迷宮精霊

浜柔

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第八話 ある村の終焉

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 第二二週木曜夕刻、ベーネブ村――。

「ツスカが行方不明じゃと? それがわしに何の関係がある? 大方、罰が当たったんじゃろうて」
「同じ村の者に『関係ない』とは何だ!」
 一人の老婆を五人の村人が老婆の自宅前で半包囲していた。
 村人達は同じ村人の一人の行方を捜しているのだが、老婆とは互いに相手を快く思っていなかったために最初から喧嘩腰だ。
 老婆は一軒だけぽつんと村の南西の外れに建つ小屋に住んでいる。かつては農作業を行うための小屋だったが、今は住居兼用だ。小屋の正面には夏野菜などがたわわに実る農地が広がる。
 小柄な老婆は背も曲がっていて更に小さく見える。だが、少々肥満気味で大柄な男達に囲まれても気迫では負けていない。
「ふん! 都合のいい時だけ『同じ村』などとほざくでないわ! 散々わしの畑から作物をくすねておる癖に!」
「婆さんの畑にだけ、こんなに生ってるんだ。ケチくせぇ事言うんじゃねぇよ!」
「はん! 盗人猛々しいとはおぬしらの事じゃな! 最近は盗賊の真似までしておるのじゃろう」
「生きるためだ!」
「それだけぶくぶく太っておいて『生きるため』じゃと? 巫山戯るでないわ! この盗人の人殺しどもが!」
「婆こそツスカを殺して畑にでも埋めたんじゃねぇのか!?」
 男は老婆の畑を見て居丈高に言い放った。

 このベーネブ村はハジリの東二〇キロメートルほどの場所に有り、元々はこの老婆コロンとその伴侶によって約五〇年前に興された開拓村である。
 荒れ地のただ中だったが、コロンに素養の有った土魔法も使って溜め池を作り、井戸を掘り、畑を耕し、と言った具合に開拓したのだ。人並みに生活できるようになるまでには数年を費やした。
 その頃からその水を目当てに他の開拓者が居着くようになった。コロン夫妻はそれを受け入れ、開拓地は村の体裁を整えていった。
 だが、二〇年ほど前にそれまで村長を務めていたコロンの伴侶が亡くなった時から軋みが生じる。いや、軋みはそれ以前から有り、発現したのがその時だったのだろう。村人達がコロンに対してあからさまに不平を口にし始めた。
 コロンの畑だけが他の村人の畑に比べて作物の出来が良いのが不満だと言う。コロンだけが魔法で畑を耕すのを許せないと言う。
 だがそれは、コロン夫妻が森から腐葉土を運んで土を肥やし、輪作によって地力の衰えを抑える努力を続けた一方で、コロン夫妻が教えたにも拘わらず、他の村人がそうしなかったためだ。コロンの魔力も無限ではないのだから村中の畑を耕せよう筈もなければ、魔法で作柄が良くなっているのでもない。
 村人達はそれを理解しようとしなかった。
 コロン夫妻のように志を持って開拓の道へ進む者であれば農業への努力を惜しまないが、何かから逃げるようにして開拓者と成った者は農業を蔑ろにさえするのである。
 そしてそれは今も変わらず、痩せた土地で連作をしては作物が育たないと不満を口にする。それだけでなく、コロンの畑から作物を盗んでいく。
 一〇年ほど前にはコロンの息子夫婦も相次いで病気や事故で亡くなった。それを切っ掛けにコロンは村外れへと居を移した。半ば追い出されるようにでもあったが、作物を荒らされないように見張る意味も有った。
 そしてつい七週前、最後に残った肉親である孫を失った。村の近くの森の中に住み着いたらしい盗賊に殺されてしまったのだ。
 その日、盗賊の集団が集落へと向かうのを見てコロンの孫は集落へと走った。皆を逃がそうとしたのだ。だが孫は骸となって帰って来た。それも目の前の村人達にゴミのように投げ捨てられてだ。
 集落で何が起きたのかコロンは知らない。盗賊達が村の娘を数人拐かして高笑いをしながら引き上げていく姿を見ただけだ。
 村人達は他の村人数人と共に孫がその盗賊に殺されたのだと言う。
 だが、孫が剣で胸を刺されている他に後頭部にも打撲痕が有るのを見逃さなかった。村人達を信じられよう筈がない。
 こんな連中の顔など見たくない。
 そう思っても既に家族も無く、新しく開拓ができる歳でもない。それに家族で拓いたこの土地が愛おしい。懊悩する日々が続いた。
 四週前には今目の前にいる村人達が見知らぬ馬車を牽いて帰ってくる場面を目にした。
 彼らは声高らかに強盗の戦果を誇っていた。そして、女を自分達で抱きたかったのに先日の盗賊に貢がなければならないのだと悔しそうに語っていた。
 それを聞いて、コロンはその馬車が遠くから来た開拓者のもので、彼らはそれを襲ったのだと知った。そして、最初から村に来た盗賊達とつるんでいたのだと悟った。
 盗賊が来た時に殺された者達は盗賊と連むのを拒んだ者達だったのだろう。
 それからは如何にこの者達に天誅を食らわせるかばかりを考えていたが、気付けば監視もされていて、コロン一人ではいかんともし難かった。

