迷宮精霊

浜柔

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第二〇話 降り始めた雨

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 第二五週水曜午後、迷宮――。

「ぐぬぬ……」
「何を唸ってる?」
「それよ」
 イリスに問われたヨハンナは販売台に置かれたサンドイッチを指差した。
「サンドイッチが何か?」
「思い出したらお腹が空いちゃったのよ。そしたら食べたくなっちゃって……」
「これは売り物」
「だから買うかどうか悩んでるのよ」
「無駄遣い。きっと売れ残るから夕食に食べられる」
「そこよ。そこが最大の悩みどころなのよぉ」
 ヨハンナは頭を掻きむしるようにして懊悩した。
 昨日済し崩しで販売する事になったサンドイッチの試作品が今日の朝食に出され、食べた途端に虜になった。
 材料はいつも迷宮で食べているものと変わらないパン、燻製肉、バジルなど。しかし、半分に切ったパンの切り口を焼いてから具材が挟まれた事で、焼けたパンの香ばしさが具材の味を引き立て、嘗て無い美味しさだったのだ。
 それは些細な工夫と手間だからヨハンナ自身でもやろうと思えばできる。しかし、ヨハンナではサシャの料理のようには美味しくならない。そして何より食べたいのは今なのだ。
 それが目の前に有る。しかし、夕方まで待てば余分な自腹を切らずに食べられる見込みだ。迷宮に訪れるのは未だ日に数人で、それも殆どが午前中に水の補給をするために来ている都合上、目の前に一〇個並んでいるサンドイッチはそのまま売れ残ると思われる。
 だが、そんなヨハンナの懊悩も、ささやかな絶望と共に終焉を迎える事になる。
「ふいーっ、参ったぜ。ひでー雨だ」
「前も碌に見えやしないんじゃお手上げだ」
「ほんとによ。雨宿りできる場所が有って良かったぜ」
「早く服を洗って乾かそうぜ」
「ああ、確かあっちだ」
「迷宮に来たのは初めてだが、迷宮って感じじゃねぇな」
「ここはな。それにちょっとしたお楽しみも有るぞ。ほらあれを見ろ」
「な! 全裸の女だと!?」
「ああ、ここからじゃちょっと遠目で判りにくいが、むしゃぶりつきたくなる女だぜ。そんな女が何人も裸で彷徨いてやがる」
「何だと! もっと早く教えろよ!」
「しょうがねぇだろ? ここはハジリから結構遠いんだ。女を見るために寄ってたんじゃ、おまんまの食い上げだ。それでも知ったらお前は寄らずにはいられなくなるだろ?」
「くっそ、言い返せねぇ」
「ん? ここには店が有んのか?」
「そう言や、腹減ったな」
 どやどやとした話し声が響いた後、五人の男達が北の広間へと入ってきた。森で狩りや採集をしていたらしい猟師と冒険者だ。
「そのサンドイッチは売り物なのか?」
「一つ一〇〇〇円」
 イリスはいつもの抑揚の無い声で答えた。
「一〇〇〇円か、しゃあねぇな、一つくれ」
「ん」
 男の一人が代金を支払ってサンドイッチを受け取り、齧り付く。
「美味い! うめぇぞ、これ」
 一口毎に咀嚼の勢いを増しながら男は食らう。
「待て、こら。一人で美味そうに食ってんじゃねぇよ。食いたくなっちまうだろうが」
「俺にもくれ」
「ん」
「お前もか! くそっ、俺にもくれ」
「ん」
 残る二人も俺も俺もと買い求め、その場の五人全員がサンドイッチに食い付いた。
「あれ? 先客が居るのか?」
「ほんとだ。で、何を食ってんだ?」
 更に別の冒険者が三人訪れた。
「見ての通り、サンドイッチだ」
「もう一つくれ」
「ん」
 最初に買った男はおかわりである。
「美味そうだな。売り物なら俺達にもくれよ」
「ん」
「あ、あれ?」
 気付けばサンドイッチの残りは一つ。ヨハンナが挙動不審に陥った。
 そこに追い打ちを掛ける者がまた一人。
「すみません。食べ物が有ったら少し分けて頂けませんか? 代金はお支払いします」
 きのこ狩りをしていたのだろう男だった。
「欲しけりゃ、自分で買いな」
 冒険者の一人がサンドイッチを顎で指した。
「おお! おいくらですか?」
「一〇〇〇円」
 男は代金を支払ってサンドイッチを受け取り、齧り付く。
 そして、ヨハンナはサンドイッチの無くなった皿を見詰めて、情けない顔になったのだった。
「何だか賑やかだね」
 声の方を振り向くと、乳首を振るわせながら歩いてくるカトラ、リタ、ソレーヌの姿。三人の陰に隠れるようにしてステラも居る。南の広間で鍛練をしていた者達だ。
 男達がどよめく。誰かが生唾を飲み込む音が響く。
「堪んねぇ。なあ、あんた、今晩俺といい事しねぇか?」
「あたしを抱きたいってのかい?」
 カトラが軽く目を見開いて問い掛けてきた男に問い返した。
「ああ、そんなエロい身体を見せられて抱きたくならねぇ男なんてそう居るもんじゃねぇ」
 男の言葉を切っ掛けにするように「俺はそっちのねぇちゃんを抱きてぇ」「俺はそっちだ」などと男達が口々に言い募る。
「喧しい!」
 カトラの一喝でピタッと静まった。
「離れて見る分にはいくらでも見て貰って構わないけどね、無闇に近付いたり手を出そうとしたら命の保証は無いからね!」
「命って、ひでーな!」
「生殺しかよ!」
 男達がぶーぶーと不満を言う。
「但し! 金さえ出すなら、あたしともう一人、ここに居ないシルビアの二人だけは相手をしてやるよ! そこら辺、話をするから女を抱きたい野郎共は今晩この向かいの広間に集まんな! いいね!」
 カトラの迫力に気圧された男達は「お、おう」と同意した。

