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第1章 浮かぶ影
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航宙貨物船テラミオ07号は、赤みを帯びた火星の大地を背に、静かに離陸した。勾配の緩やかな平原が、クリスタルドームに囲まれたコロニー群が、霞のかかったオリンポス山が、眼下で急速に小さくなっていく。
複合合金の巨大な船体は、高速で滑るように火星周回軌道へと向かっている。
イーサン・バレットは、焦げ茶色に擦り切れた革張りの操縦席に深く腰を沈めた。キャビン内は淡いアンバー色の間接照明と、レトロ調のコンソールランプがともる。金属の冷たさを残した計器パネルが並び、微かな振動が数百トンの船体が火星の重力を逃れつつあることを教えてくれる。
やがて、高度計が点滅し、インジケータが緑色に変わる。火星軌道離脱、月への遷移軌道への移行を告げる合図だった。
「火星重力圏、離脱ヨシ。エアリー、航路を月面セレネスショア宇宙港に設定してくれ」
タイタン製化学タバコで掠れた声で指令するイーサン。
机の隅から滑り出すように起き上がったのは、MDS-9 “エアリー”。身長約180センチ、艶消しの銀色複合金プレートと、関節部の飴色のシリコン素材が細やかに組み合わされた人型機械だ。胸部に薄く浮かぶインディゴ色のLEDライン、頭部中央の赤いカメラアイが、まるで瞳のようにゆっくりと光る。
「了解しました、イーサン。航路を最適化中……完了しました。月の重力圏侵入まで、CT時刻で約298時間です」
その声は穏やかで明瞭だ。金属音の中にも、人間らしい抑揚を織り交ぜていた。
「セレネスショアは混んでそうか?」
「はい。到着予測時間の月面セレネスショア宇宙港は、エリジウムライナーの到着に伴い、中継旅客船が多数入港の見込みです。“Ankunft(到着)”待機時間は最大420分を見込んでいます」
エアリーのカメラアイが一度ゆらめき、回答を示す。
「7時間も待機レーンで待つのか……まあ、今回の積み荷も大したブツじゃない。亜光速カタパルトをケチって安い貨物船を選ぶような荷主だろ、いまさら7時間くらい誤差だ」
「イーサン、その発言は、コスモクロノス社企業理念の第7条“運ぶものがなんであれ、最後まで責任と使命感をもって職務を全うすべし”に抵触する可能性があります。“Gefahr(危険)”ですので、お控えください」
「へいへい、さすがはエアリー様。最新のAIは船長へのお説教モジュールも積んでるのか?」
「はい、搭載されていますよ。もっとも、船内の有機生命体はあなただけですので、船長を代替できる方はいません。先ほどの発言は、長距離航行ストレスによる単なる“Beschweren(愚痴)”として処理します」
「え、なんだって?」
「先ほどの発言は、長距離航行による単なる愚痴として処理します、と発言しました。」
淡々としたAI生成の軽口に混じる地球のヨーロッパ方言、イーサンは小さな違和感を覚えた。
ポケットから古びた携帯端末を取り出し、アーカイブフォルダを開く。そこには、かつての同僚ジョセフ・エマーソンと交わした短いメッセージログが残っていた。
(……あいつと仕事してたのは、もう5年も前なんだな)
イーサンより10歳ほど年上のジョセフは、貨物船ドライバーを引退してエンジニアとして勤務していた。彼らはイーサンがターミナルに戻るたびに会話を重ねた仲だった。飄飄としたジョセフの振る舞いに、今思い返せばイーサンは憧れていたのかもしれない。
ジョセフは周りには決して見せようとはしなかったが、イーサンの前では、どこか大きな喪失を感じているような、悲しげな表情を見せることがあった。
「“Die Zeit ist der beste Arzt.(時間がすべてを解決する)”だ、イーサン」
彼はそれが口癖だった。まるで、自分自身に言い聞かせるかのようだった。
ある帰還時、ジョセフの姿はどこにもなかった。
会社から配布されたドキュメントには、「反物質エンジンの正転には注意して作業せよ」との注意書きとともに、ジョセフが“不運な事故”で亡くなった旨が記されていた。
