聖女は目覚めない

秋空夕子

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前編

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『さあ、目覚めなさい』
 どこからともなく声が聞こえた。
『役目を果たすのです』
 美しくも厳かなその声は初めて聞くのにどこか懐かしい。
『あなたは聖女として、この世界を救う使命があります』
 言っていることの意味はよくわからないが、そうしなくてはいけないという気持ちになる。
 けれど……
『魔王が……早く……間に合わない……今度こそ……』
 声が、少しずつ遠ざかっていく。
『……急いで…………あのおとこは…………きづい………………』
 何か、大事なことを言っているのはわかるのに、いくら耳をすませても聞き取れない。
『………………』
 やがて声は、聞こえなくなってしまった。



「……またあの夢か」
 ベッドから起き上がりながら、ユリエラはため息を付く。
 ここ最近、同じような夢を見ているのだ。
 内容もぼんやりとだが、覚えている。
(聖女だとか、魔王だとか……本の読みすぎかしら?)
 体を大きく伸ばしながら時計を見ると、登校の時間まで若干余裕があった。
 ユリエラは気持ちを切り替えて、身支度を整えるためクローゼットに手伸ばす。

「……おはよう」
 クラスに入って小さく挨拶をする。
 それなりに賑やかな室内にその小さな声は誰にも届かず、それどころかユリエラが入ってきたことにも気づかないか気にする様子はない。
 とはいえ、それはユリエラの方こそ望むことである。
 彼女は幼い頃からどうにも人の目が恐ろしく、目立つことが嫌で嫌でしょうがなかった。
 どうしてそうなったのかは、本人にもわからないが。
 最後にクラスメイトと話したのはいつのことだろう。もうそれすらも忘れてしまった。
 けれども、寂しさは感じない。
 それが彼女と日常だからだ。

 放課後、クラスメイトたちが学校から出ていく中、ユリエラは一人図書室に向かった。
 中には本を読む者や勉強する者が何人かいたが、聞こえるのは紙をめくる音と人の呼吸の音ぐらいだ。
 ユリエラはなるべく気配を殺して、図書室の奥へと進んでいく。
 図書室は広く、奥に行くほど人影は見当たらなくなる。
(今日は、何を読もうかしら)
 本棚にぎっしりと並んでいる本の背表紙を見ながら、どれから手に取ろうかと悩んでいると一冊の本が目に入った。
「えっと……『イグルナクの聖女』?」
 その題名がなんとなく引っかかり、ユリエラは手に取る。
 表紙を開いて中を流し読みしてみたところ、このような内容だった。

 あるところに、一人の少女がいた。
 彼女は神により聖女として選ばれ、召し上げられることとなる。
 彼女の存在は国中の希望となり、多くの人々が彼女を尊敬し慕った。
 しかし、敵である魔王により魅了された聖女は事もあろうに人々を裏切ってしまう。
 人々は聖女の裏切りに嘆き絶望しながら死んでいき、国は滅んだ。
 そして魔王に命じられるがまま国を滅ぼした聖女もまた、自分のした罪深き行いに耐えきれず自害した。
 あとには魔王が一人だけ残ったのだ。

 童話らしいその本の最後には、魔王と言われる存在が一人だけ描かれている絵が載っていた。
 けれどもそれを見た瞬間、ズキンと頭が痛くなる。
(え? 何? ……痛い)
 徐々に痛みが強くなり、本を落としてしまう。
 しかし、その時はすでに痛みのあまり体がふらついていて、そこまで気が回らなかった。
「だれ、かっ……」
 このままでは危ないと思い、助けを求めるが口から出た声はか細く、これでは他の人には届かない。
 『死』という文字が頭に浮かんだその時、彼女に声をかけるものがいた。
「大丈夫ですか?」
 なんとか顔をあげると、そこには一人の青年がいるではないか。
「随分と苦しそうですね。さ、こちらへ」
 青年に手を引かれ、近くにあった椅子に腰掛ける。
「具合はどうですか?」
「あ、大丈夫です。もう平気です」
 不思議なもので、あれほどあった頭痛がいつの間にやら引いており、痛みなど全く残っていなかった。
「その、ありがとうございます……えっと」
「ああ、僕の名前はエルディス。よろしくね」
「あ、私はユリエラです」
 青年、エルディスの名乗りにつられ、ユリエラも自らの名前を告げる。
 それを聞いた彼は「素敵な名前ですね」と笑った。
 その笑顔が、どこか懐かしい気がしてユリエラは記憶の中を探るも、どうしても思い出せない。
(どこかで会ったことがあるか聞いたほうがいいかな? でも、私の気のせいだったら気まずいし……)
 どうしようかと迷っていると、エルディスは落とした本を拾ってユリエラに差し出す。
「これ、君が読んでいた本ですか?」
「そ、そうです。すいません」
「いえいえ、お気になさらず。ところで、本当に体調の方は大丈夫なんですか? よかったら保健室に連れていきましょうか?」
 彼の申し出はありがたいのだが、これ以上迷惑をかけたくなくてユリエラは首を横に振った。
「いえ、そんな……本当に大丈夫ですから。少し休めれば平気です」
「……わかりました。それじゃあ、無理をしないでくださいね」
 去っていくエルディスの姿に、申し訳ないがユリエラはホッとする。
 学校で誰かとこんなに話したのは久しぶりだ。
(そういえば彼、見たことがないけど……どこのクラスの子だろう?)
 ふと、そんな疑問が浮かんだが、すぐに気にしないことにした。
 だって、どうせもう話すことなどないのだから。
 頭の痛みはもう無くなったが、それでも万が一に備えて、ユリエラはもう帰ることにする。
 一応、周囲を確認しながら図書室から出ていくも、エルディスの姿はどこにも見えなかった。