  ◆

 同日夜、迷宮――。

 迷宮で雨宿りする者は更に六人増え、その全一五人が南の広間に集まっていた。迷宮の住人も皆集まっている。
 そこで改めてカトラは娼婦として自分とシルビアだけが男達の相手を務める事と、他の女達に手を出すと命の保証が無い事を語った。
 そして砂時計を取り出す。シルビアの提案でザムトが作ったものだ。
「料金はこの砂時計一回分、大体一時間で一人二万円だよ」
「たけーな!」
 男の一人が反射的に叫び、幾人もの男が同意するように頷いた。
「それだけ高級って事さ。だけど言っただけじゃ信じられないだろうから、あたしとシルビアで一人ずつ、宣伝も兼ねて砂時計一回分だけお試しの半額で相手をしようじゃないか。但し、宣伝なんだからみんなの見ているここででやるよ。それでいい奴は居るかい?」
「俺だ!」
 最初にカトラに声を掛けた男が手を上げて叫んだ。
「シ、シルビアさんって、商業組合のシルビアさんですか?」
 一人の男の問いに周りがざわめく。
「はい、そのシルビアです。確か貴方は組合員の方でしたね」
「そ、そうです。じゃ、じゃあ、わた、私が!」
 シルビアに問い掛けた男はそのままお試しに立候補した。シルビアに懸想していたのはモドロフだけではなかったのである。

 他の男達もサシャを始めとする女達もが固唾を呑んで見守る中、二人の男は野太い声で乙女のような喘ぎ声を出して何度も絶頂に達し、砂時計が落ちきる前に疲れて眠り込んでしまった。その余韻の残る淫靡な表情でカトラは言う。
「判っただろ? この後は別の部屋で相手をしてやるよ」
 この後、カトラが相手にしたのは二人、シルビアが相手にしたのは三人だった。他の男達は、元々女の裸を見るだけのつもりだった者や、見ている最中に漏らしてしまった者や、ソレーヌの方が気になって見ている間に賢者のようになってしまった者などである。
 そしてこの日から、迷宮は娼館としての役割も担うようになった。