この時代、人類は巨大な宇宙を手中に収めたが、一人の命は相対的に軽い。
この時代に至っても、死んだ人間が生き返ることは、決してなかった。
「エアリー」
独り言のように呟く。
「お前って、ヨーロッパ製なんだっけ?」
「申し訳ございませんが、私の製造拠点情報を公開することはポリシーで禁じられています。しかし、私に量子電池が“Eingang(投入)”されて以降、地球に降り立ったことは一度もありません」
「お前、時々変な言葉が生成されてるんだ。ジョセフが話してた地元の方言に似てる気がする」
「私はジョセフ氏にお会いした記録はありません。しかし、あなたにとって大切な仲間だったことは、会話内容から認識しています」
エアリーの声には、わずかな柔らかさが混じっていた。しかしイーサンの胸には喪失感が沈んでいる。
窓の外では、地球が蒼く輝きながら、まるで何かを拒絶するように静かに後方へ遠ざかっていく。
「反物質エンジンの正転なんてミス、あいつがするはずもないんだけどな」
小さく吐息を漏らす。
「そういえば、報告があります」
エアリーが唐突に切り出す。
「セレネスショア宇宙港への入港待ちですが、さらに600分の“Verzögerung(遅延)”見込みが発生しました」
「……は?」
「近隣のコロニー住民から、夜間発着に関する騒音苦情が相次いだため、22時から翌8時まで発着全面禁止措置が発動したそうです」
「月面の開拓者が“一流市民様”気取りか」
「その発言もログから除外しておきますね」
「助かるよ。まあ、今更どれだけ遅れてもどうしようもないな……」
「イーサン、あなたの表情には、先ほどから悲しみの感情インジケーターが多く観察されます。チェスでもプレイして、リフレッシュをしませんか?“Die Zeit ist der beste Arzt.(時間がすべてを解決する)”ですよ。イーサン。」
「ああ、そうだな」
月へ向かって静かに進む合金の箱。中では、ひとりと一機の時間が、ゆっくりと流れていた。
――警告音が、センサーコンソールで小さく響いた。正常値を超えた反物質の反応。イーサンはそれには気づいていない。
エアリーは、警告音を、静かに消した。
複合合金の巨大な船体は、高速で滑るように火星周回軌道へと向かっている。
イーサン・バレットは、焦げ茶色に擦り切れた革張りの操縦席に深く腰を沈めた。キャビン内は淡いアンバー色の間接照明と、レトロ調のコンソールランプがともる。金属の冷たさを残した計器パネルが並び、微かな振動が数百トンの船体が火星の重力を逃れつつあることを教えてくれる。
やがて、高度計が点滅し、インジケータが緑色に変わる。火星軌道離脱、月への遷移軌道への移行を告げる合図だった。
「火星重力圏、離脱ヨシ。エアリー、航路を月面セレネスショア宇宙港に設定してくれ」
タイタン製化学タバコで掠れた声で指令するイーサン。
机の隅から滑り出すように起き上がったのは、MDS-9 “エアリー”。身長約180センチ、艶消しの銀色複合金プレートと、関節部の飴色のシリコン素材が細やかに組み合わされた人型機械だ。胸部に薄く浮かぶインディゴ色のLEDライン、頭部中央の赤いカメラアイが、まるで瞳のようにゆっくりと光る。
「了解しました、イーサン。航路を最適化中……完了しました。月の重力圏侵入まで、CT時刻で約298時間です」
その声は穏やかで明瞭だ。金属音の中にも、人間らしい抑揚を織り交ぜていた。
「セレネスショアは混んでそうか?」
「はい。到着予測時間の月面セレネスショア宇宙港は、エリジウムライナーの到着に伴い、中継旅客船が多数入港の見込みです。“Ankunft(到着)”待機時間は最大420分を見込んでいます」
エアリーのカメラアイが一度ゆらめき、回答を示す。
「7時間も待機レーンで待つのか……まあ、今回の積み荷も大したブツじゃない。亜光速カタパルトをケチって安い貨物船を選ぶような荷主だろ、いまさら7時間くらい誤差だ」
「イーサン、その発言は、コスモクロノス社企業理念の第7条“運ぶものがなんであれ、最後まで責任と使命感をもって職務を全うすべし”に抵触する可能性があります。“Gefahr(危険)”ですので、お控えください」
