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◆閑話 クラウスの日誌
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前辺境伯夫妻の死は、まるで冬の嵐のように突然だった。
それまで穏やかに続いていたエルグランドの暮らしは、一夜で色を変えた。
領主館は混乱に包まれ、幼いヴァルティーナが泣き続ける声が朝まで響いていた。
辺境伯の弟であるヴェルフリートはその報せを受けて、軍務先の都から呼び戻された。政務経験も乏しいまま、突然、領地と民と小さな姪君を抱えることになったのである。
その肩にどれほどの重荷がのしかかったか、察するに余りある。
けれどヴェルフリートは一言の愚痴もこぼさなかった。
兄夫婦の遺志を継ぐように、ただ黙々と職務を引き受けた。
無骨で不器用で、言葉足らず。だが、誰よりも誠実で、責任感の強い男だ。
クラウスは彼ら兄弟と幼い頃から一緒に育った。いわゆる乳母兄弟である。
元々前辺境伯の仕事の補佐もしていたため、ヴェルフリートに代替わりしてもそのまま補佐の職に就いた。
混乱の収拾、領政の立て直し、そして一人になったヴァルティーナの養育――そのどれもが一朝一夕にこなせるものではなかった。
それからしばらくの間、屋敷には重たい空気が漂っていた。
幼いヴァルティーナはほとんど笑わなくなり、泣いたり、癇癪を起こしたりばかりで、誰もが手を焼いた。
かつてあれほど人懐こく、明るく笑っていた少女が、今ではクマのぬいぐるみを抱いたまま離そうとしない。食事の時間にも口を開かず、誰が声をかけても小さく首を振るだけだ。
ヴェルフリートやクラウスには心を開いてくれている様子はあるが、どうしても仕事で彼女にばかり構ってはいられない。
ある日、気晴らしになればというヘルマの提案でヴェルフリートはヴァルティーナを町へ連れ出した。
けれどその途中、同行していた若いメイドが目を離した隙に、ヴァルティーナの姿が見えなくなった。以前から職務怠慢を指摘されていた者で、その日も屋台を眺めていたという。免職まではされなかったが当然のことながら、厳しい叱責をされた。
その騒ぎの中で、二人はフィオという名の赤髪の女性と出会い、彼女と共に城に戻ってきたのだ。
***
その日の昼下がり。ヴェルフリートは執務室に戻るなり、深く息を吐いた。
外気を吸ったばかりの軍服には、ほのかに土と風の匂いが残っている。
クラウスは机に書類を並べていたが、主の険しい表情に気づいて眉を上げた。
「お帰り、ヴェルフ。……随分と疲れた顔をしてるな。まさかティナ様がまた泣き出したとか?」
「泣いたどころか、迷子になった」
「……はい?」
ペンを持つ手が止まる。クラウスは一瞬、冗談かと思ったが、ヴェルフリートの表情はいつものように真面目で、ひと欠片の笑いもない。
その深い青の瞳には、さすがに疲労の色が滲んでいる。
「大丈夫なんですか、ティナ様は」
「すぐに見つかった。怪我もなく元気だ」
「それは良かった~。確かメイドも連れていってましたよね? その子は何をしてたんだ?」
クラウスが恐る恐る尋ねると、ヴェルフリートは短く息を吐いた。
「……目を離した。屋台を見ていたらしい」
「へえ……」
「それに、道中、俺にばかり話しかけてきた。ティナがいるのに」
淡々と語る口調ではあるが、わずかに眉間が寄っている。
クラウスは内心で「ああ、やっぱりな」と頷いた。
若いメイドの中には、ヴェルフリートに惹かれる者も少なくない。無骨で冷たく見えても、鍛えられた長身に、整った顔立ち、領主という肩書き。
まっすぐな物腰と誠実な人柄を知れば、なおさら「いつか振り向かせたい」などと夢を見る子も出てくる。
(まあ……気持ちはわかるけどねえ。ヴェルフはそういうのに気づかないどころか、気づいても困った顔しかしないからな)
クラウスは苦笑を浮かべた。
しかし、今回ばかりは笑い話ではない。ティナがいなくなったというのは、館中の誰にとっても胸が凍る出来事だった。
「そのメイドには後で厳しく言っておきますよ」
「もう言った。ヘルマにも伝えてある」
「おおっと、仕事が早い。さすが領主様」
軽口を叩きながらも、クラウスは内心で深く息をついた。