 雨は翌朝になっても降り止まず、例年より少し早い雨期は例年より激しい雨と共に訪れた。

  ◆

 第二五週木曜日暮れ時、迷宮――。

 雨は一日中降り続き、昨晩泊まって朝に出立した一五人の内、迷宮へとまた訪れたのは三人の冒険者である。
「あんた達、また泊まるのかい?」
 たまたま出会したカトラが目を丸くした。一人は昨日カトラをいの一番に抱いた男だ。
「話し合ったんだけどよ、別にハジリに帰る必要がねぇんだわ」
 宿屋住まいをしている冒険者達は常に全財産を持ち歩いているため、いつでも拠点を移動できる。
 一方、迷宮では水を只で飲め、代金を支払えば食べ物も買える。そして、狩った獲物を売る事もできるのだから、狩りを生業とする身であればそのまま生活が可能だ。
 それに、雨が降り始めた事で南の森へと偏っていた獲物も東の森へと移動し始めている。森の中の迷宮を拠点にする方がハジリを拠点にするよりも狩りをし易い。
 おまけに裸の女を見放題となれば迷宮に住まない理由など無い。冒険者達は出立前に話を纏め、雨の中で狩りをしていたのである。
「だったら結構長く住む事になりそうだね。寝る場所を用意するからちょっと待ってな」
「なあ、あんた!」
 サシャを探しに行こうと踵を返したカトラを男が呼び止めた。
「俺の女にならねぇか? 身請けが必要なら金は工面するぞ」
「悪いけど、あたしはもうこの迷宮の主の女なんだ」
 苦笑いしつつカトラは答えた。
「迷宮の主は自分の女に娼婦をさせてんのか!?」
「んー、あたしが勝手にやり始めた事だからねぇ。旦那がどう思ってるか判んないよ」
「勝手にってあんた……」
「元々娼婦だったあたしが稼ごうと思ったらこれくらいしかなくてね」
「くそっ、もっと早く会ってたらなぁ。俺ならそんな事させねぇのに」
 男は歯軋りをしながら悔しがる。
「あたしみたいな娼婦のどこがいいんだかね」
「関係ねぇよ! 一目で惚れちまったもんはどうにもなんねぇんだ!」
 カトラは眉尻を下げる。
「参ったねぇ。あたしがしてやれるのは客としてのあんたを受け入れる事だけだよ」
「わりぃ、あんたを困らせるつもりは無いんだ」
 男は顔を顰めて俯いた。

 男達の寝室には竈の斜め向かいに位置する二の七の部屋が割り振られた。
 この日以降、狩りを生業とする冒険者や狩人達が迷宮に寝泊まりするようになっていった。
 それと共に食堂として使っている竈の向かいの部屋で、朝晩の決まった時間にだけサシャとジョーの手による料理を冒険者に対して売るようにもなった。

  ◆

 第二六週月曜昼、ケストローム、シルベルト辺境伯邸――。

 シルベルト辺境伯邸には建物に囲まれる形で中庭が有る。芝が敷き詰められ、彩りを添える程度ながら花や木も植えられていて落ち着いた雰囲気となっている。一角には四阿あずまやが建っており、テーブルと椅子も置かれていて少人数であれば食事も可能だ。
 その四阿にて一糸纏わぬ二人の女が昼食を摂りながら談笑している。一人はシルベルト辺境伯ウルムンドの妻マルガレッタ。もう一人は第一王女のフィーリアである。
 給仕をする使用人達も皆、二人と同様に裸であるため、中庭は裸族の楽園のような風情を醸している。

