老いの足音

はまだかよこ

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老いの足音

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 スライド式のドアを開ける。
「おはようございまあす」
 明るい声が迎えてくれる。ホールの窓際に活けられた楓の赤い葉に陽が踊っていた。広やかな部屋には、八人掛けのテーブルが八卓程、ゆったりと並んでいる。先に座っている方に挨拶をしながら、私は自分の名前のプレートを目指した。
 私が週に一回、半日通っているここは、高齢者向けのリハビリ専門のデイサービス施設だ。
 交通事故の後遺症で杖を必要とするようになって二年半ほど前からお世話になっている。
 お茶を飲んだり、血圧や体温チェックをしている間にも送迎車に乗って利用者が次々来られる。私だけ、家が近いので、我儘を言って歩いて通っている。
 軽い体操の後、トレーニングマシーンや色々な器具を使った運動をする。負荷もその方に合わせて調整している。ベッドでの体操やマッサージ、足湯、調理と盛りだくさんだ。
 皆さん、痛い所や麻痺しているところを庇いながら真剣だ。私も最初不安だったが、療法士さんのアドバイスのおかげで随分筋力も付き、もう杖は片づけてしまった。

 休憩になり、ほっとお茶を飲んでいると、向こうのソファから女性の大きな笑い声が上がる。どうやらご主人を亡くした時の年齢を言い合っているようだ。
「私は四十代やったから、子供育てるのん苦労したで」
「そらえらいことやったわなあ。うちは七十五で逝ったで」
「いやええなあ。うちとこはまだおるんや。もううっとおしいてかなわん」
 わいわいと言い合っているが、結局、七十五歳でご主人を見送った方が一番勝ちと、落ち着いたようだった。男性のテーブルでは、聞こえないようなふりをして、テレビを見たり脳トレゲームをしたりと、みんな静かだ。
「我が夫は七二歳、果たして私は勝てるのかしらん」
 などと思いながら、ちょっと冷めたお茶を口に運んだ。
 隣のテーブルで雑誌を読んでいる方とふと目が合って、お互いにニコッと会釈を交わした。背筋が伸びて白髪パーマもおしゃれで、パワフルな方だ。
「九十まであと少しよ」
 そう笑うのだけれど、とてもそうな見えない。
 何か月か前、たまたま二人だけのとき、つい話し込んだことがあった。
「私女学校満州なの」
 それから、私が行ったこともない満州の風や空、家の様子、吐く息が凍る寒さなどのことなど。次々と話はつきなかった。私は、ただ物珍しく相槌を打ちながら、話し上手にひこまれていった。
 終戦の時は、女学校を出たばかりで、父親は現地召集で戦死、母親と妹二人、弟の五人で引き揚げたそうだ。言葉にできない日々の途中、小屋の裏の暗がりで、母親が幼い弟の首を絞めたのだそうだ。
 それを聞いた時、私の周りの音と色が消えた。どんな顔をしたのだろう。何も言えずあんぐり口を開けていたのか、それとも目を見開いていたのだろうか。
 その私を見て彼女はハッと口を閉ざした。
「私一体どうしてしまったんだろう。こんなこと本当に誰にも言ったことがないのに」
 そうつぶやいてしばらく手をにぎったり閉じたりしていた。でも大きなため息を一つ吐き出すと、いつもの笑顔にもどった。
「私ね、可愛げがないの。人にも言われるし自分でもつくづくそう思う。引き揚げて来て、母と妹たちを食べさせるのに必死で働いたの。でもねえ、女学校出ただけの女の子が働いたってねえ。もう夢中だったわ。妹たちを嫁がせて、母を看取って、気が付いたら、自分が婆さんになってた。その間、母をどうしても許せなくって、なんかギクシャクしてたの。誰にも頼らず生きてきたから、ほらこんな憎まれ婆さんなの」
「私なんてだめですねえ。ふにゃふにゃで」
「見てれば分かるわよ。うらやましいわ。甘え上手が幸せよ」
 ポンと私の肩を叩いて、とびっきりの笑顔で言った。
 それからも、毅然としいながら柔らかい物腰の彼女ととりとめのないことを話している。

 午前のプログラムが終わり、昼食の時間だ。私は午前中だけなので、スタッフに見送られて引き戸を開ける。
 体を動かした心地よさで足も軽い。
 様々な人が様々な老いを生きている。それを実感する場所だ。
 私も静かに「老いの足音」に耳をすまそう。公園の落ち葉をしゃくしゃくと踏みながら、帰り道を急いだ。

    おしまい
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