嬢様』と変わらぬ敬意で呼び続けてくれる人だった。
「少し、仕事を片付けてからにするわ」
「お顔の色が優れません。お休みになった方がよいのではありませんか」
「大丈夫。明日にはきっと落ち着くもの」
そう言って笑おうとしたが、リゼは眉を寄せたまま首を振る。
「お嬢様、どうかご無理だけはなさいませんように。誰も見ていなくとも、私は見ております。貴女さまがどれほどお辛い思いをされてきたか……」
その静かな言葉に、胸がかすかに締めつけられる。
「ありがとう、リゼ。でも本当に大丈夫よ。殿下のご機嫌を損ねてしまっては、もっと厄介だから」
「ではせめて、道中お気をつけてくださいませ。私もご一緒いたします」
「いえ、あなたは忙しいでしょう? 馬車の用意だけしてくれる?」
「……わかりました」
リゼは少し不服そうながらも、一礼するとすぐに出発の支度を整えに行った。
彼女の背中を見送りながら、フィオレッタはほんの少しだけ安堵を覚える。
この家で、自分を気にかけてくれる人がまだいる――その事実が、唯一の支えだった。
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