 マルガレッタは生来の裸族で、下級貴族である実家の家族から持て余されて成長した。
 適齢期になって早々に幾度となくお見合いをするも、性癖を知られた途端に悉く断られ、穀潰しの一生を送るのもやむなしと目されていた。しかし、ひょんな出会いから辺境伯を継ぐ前の現辺境伯ウルムンドに見初められて妻となったのだ。
 マルガレッタの両親が涙を流して喜んだのは言うまでもない。
 二人の出会いはお互いにとって幸運だった。マルガレッタがそうであったように、ウルムンドも娶る相手を得るのに難儀していたのだ。それはシルベルト辺境伯家の一族の多くがそうであるように、ウルムンドも特殊な性癖の持ち主であるためだった。
 シルベルト辺境伯家はセーベリート王国建国時から続く古い家柄で、建国にも貢献し、今も王国を東国の侵略から守り続けている旧臣である。家名を領地名とした貴族家の中で唯一現存する家系でもあり、王家とは頻繁に姻戚関係を結んでいて縁も深い。今代においてもウルムンドの妹ヒルデガルドが現国王に嫁いでいる。即ち王妃である。
 ところが、一族は代々、奔放な性癖を持ち合わせる傾向にある。他人の特殊な性癖にも肝要な事から、変わった性癖を持つ者を生み出す土壌が醸成され、一族の者の殆どが何かしらの悪癖を持つに至った。しかし、どんな性癖でも許容する訳ではなく、領民を傷付けた者に対しては一族の者であっても苛烈な制裁を加える。そのため、重度の加虐癖の者は淘汰され、他者への直接的害の無い裸族などが多くを占めている。
 それは領地運営にも現れていて、窃盗や傷害などでは他領よりも厳罰が科せられる一方で、他領では逮捕される場合もある猥褻行為の多くが合法となっている。
 そんな一族であるが、特殊な性癖を持たない者も現れる。それが女であれば王家一族の花嫁候補となり、ヒルデガルドもそうして王妃となった。
 ただ、この婚姻が成立したのは本人達の強い希望が有ったればこそだった。当時の前国王の治世には辺境伯が叛乱を起こすのではないかと言われるほどに関係が悪化していたためである。
 一方、王家に特殊な性癖の持ち主の女が現れた場合にはシルベルト一族へと嫁ぐのが習わしとなっている。
 そして現当主のウルムンドと言えば、本人は特に何もしないが痴女をこよなく愛する男である。ウルムンドが辺境伯となって以降、採用する使用人の多くが痴女で、今や使用人の女の約半数が痴女である。
 この痴女を愛する点が配偶者を見つける上で問題だった。自分が行うタイプの性癖ならば配偶者にはそれを容認して貰えれば良いだけだが、ウルムンドの場合は配偶者がそうでなくてはいけない。使用人であれば代々シルベルト家に仕えている痴女の家系が有るのに加え、市井から見つけるのもそう難しくはないのだが、配偶者となるとそう簡単ではなく、家格の問題で少なくとも貴族のそれなりに教養の有る女である必要があった。
 そうした中で幸運にもウルムンドはマルガレッタに出会った。二人は性癖だけでなく性格の相性も良く、仲睦まじい。割れ鍋に綴じ蓋を地で行く二人である。更にマルガレッタは政務を良くこなし、ウルムンドの良き相談相手にもなり、領地の発展にも寄与している。
 そうした結果、現在のシルベルト辺境伯の国内での存在感は否が応でも高まっている。

 フィーリアは幼少の頃から毎年一度はシルベルト辺境伯邸を訪れている。王家と辺境伯家の不仲の原因である前国王が一六年前に崩御し、フィーリアの父である現国王が即位して両家が関係改善に動き出した事がそもそもの切っ掛けだった。
 そうして毎年訪問する内、フィーリアにとって最初は母の実家を訪れると言う意味合いだったものが、いつしか伯父の配偶者であるマルガレッタを訪ねるものに変わった。全てを曝け出すマルガレッタにキラキラと光るものを感じて憧れた。そしていつの頃からか、マルガレッタと二人の場合にはマルガレッタに合わせて全てを曝け出すようになっていた。更に言動もマルガレッタに似つつある。
 この事を知る者は、フィーリアには隔世でシルベルトの血が目覚めているのだと考えている。そしていつかはシルベルト一族へ降嫁すると言うのが大方の予想である。