ヴェルフリートの疲れは隠せていない。政務に訓練、さらに幼い姪の世話――一人で抱え込んでいるのだ。
それでも、表情に苛立ちを見せることもなく、淡々とすべてをこなしてしまう。
「じゃあ、ヴェルフが見つけたのか?」
そう尋ねると、ヴェルフリートが続けた。
「いや。赤髪の女性がティナを保護してくれていた。川辺で一人でいるところに声をかけて、保護者を探して一緒に花畑に行ったらしい」
ヴェルフリートは報告書を記すような口調で淡々と語る。
だが、クラウスの耳にはそのわずかな声音の変化が引っかかった。
(……おや? なんだか、ちょっと雰囲気が違うな)
だが今は、事実確認することが先だ。
「ふむ……赤髪の女性ですか。ぜひお礼をしなければなりませんね」
「今、応接間に来ている」
「なんて?」
「この城まで着いてきてもらった。ティナが離れなかったんだ。それに、笑っていた」
ヴェルフリートの声は静かだが、見るからに困った顔をしていた。
そんな表情を彼が見せるのは、クラウスでも滅多にお目にかかれない。
クラウスは頬を掻きながら、しばし考え込む。
そして、ふと思いついたように身を乗り出した。
「なかなか他の人に心を開かなかったティナ様が懐くとは……それはすごい。誰にだって笑わなかったのに」
「……ああ」
「その女性、そのまま城に滞在してもらうのは可能でしょうかね? 教育係、あるいは侍女のような形でも。給金ならまだいけそうだよ」
クラウスの提案に、ヴェルフリートは一瞬だけ目を伏せた。
考え込むように唇を引き結び、机の上の書類へと視線を落とす。
「……悪くはない。だが、本人の希望もある。無理には引き止められん」
「うーんそうだよなあ。でも、ティナ様が元気になってくれそうじゃない?」
茶化すように笑うクラウスに、ヴェルフリートは小さくため息をつく。
その表情は困惑と戸惑いの入り混じったものだった。
「……それは、そうだが。相手にも都合はある」
「いや、ここは思い切ってばーんといこう! ヴェルフ!」
クラウスは立ち上がり、執務机の端に積まれた分厚い束を指さした。
「いっそ奥様として迎えたらいいんじゃないか? そしたら、これも解決するだろう!」
ヴェルフリートが眉をひそめる。クラウスが指差した机の上には、縁談の候補書――いわゆる釣書がうず高く積まれている。
どれも政略と打算の香りが強く、彼自身、うんざりしているものばかりだ。
「……」
「結構本気だよ。ヴェルフも考えてみてよ。じゃあオレも、その方を確認しにいってくるな。ヴェルフはそれまで仕事片しとくんだぞ」
兄としての顔を見せるクラウスに、ヴェルフリートは小さく首を振り、ため息をつくと再び書類へと視線を落とした。
(さてさて、赤髪の救世主さんとやら……どんな方なのか、拝見するとしようか)
そうして、クラウスはフィオと始めて会うこととなった。
てっきり町娘か商家の娘のような気軽な人物を想像していた。だが、実際に対面してみると、その印象は大きく覆された。
フィオはどこまでも落ち着いており、丁寧で品のある言葉遣いをする。姿勢は正しく、礼を欠かさず、物腰も柔らかい。町の宿屋に身を寄せていたとは到底思えないほどの教養がにじんでいた。
クラウスは彼女が侍女に出された茶器を扱う手つきを見て、「貴族令嬢の仕草だ」とすぐに察した。
ティナの様子も劇的に変わった。
あの日まで泣きわめき、食事もとらず、誰の声にも反応しなかった幼子が、フィオの傍では穏やかに笑っている。読み聞かせをすれば声をあげて喜び、手をつなげば安心したように眠る。
ずいぶん悩んだようだったヴェルフリートが契約結婚をもちかけたことに安堵した。
家令のオルドフあたりは小娘なんかにこのエルグランド家の血筋が汚されるなどと言っていたため、クラウスは笑顔で反論しておいた。そろそろ引退した方がいいのではと思う。
さらに驚かされたのは、フィオの仕事ぶりだった。
書類整理を頼んだところ、彼女はわずか数時間で大量の文書を正確に分類し、誤記まで見つけ出した。
クラウスが三日がかりで片づけていた仕事を、彼女は半日で終わらせたのである。
文字は整い、内容の理解も早く、まさに即戦力だ。さらに、裁縫、礼法、園芸に至るまで幅広い知識も技能を備えており、どれも一級品だった。
(一体、何者なんだ……?)