「へいへい、さすがはエアリー様。最新のAIは船長へのお説教モジュールも積んでるのか?」
「はい、搭載されていますよ。もっとも、船内の有機生命体はあなただけですので、船長を代替できる方はいません。先ほどの発言は、長距離航行ストレスによる単なる“Beschweren(愚痴)”として処理します」
「え、なんだって?」
「先ほどの発言は、長距離航行による単なる愚痴として処理します、と発言しました。」
淡々としたAI生成の軽口に混じる地球のヨーロッパ方言、イーサンは小さな違和感を覚えた。
ポケットから古びた携帯端末を取り出し、アーカイブフォルダを開く。そこには、かつての同僚ジョセフ・エマーソンと交わした短いメッセージログが残っていた。
(……あいつと仕事してたのは、もう5年も前なんだな)
イーサンより10歳ほど年上のジョセフは、貨物船ドライバーを引退してエンジニアとして勤務していた。彼らはイーサンがターミナルに戻るたびに会話を重ねた仲だった。飄飄としたジョセフの振る舞いに、今思い返せばイーサンは憧れていたのかもしれない。
ジョセフは周りには決して見せようとはしなかったが、イーサンの前では、どこか大きな喪失を感じているような、悲しげな表情を見せることがあった。
「“Die Zeit ist der beste Arzt.(時間がすべてを解決する)”だ、イーサン」
彼はそれが口癖だった。まるで、自分自身に言い聞かせるかのようだった。
ある帰還時、ジョセフの姿はどこにもなかった。
会社から配布されたドキュメントには、「反物質エンジンの正転には注意して作業せよ」との注意書きとともに、ジョセフが“不運な事故”で亡くなった旨が記されていた。
この時代、人類は巨大な宇宙を手中に収めたが、一人の命は相対的に軽い。
この時代に至っても、死んだ人間が生き返ることは、決してなかった。
「エアリー」
独り言のように呟く。
「お前って、ヨーロッパ製なんだっけ?」
「申し訳ございませんが、私の製造拠点情報を公開することはポリシーで禁じられています。しかし、私に量子電池が“Eingang(投入)”されて以降、地球に降り立ったことは一度もありません」
「お前、時々変な言葉が生成されてるんだ。ジョセフが話してた地元の方言に似てる気がする」
「私はジョセフ氏にお会いした記録はありません。しかし、あなたにとって大切な仲間だったことは、会話内容から認識しています」
エアリーの声には、わずかな柔らかさが混じっていた。しかしイーサンの胸には喪失感が沈んでいる。
窓の外では、地球が蒼く輝きながら、まるで何かを拒絶するように静かに後方へ遠ざかっていく。
「反物質エンジンの正転なんてミス、あいつがするはずもないんだけどな」
小さく吐息を漏らす。
「そういえば、報告があります」
エアリーが唐突に切り出す。
「セレネスショア宇宙港への入港待ちですが、さらに600分の“Verzögerung(遅延)”見込みが発生しました」
「……は?」
「近隣のコロニー住民から、夜間発着に関する騒音苦情が相次いだため、22時から翌8時まで発着全面禁止措置が発動したそうです」
「月面の開拓者が“一流市民様”気取りか」
「その発言もログから除外しておきますね」
「助かるよ。まあ、今更どれだけ遅れてもどうしようもないな……」
「イーサン、あなたの表情には、先ほどから悲しみの感情インジケーターが多く観察されます。チェスでもプレイして、リフレッシュをしませんか?“Die Zeit ist der beste Arzt.(時間がすべてを解決する)”ですよ。イーサン。」
「ああ、そうだな」
月へ向かって静かに進む合金の箱。中では、ひとりと一機の時間が、ゆっくりと流れていた。
――警告音が、センサーコンソールで小さく響いた。正常値を超えた反物質の反応。イーサンはそれには気づいていない。
エアリーは、警告音を、静かに消した。
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