迷宮精霊

浜柔

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第二九話 メイドは服を脱ぎ捨てた

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 第三一週木曜午後、迷宮――。

 メイドが降臨した。
「姫様、お久しぶりでございます。このローニャ、ただいま到着いたしました」
「まあ! ローニャ。本当に久しぶりですね。よく来てくれました」
 ローニャからすればフィーリアが迷宮に到着して以降の姿を見ていないだけだが、フィーリアからなら六週間半ぶりである。
「はいこのローニャ、姫様のいらっしゃる所、どこにでも参上いたします」
「頼もしいですね」
「然るに姫様、此度は立派な痴女に成られたご様子、このローニャ心よりお祝い申し上げます」
「まあ! ありがとう、ローニャ。ですが、まだまだこれからなのです」
 華やいだ笑顔を見せるフィーリア。
 しかし、傍で聞いている方が納得がいかない。
「主が痴女になったのを祝うだなんて、正気なのかい?」
 カトラが首を傾げつつ問うた。
 場所は鍛練場。カトラは如何にして天脚ができるようになったかの教示を請われて鍛練を共にしていたのだ。
「正気でございます」
 ローニャはきっぱりと答える。
「姫様の痴女への御憧憬は先刻承知しておりました。主が望みを成就されたなら、お祝い申し上げるのが仕える者の務めでございます。ましてや姫様はその麗しい御身をもって人々の目に至福をお与えになるのでございます。これはもう善行でございます。善行を為される主を讃えずして何を為しましょう」
 カトラから半ば魂が抜けた。
 止めろよー、どこのソレーヌだー、ヘンタイ過ぎるぞー、と言う台詞が頭の中をぐわんぐわん駆け巡る。
 そんなカトラを尻目に事態は進む。
「姫様、メイドたる者、主に仕えるに相応しい装いをするものでございます。お許し頂ければこの場にて装いを改めたく存じ上げます」
「この場で可能なのですか?」
「勿論でございます」
「それではローニャの生着替えを堪能させていただきましょう」
「御意に」
 ローニャはテキパキと服を全て脱いで畳んで纏めた。次いで、脱いだエプロンのポケットから小さい布切れの付いた紐を取り出して臍の下で腰に巻く。布切れは幅二〇センチメートルの半円状で、丁度身体の中央に垂れ下がっている。
 服を畳むまでは「あー、やっぱりねー」と見ていたカトラだったが、その布切れの意味が判らなかった。
「その、腰に巻いたのは一体何なんだい?」
「エプロンでございます」
 ローニャがカトラにずずっと迫って答えた。
 カトラは少し仰け反りつつまた問う。
「そんな、赤ん坊の涎掛けみたいなのがかい?」
「エプロンでございます」
 ローニャが更にずずずいっと迫って答えた。
 思わずローニャを抑えるように両手を広げて差し出した。
 ふよんと俄に柔らかい感触を手に受ける。見れば手がローニャの豊かな乳房に半ば埋まっている。殆ど無意識に揉んでしまった。
 あ、気持ちいい……。
 それでも口は更に問う。
「そんなのじゃエプロンの用を為さないんじゃないか?」
「然り」
 途端、ローニャがすすっと身を離す。
 突然空を切る手。消えた心地良い感触を惜しむかのように彷徨う指先。欠けたものを埋めるかのように何となく自分のを揉んでみる。
 あ、柔かい……。
 いや、そんな場合ではない。
「だったら着けてる意味が無いんじゃないか?」
「意味ならございます。メイドたる者エプロンを身に着けない訳には参りません。エプロンはメイドである証。エプロン有ってのメイド。エプロンこそメイド!」
「いやいやいや、エプロンはメイドじゃないから」
 左右に大きく仰ぐように手を振った。
「これは失礼いたしました。つまり、メイドにとってエプロンは切っても切り離せないものなのでございます!」
 カトラにはどうしてそう言い切れるのかがさっぱり見えない。エプロンもどきは装飾品と思えばいいのかな、と何となく思うだけだ。
「ふふっ、鼻息の荒いローニャを見るのは久しぶりです」
 フィーリアがころころと笑う。
 指摘を受けたローニャは刹那で取り澄ましてしまった。
「これは大変失礼いたしました」
「あら、もっと見ていたかったのに残念ね」
 フィーリアは心底残念そうだ。
 その傍ら、主従についていけないカトラからは魂が抜けていた。