「おぬしらにそんな価値が有ると思うておるのか! 作物が枯れてしまうわい。おぬしらこそがツスカを殺めたのではないのか?」
「何だと!? もう我慢ならん! この婆が犯人で間違いねぇ! ぶち殺してやる!」
「そうだ! ぶち殺せ!」
「婆! 恨むなら自分を恨めよ!」
「目にもの見せてくれる!」
「覚悟しろ婆!」
「どりゃーっ!」
 村人達が口々に敵意の言葉を叩き付ける中、コロンの叫び声に伴って地面がめくれ上がり、村人達へと押し寄せた。コロンに襲いかかろうとした彼らはあえなく土に埋もれて倒れ臥す。
 コロンはその隙に逐電した。
 行く当てなど無いコロンはハジリを目指す。老いた身ででは歩みも遅い。街道を通れば土の中から這い出た村人達に追い付かれてしまうだろうから、森の中を木々に紛れて進む。
 コロンが森に消えて暫く経ってから村人達は土の中から這い出した。
「ぺっ。婆が! やりやがったな!」
「ああ、生かしちゃおかねぇ!」
 口に入った土を吐き出しながら善人を自認する村人達が毒突く。
「婆はどこに行った!?」
「どうせハジリだろうさ」
「軍にチクられると厄介だからその前にるぞ」
 コロンに対するものと同様、村人達は仲間の行方不明を心配しているのではなく、軍や冒険者組合への密告を怖れている。
 コロンへの冤罪も只の言い訳で、殺すきっかけを求めていたに過ぎないかった。自分達は至って善人だから何の理由も無しに人殺しなどできないのだと自分達を誤魔化しているからでもあるが、その実、コロンの畑の作物に実が生るのを待っていたのである。
 農家でありながら農業を学ぼうとしなかった彼らにはもう畑に実りをもたらす事ができない。
「そんじゃ、二手に分かれて追うぞ。三人が森、二人が街道。街道に居なけりゃそのまま先回りだ」
 手早く話をまとめ、村人達はコロンを追う。