そう思ったクラウスは、フィオという女性について極秘に調査をすることにしたのだった。
それまで穏やかに続いていたエルグランドの暮らしは、一夜で色を変えた。
領主館は混乱に包まれ、幼いヴァルティーナが泣き続ける声が朝まで響いていた。
辺境伯の弟であるヴェルフリートはその報せを受けて、軍務先の都から呼び戻された。政務経験も乏しいまま、突然、領地と民と小さな姪君を抱えることになったのである。
その肩にどれほどの重荷がのしかかったか、察するに余りある。
けれどヴェルフリートは一言の愚痴もこぼさなかった。
兄夫婦の遺志を継ぐように、ただ黙々と職務を引き受けた。
無骨で不器用で、言葉足らず。だが、誰よりも誠実で、責任感の強い男だ。
クラウスは彼ら兄弟と幼い頃から一緒に育った。いわゆる乳母兄弟である。
元々前辺境伯の仕事の補佐もしていたため、ヴェルフリートに代替わりしてもそのまま補佐の職に就いた。
混乱の収拾、領政の立て直し、そして一人になったヴァルティーナの養育――そのどれもが一朝一夕にこなせるものではなかった。
それからしばらくの間、屋敷には重たい空気が漂っていた。
幼いヴァルティーナはほとんど笑わなくなり、泣いたり、癇癪を起こしたりばかりで、誰もが手を焼いた。
かつてあれほど人懐こく、明るく笑っていた少女が、今ではクマのぬいぐるみを抱いたまま離そうとしない。食事の時間にも口を開かず、誰が声をかけても小さく首を振るだけだ。
ヴェルフリートやクラウスには心を開いてくれている様子はあるが、どうしても仕事で彼女にばかり構ってはいられない。
ある日、気晴らしになればというヘルマの提案でヴェルフリートはヴァルティーナを町へ連れ出した。
けれどその途中、同行していた若いメイドが目を離した隙に、ヴァルティーナの姿が見えなくなった。以前から職務怠慢を指摘されていた者で、その日も屋台を眺めていたという。免職まではされなかったが当然のことながら、厳しい叱責をされた。
その騒ぎの中で、二人はフィオという名の赤髪の女性と出会い、彼女と共に城に戻ってきたのだ。
***
その日の昼下がり。ヴェルフリートは執務室に戻るなり、深く息を吐いた。
外気を吸ったばかりの軍服には、ほのかに土と風の匂いが残っている。
クラウスは机に書類を並べていたが、主の険しい表情に気づいて眉を上げた。
「お帰り、ヴェルフ。……随分と疲れた顔をしてるな。まさかティナ様がまた泣き出したとか?」
「泣いたどころか、迷子になった」
「……はい?」
ペンを持つ手が止まる。クラウスは一瞬、冗談かと思ったが、ヴェルフリートの表情はいつものように真面目で、ひと欠片の笑いもない。
その深い青の瞳には、さすがに疲労の色が滲んでいる。
「大丈夫なんですか、ティナ様は」
「すぐに見つかった。怪我もなく元気だ」
「それは良かった~。確かメイドも連れていってましたよね? その子は何をしてたんだ?」
クラウスが恐る恐る尋ねると、ヴェルフリートは短く息を吐いた。
「……目を離した。屋台を見ていたらしい」
「へえ……」
「それに、道中、俺にばかり話しかけてきた。ティナがいるのに」
淡々と語る口調ではあるが、わずかに眉間が寄っている。
クラウスは内心で「ああ、やっぱりな」と頷いた。
若いメイドの中には、ヴェルフリートに惹かれる者も少なくない。無骨で冷たく見えても、鍛えられた長身に、整った顔立ち、領主という肩書き。
まっすぐな物腰と誠実な人柄を知れば、なおさら「いつか振り向かせたい」などと夢を見る子も出てくる。
(まあ……気持ちはわかるけどねえ。ヴェルフはそういうのに気づかないどころか、気づいても困った顔しかしないからな)
クラウスは苦笑を浮かべた。
しかし、今回ばかりは笑い話ではない。ティナがいなくなったというのは、館中の誰にとっても胸が凍る出来事だった。
「そのメイドには後で厳しく言っておきますよ」
「もう言った。ヘルマにも伝えてある」
「おおっと、仕事が早い。さすが領主様」
軽口を叩きながらも、クラウスは内心で深く息をついた。
ヴェルフリートの疲れは隠せていない。政務に訓練、さらに幼い姪の世話――一人で抱え込んでいるのだ。
それでも、表情に苛立ちを見せることもなく、淡々とすべてをこなしてしまう。