  ◆

 深夜、四階踊り場では奥へ引っ込む意味も無くなったザムトがエリザと乳繰り合っている。要となる場所にはエリザが居た方が安心感を得られるのだ。
 その直ぐ上の三階階段にローニャが現れた。
「迷宮の主殿、お願いしたき儀がございます」
 エリザの嬌声にもローニャは動じていない。影響が全く無い訳ではないが、乳首が若干膨らんだ程度のものである。
 半ば待ち構えていたザムトは直ぐにエリザから離れてローニャに向かい合った。ザムトの前にはエリザが立っている。
「用心深い主殿で大変結構でございます」
「もし、あんたに襲われたら瞬殺されるだろうからな」
 ザムトがローニャの実力の予想ができたのは迷宮に漂う魔素の量による。人には感じられない魔素であるが、迷宮の主たるザムトは迷宮の中に限れば判るのである。
「それで良いのでございます。初めて相対するこのローニャを警戒するその用心深さにこそ、このローニャも信頼を置けようと言うものでございます」
「そりゃ、どうも」
「しかし些か防備は不十分でございます」
 ザムトは口を引き結ぶ。心当たりが無い訳ではない。
「このローニャを以てしても打ち破れないであろうエリザ様に絶大な信頼を置いていらっしゃるとは存じますが、エリザ様はあくまで点での防御。面で攻められると応じ切れないであろうと愚考する次第でございます」
「だからと言ってもなぁ」
「願いをお聞き入れくださるならば助言させて頂くのも吝かではございません」
 ザムトは頭を掻いた。
「願いとは?」
「姫様に相応しい住まいをご用意いただきたいのでございます。このローニャが滞在いたしますれば、階の一つや二つを維持するのは容易い事でございましょう」
「そこまでお見通しか」
 ローニャが頷く。
「エリザ様を召喚なさった事で魔力に貧していらっしゃるとお見受けいたします」
 見透かされているのを知り、思わず口を歪めて百面相をしてしまう。
「ご安心ください。この会話は階段の外には聞こえないようにしてございます」
 一安心とばかりに溜め息を吐いた。
「判った。聞き入れよう。あんたは最低二週間は外に出ないつもりで居てくれ」
「かしこまりましてございます」
 ローニャが一礼した。
「お手数かと存じますが、折り入ってもう一件、確認したき儀がございます。その結果次第では更にお願いしたき儀もございます」
「何をだ?」
「先程のエリザ様のあられもないお声を拝聴しましたところ、主殿は女を愛でる手練を積んでいらっしゃるご様子。それをこのローニャの身を以て確かめさせて頂きとう存じます」
「あんたはそんな女には見えないんだが」
「勿論貴方様に欲情しているのではございません。あくまで確認でございます。それとも、このローニャに触れるのが怖ろしいのでございますか?」
「怖くないと言えば嘘になるが、あんたが俺を殺す理由も無いしな……」
 ザムトは逡巡した後に了承した。
 エリザを後ろに下がらせてからローニャを踊り場へと迎え入れる。カトラより二回りほど小さいだけの猛々しい乳房に、思わず目を奪われた。
「貴方様はおっぱいに並々ならぬご関心をお持ちなのでございますね」
「勿論だとも!」
 半ば自棄になって答えた。色々見透かされていて隠すだけ無駄なような気になっているのだ。
 そんな様子を口の端だけで笑った後、ローニャはザムトに身を委ねた。

