魔王へのレクイエム

浜柔

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第九章 魔王はここに

第百七話

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 ゴンドラを飛び立ったシーリスは真っ直ぐに神聖ログリア帝国第三皇子コルネースの許へと行く。樹木の魔物に襲われないようにか、発掘作業の折にエミリーが焼き払った跡も生々しい、開けた場所に陣取っていたため、直ぐに見付けられた。そしてそのコルネースの目前で滞空しながら睥睨する。
 怖ろしいスピードで飛来した女に兵士らが慄く中、さすが騎士と言うべきか、騎士フーバがコルネースの前に出て剣を構える。
「"やはり貴様が魔王なのだな!"」
「何を言ってるのか解らないわ。でもそんなことはどうでもいいわね」
 シーリスは酷薄に嗤う。端から話し合うつもりなど無い。
 しかしそれはコルネースも同じだ。
「"何をしている! その女こそ魔王だ! 今こそ討伐の時! 一斉に掛かれ!"」
 コルネースの命令で我に返った魔法兵らが魔法を放つ。だが、シーリスがほぼ全方位に張り巡らせた障壁バリアは容易くその全てを阻む。
「あんた達は解ってないんでしょうけど、わたしはお優しい人間じゃないの」
 シーリスが両腕を軽く振る。するとそれぞれの腕の延長線上で、腕の動きに合わせて円弧を描くように爆炎が上がった。上がるのは数多の断末魔の悲鳴もだ。
「あの時はルセアが居たから。彼女に残酷なところを見せたくなかっただけなのよ」
 兵士らの断末魔が響く中、フーバは滞空するシーリスよりも高く跳び上がっていた。
「"キィェェェ!"」
 裂帛の気合と共にフーバが落下の勢いも足して、上段から剣を振り下ろす。
 ガインと硬質な音が響いた。バリアは小揺るぎもしていない。
「"ぐぬっ"」
 フーバは呻く。バリアを打ち砕くどころか全く歯が立たず、腕がその力の全てを跳ね返されたように痺れている。
「"ここまでとは……"」
 顔を蒼白にしたフーバはここで初めて知ったように言うが、そんなことは無い。召喚時にはシーリスが殺しに掛かっていなかったために危機感を強く抱くことも無かったが、少なくともシーリスの防御に対して全く歯が立たないことはその時点で判っていることだ。不都合な事実から目を逸らし、生殺与奪が思いのままだと思い込んでいたに過ぎない。
 それはコルネースも同じだ。同じだからこそ召喚時にも安易にシーリスを殺害しようとし、先程も安易にゴンドラを攻撃した。
 そんな二人の曇った目も漸く若干ながら晴れる時が来た。
 シーリスの魔法が起こした爆炎で巻き上げられた埃が晴れて行く。横たわるのは人の形すら怪しくなった兵士の骸だ。
「"ヒッ"」
 コルネースの顔がひきつけを起こしたように歪む。
 コルネースはこうした骸を幾度となく見た経験が有る。しかしそれは一方的な加害者としてであり、生死を分ける戦いの場でもなければ、ましてや一方的に蹂躙される立場でもなかった。自らが痛みを感じるなどあり得なかったために、理不尽な暴力を前にして恐怖に歪む顔も、痛みに泣き叫ぶ声も滑稽なパフォーマンス、単なる娯楽としか感じていなかった。
 だが、今この時この場所は違う。目の前に骸を晒すのは、仮初めの部下とは言え、味方であり、盾となって守ってくれる筈だった者達だ。それが相手の腕のほんの一振りだけで、数十人もが惨たらしい姿にされてしまったのだ。次に骸を晒すのは一体誰か。
 ここで初めて痛みを想像した。小さな傷の痛みなら解る。皇子と言えども掠り傷の一つや二つは負ったことが有るからだ。小さな傷でも場合によっては堪え難い痛みをもたらすものだった。死に至る痛みとなれば如何ばかりか。加害者である時は一顧だにしなかったそれも、自分へと向けられる目の前の脅威となれば嫌でも向き合うことになる。
「"た! 助けてくれ!"」
 コルネースの声は上擦っていた。これがもし他人が発したものなら嘲笑しただろう声だ。だが、そんな声を自分が発したことを自覚する余裕も失っている。
「"そ、そうだ。わ、我に仕えぬか? 厚遇するぞ? 報酬も弾む。な、何なら爵位や領地をやっても良い"」
 そんな気は無く、与える権限も持ち合わせていないにも拘わらず、姑息に金銭や名誉をちらつかせる。誰しもが金銭や名誉に尻尾を振ると言うのがコルネースの価値観でもある。
 しかしシーリスはそんなものに目もくれない。金銭や名誉など、求めていない。そもそも言葉が通じていないのだから、何を言っているのか判っていない。
 この時、コルネースが言い募るのを隙と見たか、フーバが逃走を企てた。森の中へと一直線。仕えるべき主を見捨てての逃走だ。騎士の矜恃などかなぐり捨て、我が身可愛さに突き動かされている。
 だが、それを見逃すシーリスではない。フーバに向けて手首を返すように手を振り上げる。それは風の刃を生み、風の刃はフーバへと殺到する。
 命中するかと思われた瞬間、フーバは身を翻す。横っ飛びに樹木の陰に身を潜ませる。
 シーリスは何の気負いも無く振り上げた手の拳を握る。瞬間、風の刃が弾け、四方に飛んだ。ちょうどフーバが身を翻した地点を中心にして、分裂した風の刃が周囲の一切合切を切り裂いてゆく。
「"ぐあっ!"」
 ずずん、ずずん、と幹の太さが一抱えほどもある樹木が倒れる音に混じってフーバの悲鳴も木霊した。
 シーリスは索敵によってフーバが動かないことを確認してからまたコルネースへと向き直る。フーバの逃走により完全に戦意を失った兵士達が蜘蛛の子を散らすように逃走するが、それには目もくれない。
 シーリスの視線に貫かれたコルネースは顔色を死人のように青くする。だがまだ囀る。
「"そ、その力、見事だ! そ、そなたの力が有れば、せ、世界も手に入れられよう! ど、どうだ? わ、我に手を貸すなら、せ、世界の半分をくれてやるぞ!?"」
 死を目前にしてもコルネースの価値観は揺るがないのだ。
「ピーピー五月蠅いわね。少し嬲ってやろうかとも思ったけど、そんな手間を掛ける価値も無いわ」
「"そ、そうか。我に仕えるか。歓迎しようではないか!"」
 コルネースはシーリスとは言葉が通じていないことを最期まで理解できず、最期は幻聴まで聞いていたらしい。
 そしてシーリスが再度軽く手を振った瞬間、コルネースの首から上が、胴体との永遠の別れを迎えた。
 地上に降り立ったシーリスは左手で無造作にコルネースの髪の毛を掴んで生首をぶら下げ、フーバの方へと歩みを進める。
 フーバは倒れた樹木の間に潜む。右脚のすねから先が切り落とされ、腹も深く切り裂かれているために逃走もできない。手にしていた剣も半ば以上が切断され、今は地に転がっている。それを振るうことで、すんでのところで致命傷を避けたのだ。最早逃げることも戦うこともできず、ただシーリスが通り過ぎてしまうのを祈るだけだ。
 そんなフーバの視線の先で、シーリスが通り過ぎるかのように見えた。
 安堵するフーバ。だがその瞬間、シーリスは立ち止まり、フーバへと振り向いた。
 シーリスの凍てつく瞳に我知らず震えるフーバ。僅かでも遠ざからんと必死に手足を動かした。
 フーバの目にはシーリスが笑って見えた。だがそれは、フーバにとって魔王の微笑みに他ならない。
 そしてシーリスはフーバに向け、右手を横に一閃した。
 さあ、次は皇帝を殺しましょうか。
 左手にコルネースの、右手にフーバの生首をぶら下げたシーリスは次なる標的に思いを馳せる。自らに残された時間が更に短くなっているのを感じる。それまでの時間、魔王の徒花を咲かせるのも悪くない。そう考えた。