「婆さん、早く出て来なぁ。直ぐに楽にしてやるぜぇ」
 森に入って三時間余り、逃げるコロンの耳に遠くから半笑いで叫ぶ男の声が届くようになった。疲労した身体がどこかに隠れてやり過ごすべきだと訴えるのを振り払って進む。逃げ出す際の魔法で魔力を使い果たしたために、見つかってしまえばもう逃げようが無い。
 日は既に沈み、森の中は殆ど闇に覆われている。頼りになるのは木の葉の隙間から僅かに差し込む月明かりと夜光茸の仄かな光のみ。風にそよぐ木々のざわめき、フクロウやコオロギの鳴き声が木々の間に木霊して、行く手を阻まんかの如き錯覚さえ起こさせる。
 コロンは半ば手探りで歩む。慎重に探っていては歩みが遅くなって追い付かれてしまうために、足下はかなり疎かだ。腐葉土が厚く下草が薄いのが幸いしてどうにか無事に歩を進められているものの、いつ足を取られてもおかしくはない。
 日が沈んでも高い気温に体力を奪われる。突如現れる木の影には何度もドキッとさせられる。勿論、木は動かない。暗がりを進んでいると気付かぬままに木にぶつかりそうになるのである。
 追っ手の歩みは速い。逃げるコロンと違い、各々がランプや松明を持っていて足下がよく見える。それでも今までコロン追い付いていないのは、彼らがランプや松明を自宅まで取りに戻ったのと、コロンが途中に隠れていないかを探るために蛇行していたからである。
 その、コロンが持っていた所在不明の優位性も、追っ手がコロンの足跡を見つけた事で終わりを告げた。
 追っ手はその足跡を中心にして蛇行の範囲を狭くする。追跡速度も格段に上がり、コロンとの距離は刻一刻と狭まっていく。
 盗賊に身を堕として平然としている連中なんぞに殺されては、死んでも死にきれない。
 その一念でコロンは歩む。いつしか追っ手のランプの光がコロンの周囲にも届くようになっている。それによって歩きやすくなり、歩みが速くなったのは何かの皮肉か。
 木陰に紛れるように進む。どうしても後ろが気になって度々振り向いてしまう。そのせいか、寸前まで気付かなかった。
 目前で暗闇に浮かぶは大きな灰色の双眸。悲鳴を上げそうになる口を両手で押さえてどうにか堪えた。
 じっとその双眸に対峙する。後退ろうにも追っ手が迫っていて叶わない。
 追っ手が更に迫る事で双眸の持ち主の輪郭が徐々に露わになる。その巨体はこの森に居る筈のない黒い狼だった。
「おぬしがわしの運命なのかも知れんの」
 恐怖が限界を振り切ったのか達観してしまったのか、却って冷静になったコロンは狼に向かって小さく呟いた。同じ殺されるのならば目の前の狼の方が恨みを残さずに済む。目を閉じてその時を待った。
 ところが、気配はコロンを飛び越えていく。驚き、振り返ってみれば走り去る姿。
「まだ死ぬ時ではないのかの」
 知らず呟きが口から漏れた。
「うわああっ!」
 狼の進む先で叫び声が上がった。それと共にガシャンと何かが落ちる音がして周囲が闇に包まれる。追っ手の一人が狼に驚いてランプを落してしまったのだ。
「畜生め!」
「何が有った!」
 暗闇で追っ手の一人が毒突き、その仲間が様子を見に近付いてくる。
 その隙にコロンは逃亡した。
 暫く進むと行く手に丘が有ったが迂回する時間は無い。息切れした身体で這うようにして登り、半ば転がるようにして降りる。
「ぐっ……」
 降りる途中で枯れ枝が右腕に刺さった。かなり深い。
「これまでかも知れんの」
 顔を顰めつつ枯れ枝を抜き、更に行く手を塞ぐ丘を登る。傷口を押さえる指の隙間から血が滴り落ちる。
「見つけたぞ、婆!」
 血の跡を追ったのだろう追っ手にコロンはついに発見されてしまった。しかし今少し距離が有る。丘を回り込むように逃げる。
 すると、ぽっかりと洞窟が口を開けているのが見えた。
 その時、逃がすまいとする追っ手の一人から矢が放たれ、コロンの足へと突き刺さる。
 激痛が走った。呻き声が漏れる。それでもコロンは進む。足を引き摺りながら迷わず洞窟へと入った。
「迷宮のようじゃが、人が造ったようでもあるのう」
 脇見はそこそこに矢の刺さった足を引き摺って奥へ進む。
 魔物が出て来たならそれまでの事と既に覚悟はできている。そうでなくとももう長くは保たない。
 水場の所で誘われるように左に曲がる。奥に進むと部屋の一つで不思議な光景が見えたため、興味を惹かれて入っていく。
「これはまた面妖じゃのう」
 透明なスライムが並び、その内の二体には一人ずつ裸の女が浮かんでいる。一方の女には手首、足首から先が無い。
「喰われておるのじゃろうか?」
 暫くスライムを眺めている間に少し頭がふらついてきた。手足の出血は止まらない。
「ちと寒いのう」
 スライムの中は暖かいのだろうか。女達を見れば凍えているようには見えない。
 血を失いすぎて次第に薄れ行く意識の中で「このスライムに喰われるのも一興よ」とコロンは女の浮いていないスライムの一つにその身を預けた。スライムに飲み込まれながら去来するのは様々な思い出と後悔の数々。
 もし人生をやり直せるなら、もうちと上手くやりたいものじゃのう。
 その思いの全てがスライムへと溶けていった。