 切なげな喘ぎと吐息が漏れる。淫靡な芳香が辺りに漂う。
「ここまででございます」
 これからがいよいよ本番と言うところで唐突に終わりが告げられた。収まらないところまで来ておいての肩透かしでザムトは呆然だ。
「このローニャとした事が本気になるところでございました。合格でございます」
 ザムトは下唇を突き出すようにしながら無言で首を傾げる。
「お願いしたき儀でございますが、姫様、フィーリア様を貴方様の眷属として迎え入れ、保護して頂きたいのでございます」
「主の身体を売るのか?」
「人聞きが悪うございます。今のままでございますと、姫様はどこの馬の骨とも知れぬ輩に御身を委ねられてしまわれます。そのような事態だけは避けねばなりません」
「俺こそ馬の骨だと思うんだが」
「然り」
 ザムトの眉間に皺が寄った。
「しかしながら、貴方様は迷宮の主でいらっしゃいます。馬の骨でも特別な馬の骨でございます」
「それ、褒めてるつもりなのか?」
「然り」
 ザムトの顎が落ちた。全然褒められている気がしないのだ。
「更に、女の肉欲を極上の快楽によって満たす事ができるとなれば、今の姫様にとって最適なお相手と愚考する次第でございます」
「確かにあの姫さんじゃ不安だろうな」
「然り。そこで貴方様の眷属となり、貴方様から与えられる快楽に溺れて頂くのでございます。さすれば有象無象の馬の骨に御身を委ねられる事態を避けられましょう。いえ、そのような振る舞いをしたとて必ずや貴方様の元へお戻りになられましょう」
「でも、いいのか? もし俺が死んだら、一緒に死ぬ事になるぞ?」
「おや? 何やら勘違いをなさっているご様子」
 ローニャは語る。
 眷属となった者は成長はしても老化をしないため、迷宮の主と共に永遠を過ごす事も可能である。それは時が止まっていると言える。
 迷宮の主が死んだ場合には止まっていた時が一気に襲い掛かり、本来の寿命を過ぎていれば数日と保たずに滅ぶが、過ぎていなければ死ぬ事もなく本来の姿に戻るだけである。
 迷宮の主が死ぬような事態となれば眷属にも同様の事態が差し迫っている事に他ならず、結果的に主と同時に死ぬ眷属が多い事が風説の原因であろう。
「つまり、貴方様がお亡くなりになられても姫様には大した影響が無いのでございます」
「そうだったのか……」
 ザムトは迷宮精霊から知識を得ていながら何故か錯覚していたのだ。
「恐らく、事前に耳にしていた風説によって正しい理解が損なわれてしまったのでございましょう」
「そんな事が有るのか……。だが、何故あんたはそれを知っている?」
「秘密でございます」
「え?」
「女には秘密が沢山有るのでございます」
 ローニャはけして答えなかった。

 ザムトはローニャの監修の下、直ぐに作業に取り掛かった。
 二階分の高さを使った四階を丸々フィーリアと娘子軍に割り当てる。一階から三階までの天井と同じ高さでは王女の居室としては見窄らしいためだ。
 これを機に、五〇階層に相当する部分までの階段を構築し、その先にザムト自身の居室を構築する。
 四階は階段側半分を二階建てにして娘子軍の宿舎にし、奥の半分をフィーリアの応接室や寝室とする。治療スライムの部屋も設けた。
 四階の構築が終わると、夜の内に水浴場の向かいの部屋から治療スライムを移動させた。移動後には分裂して四体になった。
 夜が明ければフィーリアと娘子軍の引っ越しである。