「殿下、ハジリの近くに出現した迷宮が最近では『痴女迷宮』と呼ばれるようになったそうですのよ」
「それはまた素敵な響きですけれど、なぜそうなってしまったのでしょう?」
「何でも、多くの痴女が住み着いているそうです。不確かな噂では、迷宮に行くと女ははしたない痴女になってしまうとか」
「まあ!」
 フィーリアはパンと両掌を合わせて目を輝かせた。
「心躍るお話ですこと。伯母様は迷宮にいらっしゃらないのでしょうか?」
「同じ痴女としては是非とも伺いたいのですが、生憎と雨期には災害も多く、旦那様が領地のあちらこちらを駆け回らなければならなくなる事もございます。その時には留守を預からねばなりませんので、雨期が終わって水も引いた後でなければ訪問もままなりませんの」
「それは残念です。できれば伯母様とご一緒しとうございました」
「私もですわ」
 その後も二人は心行くまで談笑を続けた。

 フィーリアは馬車の用意が出来るまでの三日間をシルベルト辺境伯邸にて過ごし、第二六週木曜の朝にハジリへ向けて旅立った。

  ◆

 第二六週木曜夜、王都セベレス、ネブサル男爵邸――。

「次の女はまだか!」
 王都のとある屋敷の居間で怒声が飛んだ。声の主は醜く太った男、人からはよく豚に譬えられるが、譬えれば豚に失礼だとも言われるこの屋敷の主人、ネブサル男爵である。
「申し訳ございません。業者に問い合わせても入手が難しくなっているとの事でございます。今宵はお手元の女で辛抱していただくほかございません」
 執事は頭を下げて謝罪するが、男爵はそれをはね除ける。
「そんなものはどこにも居らんわ! 早く新しい女を連れて参れ!」
 執事は男爵に気付かれないように男爵の寝室をちらりと見やり、その中の惨状を思い描いて眉を顰める。
 男爵は猟奇的性癖の持ち主であり、女の身体を生きたまま切り刻んで快感を得る変質者である。そうして既に数十人の女を殺した殺人鬼でもあった。
「旦那様、最近は女を入手し辛うございます。どうかご辛抱をお願いいたします」
「だったらメイドの一人でも連れて参れ!」
「お言葉ですが、メイドに手を掛けてしまえば隠しようが無くなってしまいます」
「ぐぬぬ……、これもあの忌々しい小娘のせいか! 王女だか何だか知らんが余計な真似をしてくれたものだ!」
 男爵が弄ぶ女は人買いから買い入れて賄っていたが、最近は入手し辛くなっている。第一王女フィーリアが女を買い取ると共に、応じない人買いを容赦なく粛正した事が原因だ。
 そしてフィーリアがそうする以前、人買いに売られた大半の女の行く末はネブサル男爵のような者達の慰み者だった。
「旦那様、お声が大きゅうございます」
「構うものか! 誰も聞いておらんわ! それよりあの小娘を始末する件はどうなった!?」
「聞いている者はここにおります」
 男爵と執事の間に女の声が割り込んだ。二人が振り向けば、いつからそこに居たのか壁際にメイド服の女が立っていた。
 執事は見知らぬ女の姿に目を丸くするが、男爵は好色な表情を浮かべるだけだ。
 ごとんと何かが落ちる音がしたのにも男爵は気付かない。
「おお、メイドが居るではないか。そなたに夜伽を命じる。いい声で鳴かせてやろう」
「お断り申し上げます」
「何だと! 男爵たるわしの言う事が聞けぬと言うのか! ただで済むと思うなよ!?」
「実に小物らしくて微笑ましゅうございます。そうそう、先程の貴方様のご質問についてでございますが、そちらの執事様はもうお答えできかねるようにございますので、このメイドから答えさせて頂きます」