 その頃、追っ手の三人は迷宮前で揉めていた。
「先回りした二人を呼んできてからの方が良くないか?」
「そんな事してたら夜が明けちまうだろ」
「魔物が出たらどうすんだよ?」
「逃げりゃいい。魔物が出るなら婆も餌食になってるだろ」
「早くしねぇと婆が死んだか確認できねぇぞ」
「仕方がねぇ」
 そんな経緯によって三人は迷宮に入る決断をした。
「何だここは?」
 整然と設えられた回廊や部屋、外と比べて快適な気温に疑問が浮かぶが、その疑問を思案している場合ではない。血痕を辿ってコロンの後を追う。
「水だ」
 流しに噴き出す水を見て、三人は思わず口を開けて舌を出した。ここまでコロンを追い掛けて来たために喉がカラカラだ。堪らず三人は水を飲み始めた。
「ふう、美味い水だ」
「ああ」
 水を飲んで本来の目的を忘れかけた三人だったが、血痕を見て思い出す。
「婆はこっちだ」
 血痕を辿ってスライムの部屋へと足を踏み入れる。
「スライム?」
 透明で巨大なスライムに目を瞠ったものの、男達の表情は直ぐに好色に歪む。
「裸の女が浮かんでやがる」
「スライムに喰わせるには勿体ない別嬪だ」
「ああ、違う意味で俺が喰いたかったぜ。この間はおあずけ食っちまったからな」
「まったくだ」
 口々に言い合う中、一人が気付く。
「おい、婆はスライムに喰われてるぞ」
「婆にはお似合いの最期だ」
「ああ、だが俺はこっちが気になる」
 一人がそう言って剣を抜く。スライムを切り裂こうと言うのだ。
「止せよ、死んでるんじゃねぇのか?」
「はん! こんなにいい女なんだ。死体でも構うもんか」
 そして男が剣を振り下ろそうとした瞬間、男が真横に吹き飛んだ。壁に叩き付けられて男は意識を失う。
 残る二人は吹き飛んだ男が居た場所から目が離せなくなっている。何故なら、そこには巨大な黒い狼が灰色の双眸を光らせて屹立しているからだ。
「う……ごがっ」
 男達が悲鳴を上げようとした瞬間、黒狼はその両前足で一人ずつ男達を床へと押さえ付けた。一人は仰向けに、一人は俯けに。
「ば、化け物め! 放せ!」
 仰向けの男が叫び、黒狼の足を殴るが、黒狼には何の痛痒も無い。だが、煩わしくはあるため、少し爪を立てる。
「ぐぎゃああ!」
 男は白目を剥いた。

  ◆

 同日夜、迷宮――。

 俄に騒々しくなった気配によってサシャは眠りから揺り起こされた。
 微かに聞こえるザムトとは違う男の声に、何ごとかと部屋の中から様子を覗う。ここはザムトによって寝台が設えられた事から済し崩しに使っている階段に最も近い部屋だが、ここからでは人の姿は見えない。
 部屋を出て回廊の陰から顔を半分だけ覗かせる。
「まさか……」
 掠れた声が出た。見えたのは水場へと折れる男達の姿。サシャにとっては忘れようにも忘れられない顔だった。
 途端に湧き起こった憤怒で顔が歪む。頭を掻き毟ってしゃがみ込む。
「サシャ?」
 不穏な気配に様子を見に来たザムトだったが、サシャの顔に浮かぶ狂気に目を見開いた。狩りから戻っていた黒狼と荷役二号を先に行かせる。
 呼ぶ声に反応してサシャがザムトに振り向く。その顔には引き攣った笑いが張り付いている。
「ザムトさあん? 確か盗賊はみんな死んだって言いましたよねぇ?」
「それがどうかしたか?」
「だったら、なぁぜ、あいつらが居るんでしょうねぇ?」
「あっちに居る男達の事か?」
「そぉですよぉ。あいつらが! あいつらこそが! 父さんと母さんを殺して、わたしとアーシアを!」
 そこまでしかサシャは言葉を発しなかった。後は歯を食いしばり、顔を歪めて打ち震えるだけだ。
「他にも居たのか……。だったら勘違いじゃないか確認してくれ」
 サシャは目だけで頷いて立ち上がった。
 二人がスライムの部屋へと行った時には荷役二号が男の一人を座らせて羽交い締めにし、残る二人を黒狼が押さえ付けていた。
「ひっ……ひっ……ひっ……」
 男達を見てサシャの顔が狂気に歪み、しゃっくりのような音が口から漏れる。
 一人は憶えのない顔だ。だが、二人は憶えがありすぎる。特に荷役二号が押さえている男の顔は忘れようとしても忘れられない。
 ふらふらと近付いて男の腹に蹴りつける。
「ごっ……」
 その痛みからか衝撃からか、くぐもった声を発しつつ男の意識が戻った。
「何が……起きた……」
 状況が判らず男は周囲を見回す。
 誰かの足が見え、その足を辿ると仁王立ちする女の顔が見える。少し離れて狼の魔物が仲間二人を押さえ付けているのが見える。そして、自分が拘束されている事にも気が付いた。
「は、放せ!」
 男は藻掻くが、がっちり決まっているためビクともしない。
「誰だ、てめぇは? これは、てめぇの仕業か!?」
「あらあら、盗賊は物覚えが悪いのね。あんたが母さんにしたように、あんたの腹を切り裂いて臓物をあんたの口に突っ込んだら思い出すかしら?」
 サシャはげしげしと足で男の頭を蹴りつける。体重を乗せておらず、靴が無くて布を巻き付けているだけの足では大した威力にはなっていない。
 その蹴りを受けながら男は何かに気付いた顔をする。
「てめぇ、あの時の娘か!? どうやって逃げやがった!? まさか盗賊共が消えたのはてめぇの仕業か!?」
「馬鹿! 口を止めろ!」
 俯せで黒狼に押さえられている男が制しようとしたが、もう語るに落ちた後だ。
「ふぅん? 盗賊じゃないような口振りね?」
「盗賊なんぞと一緒にするな! 俺達は開拓民だ!」
「へぇ、それは詳しく聞かせて貰わないとね」
 サシャの目が吊り上がると共に、開いて上に向けた両掌に炎が点る。サシャ自身が炎に驚いて目を瞬かせたが、直ぐに口角を吊り上げて両掌を男に向けた。
「や、止めろ! ぎゃああああ!!」
 男の絶叫が迷宮に響き渡った。