  ◆

 第三一週金曜夜、迷宮――。

 男が二人回廊を歩く。
「ここが迷宮か。もっと早く来たかったな」
 振り向けば裸女の光景に、男なら心も躍ると言うものだ。
「タルロスは初めてか?」
「ああ、他の連中が休んでいる洪水の時が稼ぎ時なんでな。ずっと仕事だ」
「無茶しやがる」
「少しは無茶をしなきゃ食っていけねぇからな」
「そんなタルロスに今日は俺の奢りだ」
「どうしたニード? やけに気前がいいじゃないか」
「それはだな……。おっと、着いたぜ」
 二人は酒場へと到着した。
「うおっ、店員がみんな裸とは堪らんな」
「だろ? っと、座ろうぜ」
 二人は座席に着くと店員が注文を取りに来る。勿論全裸だ。
 タルロスがほけーっと店員を凝視する向かいで、ニードが「ビールと日替わり料理二つずつだ」と注文をする。
 離れていく店員をまだ凝視し続けるタルロスの様子にニードがクスッと笑いを零した。
「革の腕輪をしている店員はみんな娼婦だから抱こうと思えば抱けるぜ」
「ほんとかよ!?」
 見回せば、忙しく動き回っている数人の店員の殆どが腕輪をしている。
「くそっ、知ってれば接待にも使えたのによ」
「今からじゃちょっと遅いな。もう水も退くから、賑やかなのも今の内だ」
 タルロスは頷いた。
「お待ちどおさま」
 ビールと料理も届いて二人はまず乾杯する。
 店員の尻を名残惜しそうに見送った後、タルロスは口を開く。
「それはそうと、お前の懐が暖かそうなのはどう言う訳だ?」
 ニードは頷いて周囲に視線を奔らせた。
「大きな声じゃ言えないが、ここで売ってる張形でちょっとな」
「はあ?」
 タルロスの眉間に皺が寄る。
「三〇万円や四〇万円もするものなんだが、マグノサリアに持って行ったら一〇〇万円になった」
 タルロスの目と口が真ん丸に開かれた。
「ついでで買って行っただけだから、思い掛けない臨時収入だった訳だ」
「おお……。思わずぶるっちまったぜ」
 タルロスはビールを一気に飲み干した。

  ◆

 同日深夜、迷宮――。

 交渉の翌深夜、ローニャがフィーリアを連れてザムトを訪ねた。
 乳繰り合うエリザの声にフィーリアが反応してその場に頽れる。ローニャが暫く見ていたが収まりそうにない。
「姫様、ご無礼いたします」
 切なく喘ぐフィーリアをローニャが抱え上げる。
「ローニャ?」
「主殿、お願いいたします」
 ザムトへと投げた。
「きゃああ!」
「おっ、おいっ!」
 ザムトは慌ててフィーリアを抱き留めた。
「何やってんだ、あんたは!?」
「貴方様なら受け止めてくださると信じておりました」
 そう言われてしまうと言い返しにくいザムトである。
 そうしている間にザムトに抱き留められたままのフィーリアも少し落ち着いたらしい。
「ご助力、ありがたく思います」
「姫様、その方に御身を委ねられませ」
「ローニャ!?」
「その方ならば姫様に満足を与えてくださいます」
「しかし、そのような事!」
 本能的にザムトの手から逃れようと身を捩る。
 ザムトとしては無理強いをするつもりもないのでどうしたものか迷いつつローニャを見やった。
 すると、ローニャが「やれ」と言わんばかりの目配せをする。
 悩んだ末、暴れ始めたフィーリアに「ローニャがはしたない姫さんの姿を見ているぞ」と呟いてみた。
 途端に温和しくなった。床に下ろして座らせてもザムトとローニャを見上げるのみだった。

 フィーリアはローニャに投げられた事にも、掛けられた言葉にも混乱した。怖くなって逃げようともしたが、迷宮の主から掛けられた言葉に身体が疼いた。
 ひとたび身体が疼けば期待の方が大きい。傍にローニャが居る安心感もある。
「始めるぞ」
 そう言われてまた身体が疼いた。
 どきどきする心臓が自然と首を縦に振らせる。
 身を委ねてしまえば、迷宮の主の手からは至上の快感がもたらされた。翻弄されるようにただただ快楽を貪った。
 そして迷宮の主受け入れて男を知り、女になった。
 更に男によって高みへと登り詰めさせられ、はしたない女にされてしまった。
 その余韻が収まる前に何かが身体に刻まれた。半ば朦朧とした意識の中で湧いてくるそこはかとない充足感。
 迷宮の主の眷属になったのだ。
 しかし、本当の快楽はそこからだった。
 迷宮の主に触れられるだけで全身を貫いて濁流の如き快感が奔る。絶叫にも似た喘ぎ声が口をついて溢れ出してしまう。
 一匹の牝になった。
 牝の快感によって高みに昇り、淫欲の雲海に溺れながら、意識は真っ白に染まっていった。