 そこで漸く男爵は執事の方を見るが、立っていた筈の場所に立っていない。視線を下げると、執事が倒れており、その倒れた執事の足下に執事の頭が転がっていた。
「馬鹿者! 何を寝ておるか!」
 男爵の本能は目前の光景を拒絶した。しかし、理性は一本の紐を引かせる。呼び鈴である。
 不思議な事にメイド服の女は男爵が紐を引くのをじっと見守った。そして一頻り紐が引かれた後で口を開く。
「貴方様の仰る『小娘』の乗る船においたをなさろうとした方々は皆、そちらの執事様のようなお姿になられまして、今頃は魚の餌になっていらっしゃるのではないかと愚考いたします」
「皆だと?」
 男爵は鼻で笑った。一ヶ所や二ヶ所の襲撃を阻止されても構わなかったからだ。
 一方で少し焦りも生まれ始めていた。呼び鈴で呼び出しているのに隣室に居る筈の用心棒が一向に現れない。
「港での工作以外にも六カ所、それも遠い所では王都から三〇〇キロメートルも離れた場所での襲撃を予定なさるとは、いやはやその念の入りようにこのメイドも感服いたしました」
「な……」
 なぜそんな事まで知っているのかと尋ねようとしても、男爵は驚きで声が出なくなっていた。女が言った数は襲撃計画の全てだったのだ。再度呼び鈴の紐を懸命に引く。
「申し遅れました。その紐を引かれても無駄でございます。あちらにいらっしゃった方々はそちらの執事様に先だって永遠の眠りへと誘わせて頂いたところ、皆様快く受けてくださいました」
 無表情に淡々と語る女に底知れぬ恐怖を感じた男爵は顎が外れそうなほどに口を大きく開け、目を大きく見開いた。
 今まで女を切り刻んでいても自分が切り刻まれる事は想像もしていなかった。だが、今この時ばかりは嫌でも想像してしまう。
 男爵のズボンに染みが広がった。
「漸くご自分の立場を理解なされましたか。物分かりの悪い方に理解して頂くのはなかなかに骨の折れる事でございますね」
 女は軽く息を吐いて一拍空けた。
「さて、貴方様についてでございます。恐らくは操り人形と愚考した結果、僅かの間ながら泳いで頂いておりましたが、どうやら操り糸は切れているご様子。しからばもう用はございませんので、今日を限りに永遠の眠りへとお入りになられますよう、お手伝いさせて頂く所存にございます」
 そう言って女は闇の中へと消えた。
 その場に残されたのは、全てを合わせればネブサル男爵と呼ばれた形になる、幾つかの肉の塊だった。

 翌日にはネブサル男爵の変死が王都内に知られる事となる。

  ◆

 第二六週木曜夜、ロスタナ王国王城、国王執務室――。

「陛下、セーベリートに新たな迷宮が出現したとの報告が入っております」
 ロスタナ王国にもザムトが主になった迷宮についての報告が伝わったのだ。
 五〇歳前でありながら六〇代にも見える国王ホルドランス・デウスノーボは身を乗り出し、報告を伝えた五〇代前半でありながら六〇代半ばに見える宰相マグナートに問い直す。
「真か!?」
「御意に」
 マグナートは報告の詳細を語った。
「直ぐに攻略隊を向かわせよ。核石さえ手にすれば、魔導砲も完成しよう」
「承知つかまつりましてございます」
 宰相は恭しく頭を垂れた。
「然るに陛下、現状では動かせる者が一一級の者しかおりませぬ。慎重に事を進めなければなりませぬ故、朗報を得るには些か時間を必要かと存じ上げます。なにとぞご容赦をお願いいたします」
「東の状況は芳しくないのか?」
「御意にございます」
 マグナートは無念さを滲ませるようにして頭を下げた。

