卒業式に出られなかった

はまだかよこ

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卒業式に出られなかった

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   卒業式に出られなかった       
 
『P一九二〇六 大森佳世子 
右の者 卒業の意思無き者と認む』   

「佳世ちゃん、えらいもんが張り出されてるよ」
 自宅にかかってきた親友の千里からの電話で、私は、真っ青になって、飛び出した。大学までは乗り換えが多く、二時間かかる。そして、息を切らした私の目に飛び込んできたのが、 正門を入った掲示板に墨痕鮮やかに大書された張り紙だった。私は、慌てて教務課へ走った。
「T教授からの指示ですので、直接言ってください」
 職員の冷たい一言を背に、恐る恐る家政学のT教授の部屋をノックした。名乗ると、
「ああ、あなたね、課題提出がありませんね。単位は必須のものだと申し上げたはず。卒業は認められません」
 取り付く島もなかった。
「うわあ、どうしよう。留年かあ。サボってたからなあ。あの教授ものすごく怒ってらした。しょーがないか。ちょっとかっこ悪いよなあ」
 ぶつぶつ言いながら、うなだれて家に帰った。


 昭和四十二年(一九六七年)四月、私は大学生になった。憧れて、猛勉強して目指した国立大学の教育学部。
 入学式には、母が時間をかけて仕立ててくれたスーツを着た。若草色で、流行りだしたちょっとミニ。柔らかい緑色に、心は満たされていた。
 小高い丘に建つ学舎からの帰り、夕暮れの坂道を、遠くに海を見ながら、下りていくのが大好きだった。ブックバンドにはさんだ教科書を手に歩く駅までの道は、
(私って大学生だあ)
 スキップしたいような気持だった。

 一年半は教養学部生として、他の学部の学生と一緒に、一般的な講義を履修する。広い講義室での『なんとか概論』は、よく分からなくても、ノートを取っていると、大学生っぽくてわくわくした。
 しかし、夏休みが終わった頃から、学内の雰囲気が、とげとげしくなってきた。全国的な学生運動の波がじわじわと押し寄せ、毎朝渡される激しい言葉のアジビラや、独特の『ゲバ文字』と言われる戦闘的な立て看板が目立ってきた。
 授業が学生集会に替えられることも、珍しくなくなった。また、黒や赤のヘルメットを深くかぶり、顔にタオルを巻いた学生が、あちこちでハンドマイク片手に、大音量で演説していた。校内には、静かな場所がなくなってしまった。
 学期末テストは、みなレポート提出になり、授業もほとんどなくなった。
 けれど、私は、毎日学校へは通った。入学してすぐ入った人形劇サークルで、所謂『ノンポリ学生』として非難されながら、忙しく夢中で活動していた。そこにだけ、私の居場所があった。友達もでき、特に、一緒に入部した千里と仲良くなった。性格は全く違ったけれど、豊かな感性がありながら、しっかりと現実を見つめる彼女を信頼していた。小旅行したり、悩みを打ち明け合ったりした。

 昭和四十三年秋、教育学部に進級したけれど、私は、勉強への興味をなくしてしまっていた。その年は、卒業式もなく、翌年の入学式も他の場所で行われた。

 三年の夏には、学舎も封鎖され、バリケードばかりが立ちはだかっていた。短期間で、封鎖は解除されたけれど、入学した頃の学校とは別のものに思えた。サークル以外では友だちもなく、勉強にも身が入らず、『怠惰』が私を覆ってしまった。適当に授業に出て、サークルに顔を出す。
 そんな中で、通学時間が苦痛になり三年の秋、女子寮に入った。
 三階建ての建物で、一階は共有部分。一部屋は四人。二人ずつ、少し高くなった畳敷きがあり、そこに布団を敷いて寝る。板の間には机と物入。それだけのシンプルな部屋だ。食堂があり、おばさんが調理してくださる。
 電話は寮に一つ、当番が回って来ると、夕方から夜まで、受付の部屋で電話番をする。
「○○号室の○○さん市外電話です」
 呼び出すと、誰かがバタバタと降りて来て、電話にしがみつく。
「いつ電話してもずっと話し中だわ」
 寂しくて、父とも諍いが絶えない母が、いつもぼやいていた。
「寮生集会を開きます。会議室に集まってください」
 九時になると、毎晩のように放送がある。『スチーム闘争』なるものを展開していた。寮には全館スチーム設備が整っていて、暖房できるのだが、その費用を全額寮生が負担するのは間違っていると、闘争しているのだ。だから、寒い。私は、どうでもいいからとにかく暖房を入れてほしかった。
「下宿に比べたら格安の寮費なんだから、光熱費くらい払ったらいい」
 親しい友達には言えても、大きな声で言うことができない私だった。闘争より何より、暖かい部屋にしてほしかった。
 お正月で自宅に戻っていたとき、母が神経痛と胃炎が悪化して、臥せってしまった。仕方なく私はまた、自宅に戻ったのだ。

 四年生になり、自宅通学しながら教育実習も終え、教員免許を取得し、小学校の採用も決まった。あとは、卒業だけを残していた、二月の末だったのだ。

 家に帰った私は、母に話した。
「ごめんね、一つ単位が足りなくて、留年するの」
 それを聞いた母は、突然、畳に頭をすりつけて、大声を出して泣き出した。私は、あっけにとられた。母親は、いつも穏やかで辛抱強い人だったから、こんな姿を見るのは初めてだった。ここまで母を悲しませるとは思ってもいなかった。その頃やっと、少し元気になり、家事もできるようになっていたのだ。
「どんな難しい勉強の単位を落としたの」
 泣きながらも、母はたずねた。
「いや。小学校の先生になるための実技でね、図工とか、ピアノとか。これは、家庭科実技の単位、運針とボタン付けの提出、忘れてた」
 それを聞くと母は、もうこの世の終わりかというほど泣き叫んだ。
「そんなもんで卒業できひんの!私がやる!ここへもってきて!ボタンなんか何百個でもつける。運針何メートルでも縫う!大学で何やってたの。なさけない」
 私は焦りに焦った。
 翌日、卒論の指導教官のM教授の部屋を訪れた。(卒論の成績は、そこそこよかったのだ。)
 M教授のとりなしで、T教授は譲歩してくれた。条件として、大量のレポート提出と、授業に出ていた学生の同意を求められた。
 千里に言うと、
「ほんまアホやなあ。サボってばかりいるから、心配はしてたんやけど。あきれるわ。もう時間ないし、佳世はレポートに専念しとき。私、手分けして講義に出てた人の署名集めてあげる」
「ごめん!ものすごい反省してる。ごめんやけど、お願いするね」
 千里には本当に申し訳なかったけれど、そうしてもらうより方法はなかった。私は図書館にこもり、必死でレポートを仕上げた。
 母は、すっかり落ち込み、食事ができなくなっていた。なんとしても、卒業しなければならなかった。


 あれから五十年たった今、若い頃のことは、靄にかすんでいる。
 あまりの恥ずかしさに、卒業式に出席できなかった。
 あとで渡された卒業証書を手にした母の笑顔は、忘れられない。

 しかし、あの激しかった学生運動、寮のスチーム闘争とは何だったんだろう。深くて濃い靄が覆ったままだ。
 あっ、千里からラインが来た。来週のランチの約束だ。彼女が今も親友でいてくれていることが、とても幸せだ。



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