  ◆

 第三二週日曜朝、迷宮――。

「姫様、こちらには優秀な冒険者のパーティがお住まいだと伺ってございます。長らく御滞在になられるのでございましたら、兵達の指導を仰がれては如何でございましょう?」
 そんなローニャの進言を二つ返事でフィーリアが受け入れた事で、麦芋団の面々は鍛練場へと呼び出された。
 開拓を休む事になるが、後二週間程度はコロンをただ見守る日々になる見込みだったため、ハーデン達は軽い気持ちで了承したのだ。
 娘子軍の兵士達も鍛練場に集合しており、麦芋団をちらちら見ながらひそひそと噂話に花を咲かせる。兵士であっても中身は女、噂話は大好物。色男の範疇であるハーデンやゲラン、裸女のリタやイリスを目の当たりにすれば妄想も捗ろうと言うものである。
 麦芋団が訪れて間もなくフィーリアも鍛練場に訪れた。付き従っているのはローニャ、ミランダ、メリッサの裸女達だ。
 即座に兵士達は噂話を止め、固唾を呑んでフィーリアに注目する。
 その中においてイリスはリタに何やら耳打ちした。
「それ、ほんと?」
 念押しに頷くイリスの様子に、リタはチラッとフィーリア達を見やった。

「麦芋団の皆さん、この度はご足労ありがたく思います」
 フィーリアはまず麦芋団を労った。
「皆さんに頼みたいのは、ここに並ぶ娘子軍兵士達への指導です」
「二週間程度なら時間が空いているから引き受けても構わないんだが、そんな短期間でいいのか?」
 ハーデンは同席しているカトラを向いて答えた。直接答えて文句を付けられるのを警戒している。
「何、こっち見て話してるんだい? 姫さんを向いて話しなよ」
「そうは言ってもな……」
 ハーデンは渋る。貴族によっては口の利き方だけで首を刎ねたりするとも言われるために命懸けなのだ。
 実際、部隊長がハーデンを睨んでいる。
「良いのです。こちらから頼むのですから、気にする必要はありません」
 ハーデンは再度カトラを見やり、カトラが頷くのを確認してから漸く口を開いた。
「二週間だ。それ以降は俺達は開拓に戻るんで教える暇は無い」
「どうにか延ばせませんか?」
「開拓は俺達の一生が懸かってるから最優先だ」
 ハーデンは突っぱねてみたものの、何か居心地が悪くなって頭を掻いた。
「まあ、どうしてもと言うなら、開拓地の横で鍛練するんだな。そうすりゃ、片手間なるが教えてやらん事もない」
「まあ! それは良いお話です。是非、それで頼みます」
 フィーリアはパンと手を合わせて微笑んだ。
 その様子にリタが不思議そうに問う。
「あたし達に頼むのはいいんだけど、もっと適任が居るんじゃないの?」
「適任ですか?」
 今度はフィーリアが首を傾げる。
「その、腰に小さな布を巻いた人よ」
「はい?」
「エプロンでございます」
 フィーリアが首を傾げたままローニャを見やるのを余所に、ローニャはエプロンに拘った。
「それが、エプロン?」
「エプロンっで、ございます」
 呆気に取られてリタが問い直すのに対し、ローニャは溜めを作って強調した。
 何が彼女にそうさせるのか。
 そんな疑問も湧いてはいたが、フィーリアにはそれより優先させる疑問が有る。
「ローニャが適任とはどうしてでしょう?」
「あたし達より遙かに強いから」
「ローニャがですか?」
「ん。普通に魔力探査すると一二級。だけどそれは隠してるから。本当は多分その一〇〇倍」
 フィーリアが一瞬呆けて、その顔のままローニャに振り向く。
「ローニャ、そうなのですか?」
 ローニャは表情を変えず、じっとイリスを見据えたまま微動だにしない。
「ローニャ?」
 再度問われてローニャは深く息を吐いた。
「よもや、このような場所に魔力探査に長けた方がいらっしゃるとは、このローニャ、一生の不覚でございます」
「この方の仰った事は本当なのですね?」
「御意にございます」
 ローニャは軽く溜め息を吐く。
「今暫く秘密のままの予定でございましたため、色々と台無しでございます。しかし、これも運命さだめでございましょう。そうとなればこのローニャ、指導の任を承る事も吝かではございません」
「それではローニャが指導してくれるのですね?」
「残念ながら姫様、娘子軍の指導は麦芋団の方々に仰がれるのが宜しいかと存じ上げます。このローニャでは些か問題がございます」
 フィーリアは黙って続きを待った。
「このローニャ、槍などは専門外でございます。何より娘子軍の方々の身に危険がございます」
「危険なのですか?」
「このローニャ、恥ずかしながら手加減が苦手にございます」
 ローニャはカトラの方を向く。
「カトラ様、一度ご覧戴いた方が早うございますのでお手合わせをお願いいたします」
 カトラは了承した。