 ロスタナ王国はセーベリート王国の東に位置し、北のゼネベリア帝国、西のセーベリート王国に次ぐ三番目の大国である。
 その前身たる王国の時代には西はメナート川付近までを版図に収めていたが、恒常的な戦乱と度重なる王位簒奪による混乱によって徐々に衰退した。戦乱が止む事は無く、現在でもゼネベリア帝国、王国の東に有る小国のガルドターナ公国及びグルターナ公国と戦争状態にある。
 ゼネベリア帝国とは前王朝時代から長年に渡って戦争が続いているが、直接戦火を交える事は殆ど無い。現在も国境線で睨み合うだけで、休戦に等しい状態となっている。しかし、その息が掛かっていると思われる北の小国とは一昨年まで戦闘状態にあった。
 ホルドランスは即位すると荒廃しつつある国内を憂いて戦争を終わらせる決心をした。それを支えたのがマグナートである。
 二人は長年の苦心の末に北の小国との休戦協定を結び、漸く戦争が終わったと安堵した矢先、ガルドターナ公国とグルターナ公国の侵攻が始まった。東部の町が侵食され、いつ終わるとも知れない戦渦がまた巻き起こったのだ。
 そしてその両公国との戦争では戦況が悪化の一途を辿っており、戦線を維持するために幾人かの個人の力量に頼っているのが現状だ。
 その戦況を覆す起死回生の一手が開発中の魔導砲だったが、十分な品質の魔石が無いために完成には程遠かった。だが、核石が有れば完成も夢ではない。
 魔導砲とは魔法士の代わりに魔法を放つ事のできる大砲で、開発中のものは六級の魔法士に相当する。

 ガルドターナ公国とグルターナ公国は過去にはロスタナ王国の領地だったが、現在の王朝が王位を簒奪した際に分離独立を宣言した。そうできたのは、両国の兵士個々の力量がロスタナ王国のそれに比べて高かったからである。
 それには環境が関係する。
 両公国の東には、前人未踏の大森林と呼ばれる森林地帯が広がっていて、頻繁に強力な魔物が這い出てくる。一〇級の魔物は毎週のように、八級の魔物も年に数度の頻度である。一〇級は一通りの訓練を終えた新兵五〇人分以上の強さで、八級は同じく二〇〇人分以上の強さであるため、魔物から日々町や農地を守り続けている両国の兵士は自然と強靱な戦闘力を身につける。
 加えて、強力な魔物からは大きな魔石が取れる事と両国が強い冒険者に対して優遇措置を行っている事とで、戦闘力の高い冒険者達が両国に集まり、国全体としての戦闘力は人の世界屈指となっている。
 そんな両公国の主な産業は魔石の輸出であり、ロスタナ王国はその最大の顧客だった。そしてロスタナ王国を通り、マグノサリア公国やセーベリート王国にまで輸出していた。
 そしてそれの維持には、ロスタナ王国との関係が良好とまでは言えなくとも、商取引を行えるだけの信頼関係が必要な筈だった。

 ホルドランスもマグナートも国状を鑑みて、ガルドターナ公国やグルターナ公国が戦争を仕掛けてくるとは考えもしていなかった。だが、仕掛けられてしまった。
 そしてそれを予見できなかった不甲斐なさにマグナートはほぞを噛むのである。
「マグナート、そなたが頭を垂れるでない。余とそなたは最後まで胸を張らねばならぬ。それが王と宰相の努めなるぞ」
「ははっ! お言葉肝に銘じましてございます」
 マグナートは顔を上げると退出を伝え、胸を張って踵を返した。それをホルドランスが呼び止める。
「言い忘れておった、マグナート」
 マグナートはまたホルドランスに向き直ろうとするが、ホルドランスはそれを止める。
「そのままで聞け。もしも迷宮の攻略が叶わぬと容易に悟れるようであらば、迷宮の主と和合の道を探るのだ」
「陛下、もしや!?」
 マグナートは目を見開き、小刻みに震えた。
「もしもであるぞ」
「かしこまりましてございます」
 マグナートは執務室から胸を張って退出した。
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