「じゃあ、ヴェルフが見つけたのか?」
そう尋ねると、ヴェルフリートが続けた。
「いや。赤髪の女性がティナを保護してくれていた。川辺で一人でいるところに声をかけて、保護者を探して一緒に花畑に行ったらしい」
ヴェルフリートは報告書を記すような口調で淡々と語る。
だが、クラウスの耳にはそのわずかな声音の変化が引っかかった。
(……おや? なんだか、ちょっと雰囲気が違うな)
だが今は、事実確認することが先だ。
「ふむ……赤髪の女性ですか。ぜひお礼をしなければなりませんね」
「今、応接間に来ている」
「なんて?」
「この城まで着いてきてもらった。ティナが離れなかったんだ。それに、笑っていた」
ヴェルフリートの声は静かだが、見るからに困った顔をしていた。
そんな表情を彼が見せるのは、クラウスでも滅多にお目にかかれない。
クラウスは頬を掻きながら、しばし考え込む。
そして、ふと思いついたように身を乗り出した。
「なかなか他の人に心を開かなかったティナ様が懐くとは……それはすごい。誰にだって笑わなかったのに」
「……ああ」
「その女性、そのまま城に滞在してもらうのは可能でしょうかね? 教育係、あるいは侍女のような形でも。給金ならまだいけそうだよ」
クラウスの提案に、ヴェルフリートは一瞬だけ目を伏せた。
考え込むように唇を引き結び、机の上の書類へと視線を落とす。
「……悪くはない。だが、本人の希望もある。無理には引き止められん」
「うーんそうだよなあ。でも、ティナ様が元気になってくれそうじゃない?」
茶化すように笑うクラウスに、ヴェルフリートは小さくため息をつく。
その表情は困惑と戸惑いの入り混じったものだった。
「……それは、そうだが。相手にも都合はある」
「いや、ここは思い切ってばーんといこう! ヴェルフ!」
クラウスは立ち上がり、執務机の端に積まれた分厚い束を指さした。
「いっそ奥様として迎えたらいいんじゃないか? そしたら、これも解決するだろう!」
ヴェルフリートが眉をひそめる。クラウスが指差した机の上には、縁談の候補書――いわゆる釣書がうず高く積まれている。
どれも政略と打算の香りが強く、彼自身、うんざりしているものばかりだ。
「……」
「結構本気だよ。ヴェルフも考えてみてよ。じゃあオレも、その方を確認しにいってくるな。ヴェルフはそれまで仕事片しとくんだぞ」
兄としての顔を見せるクラウスに、ヴェルフリートは小さく首を振り、ため息をつくと再び書類へと視線を落とした。
(さてさて、赤髪の救世主さんとやら……どんな方なのか、拝見するとしようか)
そうして、クラウスはフィオと始めて会うこととなった。
てっきり町娘か商家の娘のような気軽な人物を想像していた。だが、実際に対面してみると、その印象は大きく覆された。
フィオはどこまでも落ち着いており、丁寧で品のある言葉遣いをする。姿勢は正しく、礼を欠かさず、物腰も柔らかい。町の宿屋に身を寄せていたとは到底思えないほどの教養がにじんでいた。
クラウスは彼女が侍女に出された茶器を扱う手つきを見て、「貴族令嬢の仕草だ」とすぐに察した。
ティナの様子も劇的に変わった。
あの日まで泣きわめき、食事もとらず、誰の声にも反応しなかった幼子が、フィオの傍では穏やかに笑っている。読み聞かせをすれば声をあげて喜び、手をつなげば安心したように眠る。
ずいぶん悩んだようだったヴェルフリートが契約結婚をもちかけたことに安堵した。
家令のオルドフあたりは小娘なんかにこのエルグランド家の血筋が汚されるなどと言っていたため、クラウスは笑顔で反論しておいた。そろそろ引退した方がいいのではと思う。
さらに驚かされたのは、フィオの仕事ぶりだった。
書類整理を頼んだところ、彼女はわずか数時間で大量の文書を正確に分類し、誤記まで見つけ出した。
クラウスが三日がかりで片づけていた仕事を、彼女は半日で終わらせたのである。
文字は整い、内容の理解も早く、まさに即戦力だ。さらに、裁縫、礼法、園芸に至るまで幅広い知識も技能を備えており、どれも一級品だった。
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