 練習用の木剣を手にローニャとカトラは対峙する。
「始め!」
 かかかかっ、からん。
「参った」
 リタが開始の合図を発した数瞬後には木剣を取り落としたカトラが両手を挙げて降参した。
 注目していた一同の殆どは木剣がぶつかるような音が聞こえただけに感じた。見えないと言うよりも認識が追い付かないのである。
「手加減して貰ってて手も足も出なかったよ」
「あんたじゃなけりゃ、最初のだって躱せなかったわよ」
 負けて苦笑いをするカトラにリタが呆れたように言った。
「今、一体何が行われたのですか?」
 目を丸くしたフィーリアの問いに答えてリタは語る。
 先に動いたのはカトラで、小手調べにローニャの腹へと剣を突き出した。
 ローニャはそれを内から外へと剣で往なしつつカトラの脇腹へと剣を奔らせる。
 カトラは予期していたかの如く往なされるに任せて前方へと跳んで躱しながら振り返り、着地と同時にローニャの後背を狙う。
 ローニャは突き出された剣を、腕を回すだけで剣の腹で受けて往なすと、カトラの横から斬り付ける。
 カトラは身体を捻って剣を剣で受けたが、体勢を僅かに崩してしまう。
 そこをローニャは見逃さずにカトラの剣を叩き落としたのだ。
 僅か四合の決着だった。
「僅かな間にそのような攻防が有ったのですか」
 フィーリアは感心するばかりであった。

「今の手合わせではお相手がカトラ様でいらっしゃったため、無事に終えられたのでございます。他の方でいらしたなら、腕の一本も折れていても不思議ではございません」
「怪我をさせそうだから駄目って事?」
 リタが問うた。
「その通りでございます」
「即死しない程度に加減ができるなら、お姫様達痴女三人の指導はあなたがやった方がいいわね」
「如何なる理由でございましょう?」
「お姫様達なら多少怪我をしても大丈夫なのを知っているだろうし、あたし達がお姫様を扱くのはやっぱり抵抗有るもの」
 リタの言葉で治療スライムに思い至ったフィーリアが頷く。
「そうですね。そういたしましょう」
 フィーリアの決断で全て決まった。
 フィーリア、ミランダ、メリッサはローニャの指導を受ける。これにはカトラが混じる場合もある。
 他の娘子軍達は麦芋団が専門に応じて手分けして二週間指導した後、開拓地に場所を移して鍛練を続ける。
 そうしてフィーリアを始めとした娘子軍の鍛練の日々が始まった。

  ◆

 第三二週日曜午後、メナート川河岸――。

「アーシア、頼りにしてるわよ」
「任せて! お魚沢山捕っちゃうよ!」
 サシャとアーシアは黒狼の背に乗ってメナート川河岸へと来ていた。夕食用の魚を捕ろうと言うのである。
 普段、サシャがアーシアに頼る事は殆ど無いが、事、水に関しては例外である。アーシアは水の魔法に適正が有ったところに治療スライムによって魔力が高まっていて強力な魔法が使える。非常識な漁も可能だ。
 魔法を発動したアーシアは魚ごと川の水を岸へと引っ張り上げる。そこから水だけを抜いていく。
 残るのは魚だ。大漁である。三〇分と掛かっていない。
 捕れた三〇〇キログラムに及ぶ魚は二人と一匹が手分けして運ぶ。
 それぞれ一〇〇キログラムほどの割り当てだが、今のサシャとアーシアにとってこの程度の重さは余裕だ。魔法特化であっても、九級八級ともなれば一般人の二〇倍や三〇倍の腕力、頑強さを備えているものなのである。
 ただ、歩く速さまでは殆ど変わらないため、迷宮まで三時間ばかり掛かるのが玉に瑕だった。
 二人が着ているのは長袖シャツに長ズボン。森に入るには一般的な身形である。ザムトが石を錬成して作る商品がそこそこ売れた結果、金銭的余裕も生まれて二人が森の中で作業するための服も仕立てる事ができた。