  ◆

 同日夜半、ハジリ近郊――。

「遅すぎねぇか?」
「ああ、連絡くらい寄越しても良さそうなもんだがな」
 先回りしていた村人二人が待ちくたびれていた。
 待ち伏せをしているのだから灯りは点けていない。月明かりが有っても夜中に灯りを持たずに彷徨く姿は誰が見ても怪しく、誰かに見咎められたら衛兵がやってくるだろう。
 故に、草陰に座り込むようにして相談をしている。相談すると言っても、こちらから捜しに出向くか否かだけである。
 相談を重ねても動く決断ができないままの二人にランプの光が近付き、一〇メートル程離れた所で止まった。
「ベーネブ村のチダンさんとテドさんでしょうか? テランさんがお待ちです。ご足労願えますか?」
 声を掛けてきたのは継ぎ接ぎだらけのシャツとズボンを着て、猫を一匹連れた若い女だ。身形は怪しいが男達に邪な感情を抱かせるには十分だった。
 男達は生唾を飲み込む。
「そうだ。案内してくれ」
 女は踵を返して来た道を引き返して歩く。
 行く手にあるのは森。都合の良い場所に自ら入ってくれるのだから楽で良いと男達はほくそ笑む。この女が何者で何故仲間の使いを名乗っているかなど、犯した後で訊けば良い。
 そんな男達の邪な気配に気付かないのか、女は迷わず森へと入る。
 暫く進んで草原が見えなくなった辺りで男達は顔を見合わせ頷き合った。
 そろりそろりと女との間合いを詰める。女は振り返らない。男達は再度目配せをして女に手を伸ばした。
 刹那、男達の鼻先を何かが掠める。
「がっ!」
「ぎゃっ!」
 悲鳴を上げ、切り裂かれた鼻を押さえて男達は蹲った。
「クズの仲間はやっぱりクズね」
 振り返った女が口角を上げて嗤った。その横では猫が前足に付いた血を舐め取っている。
「てめぇ!」
「バウくんお願い!」
 男達が鼻を押さえながら立ち上がり、女に襲いかかろうとするが、何か大きなものに押し倒されてしまった。
「温和しく付いてくればバウくんや荷二くんに面倒を掛けずに済んだんだけどね」
「がっ、ごっ」
 サシャが男の頭を蹴りつけるのに合わせて男からくぐもった悲鳴が零れた。
 そして、黒狼と荷役二号により男達は迷宮へと連行された。
 「荷二」は荷役二号を略してサシャが付けた愛称である。