 けれども、ユリエラの予想に反して、エルディスとは何度も会うことになった。
 ある時は初めて会った時と同様に図書室で、ある時は廊下で、ある時は校庭で、顔を合わせるのだ。
 彼はそのたびにユリエラに挨拶をして、ユリエラはそれになんとか反応する。
 最初はその程度だったのだが、回数が増えれば人見知りのユリエラもそれなりにエルディスに親しみを感じるようになり、少しずつではあるが挨拶以外の言葉を交わすようになっていったのだ。

「こんにちは、ユリエラ」
「あ、こんにちは」
 廊下を歩いていると、エルディスが声をかけてきた。
「今日はどんな本を読んでるの?」
 ほほ笑みを浮かべ近づいてくるエルディスに、ユリエラは持っていた本を開いて見せる。
「えっと……これはね」
 こうして本の内容を紹介するのにも随分と慣れてきた。
 とはいえ、人と話すのが苦手なユリエラの説明はどこかわかりにくく、面白さが伝わりにくいものだ。
 それでもエルディスは楽しそうに彼女の話を聞いてくれるので、ユリエラも嬉しくなった。
(本当に、エルディス君って話しやすいなあ……)
 自分でもこう思うのだから、他の人からも好かれやすいのだろう。
 きっとクラスでも人気者に違いない。
 そんな彼がどうしてここまで自分に良くしてくれるのかはわからないが、きっといつも一人である自分を気にかけてくれているのだとユリエラは思っていた。
「……ていう話なの」
「へえ、面白そうだね。今度読んでみるよ……ああ、そうそう。この前、君が読んでた『青蜥蜴』シリーズ読んだよ。あれも良かった」
「え、本当に!?」
 思わず大きな声をあげてしまった。
 『青蜥蜴』シリーズとはユリエラのお気に入りの作品の一つだ。
 一人の青年がある日目を覚ますと頭部が青い蜥蜴に変わっていて、己の本当の顔を取り戻す為に奮闘するという内容である。
 この作品は全体的に暗い展開が続き、読む人を選ぶ内容になっているからか読んでいる人は少ないのだ。
 それなのにこんな近くで同好の士と出会え、珍しく彼女は興奮を覚えた。
「え、エルディス君はどのキャラが一番好き?」
「うーん、そうだな……リジーとかいいキャラだと思う」
「ああ! 可愛いよね」
 リジーとは青蜥蜴のヒロインキャラである。
 生まれつき盲目で、そのせいで親から捨てられた子だが、健気で優しい子なのだ。
「でも、三巻以降は置いてなかったけど、まだ出てないのかな?」
「ううん、もう五巻まで出てるの。だけど、図書室には置いてなくて」
「そっか。じゃあ、買おうかな」
「あ、でも、このシリーズって取り扱ってる書店が少ないの……ちょっと遠いところにあって」
 ユリエラはその書店までの道筋を説明しようとしたが、その言葉を遮るようにエルディスが言葉を発した。
「じゃあ今度の休み、一緒に行かない?」
「え?」
 一瞬、何を言われたのかわからず、固まってしまう。
「あ、ごめん。何か用事があったかな?」
「いえ、そうじゃないけど……」
「そう? それじゃあ、大丈夫かな?」
「え、ええ」
「よかった! 詳しいことはまた明日決めようね。楽しみにしてるよ」
 そう言って去っていくエルディスを、ユリエラは呆然と見送った。
(まさか、私が誰かと遊びに行くことになるなんて……)
 それもエルディスと。
 ユリエラは心臓がドキドキするのを止められなかった。
 だって、幼い頃からどういうわけか人目が気になって仕方がなく、そして注目を浴びることに強い恐怖を抱いてしまうユリエラにとって、話すのが楽しいと思うのも、もっと一緒にいたいと思うのも、初めての経験なのだ。
(ど、どんな格好をすればいいんだろう? 身だしなみもしっかりと整えなきゃ)
 ふと、周囲を見れば生徒の姿が疎らに現れる。
(……そういえば、エルディスと会う時はいつも、周囲に人がいないような……)
 そんな疑念が頭に浮かんだユリエラだが、しかしそんなものはただの偶然だろうと結論づけた。
 今のユリエラにとって、そんなことよりも今度の休みに着ていく服のほうが大事なのだ。
 彼女は一刻も早く準備をするべく、帰路につく。

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