 迷宮に帰り着くと、早速魚を捌く。少し早いが夕食の仕度である。
「みんなが一緒の最後だから、頑張らないとね」
 そんな呟きを漏らしながらサシャは魚を捌き続ける。余分に手の掛かる魚料理だが、今日は特別。
 水が退き始めていて、明日から避難者がハジリへと戻り始めるのだ。避難した全員が迷宮で食事をする機会はこれが最後となる。

  ◆

 第三二週月曜午前、迷宮――。

 避難を終えた第一陣が隊列を作って迷宮を離れていく。
「姐さん、姐御、これにて失礼いたします」
「ああ、ごくろうさん」
 三一週の火曜には終わっていながら済し崩しに滞在していた土木業者も、見送るサシャやカトラに挨拶をしながら帰っていった。
「寂しくなりますね……」
「ああ」

  ◆

 第三三週月曜午後、迷宮――。

 避難を終えた最後の一人が迷宮を後にした。
「終わってしまえば、あっと言う間だった気がするよ」
「はい。てんてこ舞いしていた間は長く感じましたが……」
 最後の見送りをしたカトラとサシャは感慨深げに言った。
 迷宮に残ったのは娼婦や冒険者、木工などの職人が合わせて四〇人余りである。

 毎日が喧騒に包まれていた食堂や酒場も閑散として物寂しさを感じさせる。
 しかし、ここで働いていた女達にとっては死活問題だ。
「これからどうしようかしら」
 何となく集まってしまった女達の誰からともなく呟きが漏れた。
「娘子軍に入れば宜しいのです」
 女達は声に振り返る。
「お姫様?」
「我が娘子軍はまだまだ人材不足です。訓練は厳しいですが、我こそはと思う方はいつでも申し出てください。歓迎いたします」
 それだけを言ってフィーリアはその場を後にした。
 次の日には娼婦としての稼ぎの少なかった者が、数日後には殆どが入隊する。
 彼女達は新兵であるために他の隊員とは訓練が別となる。それ故、暫定的に隊を結成し、隊長にはミランダが就任する。入隊前から痴女の新兵を取り仕切るにはヘンタイの隊長が良いだろうと言う人選である。

  ◆

 夕食後に毎夜繰り広げられた乱痴気騒ぎも夢の跡。静けさだけが南の広間を支配している。昨日までなら卑猥なショーの時間だが、今この場に佇むのはサシャとカトラだけ。ショーは残る者を除いた避難者が全て迷宮を離れたのを機に取り止めとなったのだ。
「ここってこんなに広かったでしょうか……」
「ああ、誰も居ないと余計に広く感じるね」
 サシャの目から雫が零れる。
「あれ? あれ? あれ?」
 拭っても拭っても雫が消えない。
「馬鹿だね。何、泣いてんだい」
「こんなつもりじゃないのに……」
「騒がしかったけど、大勢人が居て、きっと楽しかったんだ」
「本当に……」
「なぁに、元に戻っただけじゃないか。また人を集めればいいんだよ。残った連中も居るんだしさ」
「そうですね、フィーリア様とか」
「うっ……」
 途端にカトラが顰めっ面になる。
「あのどヘンタイとは長い付き合いになりそうなんだった……」
「くすっ」
 サシャは思わず噴き出した。
「カトラさんってフィーリア様が苦手ですよね」
「あたしはヘンタイが苦手なだけだよ」
 二人は笑い合った。
 一抹の寂寥感と共に、ひとときの宴は終わりの時を迎えたのだ。

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