  ◆

 翌日未明、ベーネブ村――。

 集落に灯りは見えず、辺りは静まり返っている。村外れの小屋の前の地面は大きく抉れ、そこに有った土は穴の傍に乱雑に積まれている。
 それを横目にサシャは小屋へと入る。扉は開け放たれたままだった。
 中には誰も居ない。夕食の準備が途中のままになっている。並ぶ食器は二人分。折り畳まれた洗濯物からすれば暮らしているのは老女が一人だけである。
 少し混乱の種が有るものの、傷を負って治療スライムに飲まれている老女がこの小屋の住人だと察するには十分だった。
 サシャは自ら望んでこの場所に来た。その前に率先して男達の尋問をした。そうして彼らがベーネブ村の住人で、村ぐるみで盗賊を常習的に行っている事を聞き出した。じわじわと足先から火で炙ると男達は容易に口を割ったのだ。自分達では盗賊でないつもりの様子には怒りを通り越して呆れ果てた。
 老婆を追っていたのは老婆が仲間ではなく邪魔だったからだと言う。その追っ手としてもう二人がハジリ近くに待機している事も聞き出し、その二人を含めた五人を始末した。
 村へと訪れたのはその後である。
「これなら遠慮はいらないわね」
 老婆が一人だけ集落から離れて住み、更に村人から命を狙われる。そして夜が深いと言えど、そんな事件など無いかのような静けさである。
 老婆以外の村人が全て盗賊だと見て間違いないだろう。もし、老婆以外にも盗賊でない者が居たのなら、この小屋で起きた事で騒ぎになっていてしかるべきなのだ。
 サシャは小屋の扉を閉めた後、黒狼と猫二体を連れて集落へと向かう。上空にはカラス二体が哨戒している。
 猫とカラスの一体ずつはザムトが追加で召喚したものだ。
 小屋の近くの畑にはつやのある野菜が育っていたが、小屋から少し離れると途端に生育の悪い畑が広がる。手入れも碌にされていないように見える。
 月明かりに輪郭だけを浮かんでいた集落も、近付くにつれて一つ一つの家の姿がはっきりとしてくる。一〇戸余りの小さな集落だ。街道から北に延びる道が突き当たりで東西に延びる道と丁字路を成し、その東西の道の両側に間隔を空けて家が並んでいる。
 一通り見て回るつもりで道を歩く途中、サシャはある家の一角に目を留めた。有るのはただの牛車の荷車だ。だが、サシャにとっては見慣れた荷車だった。
 荷台に乗る時にいつも見ていた木の節が有る。サシャが手を滑らせて落した鍋が当たって付いた傷が有る。
 そう、それはサシャの一家が遙々開拓地への旅に使っていた荷車だった。牽いていた牛は荷車ほどにははっきり憶えていないので、もし居たとしても判らない。
 暫し感慨に耽っていたサシャから迷いが消えた。僅かに残っていた迷いのために見て回っていたが、切り上げて風下になる集落の東の端へと移動する。
 両手に炎を点す。そしておもむろに家屋へと押し当てた。
 最初は小さな火でもメラメラと燃え広がって家を包む大きな炎となる。
「きゃあああああ!」
「家事だーっ!」
 炎に包まれた家の中から悲鳴が轟く。悲鳴を聞いた村人達が慌てて家から飛び出す。その村人達の間を黒狼が駆け抜ける。
 悲鳴と絶叫。
 慄き逃げまどう村人達。
 村人達を切り裂く黒狼と猫の爪。
 集落から逃げて遠ざかる村人に突き刺さるカラスの嘴。
 サシャの手により次々に炎上する家屋。
 男の怒声。
 女の絶叫。
 子供の悲鳴。
 充満したそれらの声も徐々に減り、残されるのは呻吟と哀訴。
 やがてそれらも消え失せ、炎が爆ぜる音だけが夜に響いた。
「帰ろう」
 死体が黒狼によって全て火に投じられた後、サシャは言った。
 夜は白み始めている。サシャは黒狼に跨って村を後にする。途中、村外れの小屋に寄り添うように真新しい墓標が立てられているのが見えた。来た時には気付かなかったそれを見た時、サシャは二人分の食器の意味を悟った。
 唇を噛み、真っ直ぐと前を見据えるサシャの瞳から一筋の涙が零れた。

 その日の午後には火の点いた建物は全て燃え尽きた。
 そして火が消えた村の一角、収穫される事のないたわわに実った作物がただ風に揺れた。
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