 後日。神聖ログリア帝国皇帝にこの時の報告が伝えられた。散り散りに逃げた兵士らの殆どは魔の森の中で命を落としたが、一部が生き残って魔物猟師の町に帰還したのだ。
 報告を聞いた皇帝は自らが甘く見ていたことを痛感する。甘く見ていたのはシーリスのことではなく、世界の狭さ、それにコルネースやフーバの愚かさだ。コルネースが遠征先でシーリスに遭遇すること、ましてやコルネースがシーリスに再び牙を剥くことなどまるで想像していなかった。
 皇帝が目論んだのはコルネース、そしてフーバを筆頭に、罪科の無い民衆に対して粗暴な振る舞いを繰り返す騎士や兵士の粛正だった。罪状が明らかでありながら証拠が無い、あるいは何者かによって揉み消されたことで罰を与えられなかった者達に対し、コルネースの発案を利用する形で罰を与えようとしたのだ。事が上手く運べば魔の森で遠征隊の多くが命を落とす筈で、途中までは上手く運んでいた。
 結果だけ見れば目論見を達成している。しかしそれは彼らが魔物に襲われて、あるいは魔物との戦いの中で命を落としてこそ後顧の憂いが無くなるのだ。それを別の相手、意思を持って単独で国を滅ぼせるような相手と戦ってのものでは、新たな憂いの方が甚大だ。
 シーリスを甘く見たことは無い。召喚直後の経緯を伝え聞いた時から単独で国を滅ぼせると直感した。敵対者を殺すことに躊躇いなど見せないだろう。十万の軍勢を揃えても蹂躙されるだけだ。だから機嫌を損ねないようにコルネースとフーバを幽閉し、機嫌を取るために要求を全て呑んだ。幸いなことに過大な要求をされなかったことで、財政に穴を空けるような事態に陥らなかっただけなのだ。
 そんな気分次第で国の存亡を左右してしまえる存在にコルネースは敵対してしまった。一度ならず二度までもだ。そして皇帝にはコルネースを幽閉から解き、遠征先に送り込んだ責任が有る。これによって皇帝が、ひいては帝国が敵対したようなものとなってしまった。
 皇帝はいつもたらされるか判らない死に恐怖する。その心労が身体の健康までもを急速に蝕み、数年後には死に至らしめるのだが、結果的にはシーリスから報復を受けると言う皇帝の予感は外れることになるのである。
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