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泣いた黒電話
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美代子は、チラシの切れ端と十円玉を握りしめて、落ち葉が舞っている細い道を走っていた。
昭和三十年の秋のこと、一年生の美代子が学校から帰ると、お母さんがタオルをおでこに当てて、真っ赤な顔を布団からのぞかせていた。
「お母ちゃん、どなしたん?」
「美代ちゃんお帰り。お母ちゃんな、えらい熱やねん。ごめんやけど織田先生に往診してもらうように電話してほしいんよ」
美代子は、その布団の傍で泣きそうになって、固まってしまった。お母さんが昼間に寝ているの一度も見たことがなかったのだ。
「独身寮の管理人さんとこに電話あるから、この番号にかけてもらって。名前きちんと言えるね。十円置いてきてな。お礼はまたお母ちゃんが元気になったらするから」
そう言われて、汗をかきながら走っていたのだ。お父さんは仕事だし、五年生のお兄ちゃんもまだ帰ってこない。美代子ががんばるしかなかった。
社宅の美代子の家は、四階建ての棟が七つ並んだ中の一つにあった。そして、一番端にある三階建ての棟が、『独身寮』という、会社で働く若い男性のための住まいになっている。そこには食堂もお風呂もあり、管理人さんも住んでいた。
社宅の敷地はとても広く、独身寮まではずいぶん遠かった。美代子が息を切らせて管理人室の前に立ったとき、慌てて出て来たおじさんとぶつかりそうになった。
「おや、六号棟の子やな。えらい急いでどないしたんや」
「お母ちゃんが熱で、織田先生に電話頼まれたんです」
「そら、えらいことや。自分で電話できるか? おっちゃんな、二階の部屋の水道が止まらんで水浸しなんやと。すぐ行かなあかんのや。これに乗って電話しいや」
管理人のおじさんは、木のふみ台を置きながらそう言うと、両手いっぱいに何か大工さんみたいな道具を抱えて大急ぎで出て行ってしまった。
玄関脇の少し高い台には、ノートと鉛筆、そして黒い電話が置いてあった。美代子は、頭がくらくらした。電話なんか掛けたことがなかったのだ。走って来た汗とドキドキの汗で背中が冷たい。
(お母ちゃんがえらいことやもん、電話せんと)
こわごわ靴を脱いで踏み台に上がり、電話の横にしわくちゃになったチラシの裏を広げた。お母さんが走り書きした数字が涙でぼやける。ぐっと袖でぬぐうと数字を睨んだ。
「3-5487」
前にお母さんがかけているのを思い出して受話器を持つと、ずっしりと重い。それを耳に当てたとたんジージーと気持ちの悪い音がした。
ピカピカの黒い電話の前には、一番下に⓪があり、ぐるっと丸く⑨⑧⑦から①まで並んでいる。お化けみたいな怖い顔に見えた。
「3―5487」
美代子は震える声で読み上げる。右手の人差し指を下の丸い⓪に入れる。③のところでパッと放す。それからまた⓪に人差し指を入れ⑤までくるとパッと放す。④⑧⑦と繰り返した。でも繋がらない。
織田医院は、よく美代子が診てもらう先生で、扁桃腺をはらすと注射をしにくるから大嫌いだけれど、なんとかつながってほしい。もう一度同じことを繰り返した。
(番号ちごてんのやろか)
もう一度やってみる。左手がどんどん重くなり、右手の人差し指も痛くなる。じわっとにじんでいた涙が、どんどんたまってポトッと落ちた。二階では物音や声がしているが、周りを見渡しても誰も通らない。黒い電話がプンプン怒って、光りながら美代子にとびかかってきそうだ。
「帰りたい。でもお母ちゃんが」
泣きながら小さな声を出して、もう一度やってみた。
そこへ、管理人のおじさんが戻って来た。
「えっ、まだおったんか? 電話できひんかったんか。ごめんな。おっちゃんがしたろ」
そう言うと、ささっと電話をかけ、往診を頼んでくれた。
「ほらもう大丈夫やで。家に帰ってお母ちゃん塩梅ようしたりや」
美代子が十円玉を渡そうとすると、
「この帳面に名前書いてたら、社宅の人はお金はいらんのや。おっちゃんが書いとくからな」
うなずきながら黒い電話を見ると、今度はだまって泣いてるみたいだった。
お礼も言わずに飛び出した美代子は、また走って帰った。美代子の帰りがあまりに遅いので心配していたお母さんが、ほっと安堵のため息をついた。
美代子は洗面器に水を入れ、タオルをしぼると、ぎこちなくお母さんのおでこに置いた。すぐぬるくなるので、何度もたたみ直して置く。お母さんは、かすれた声で言った。
「ありがとう。ごめんね」
夕方、先生と看護婦さんが来てくださり、注射をした。いつもの美代子と一緒だ。先生は
「美代子ちゃんが電話してくれたんやなあ。一人でえらかった、えらかった。お母ちゃん心配ないよ、すぐに熱下がるからな」
体温計の水銀をを元に戻すためサッサと振りながらそう言った。それから、ニコっとして、美代子の頭をなでて帰って行った。
(いつも注射して嫌いやけど、ほんまはやさしいな)
美代子も心がほわっとした。お母さんは安心して目を閉じている。
日が暮れてから、お兄ちゃんが自転車に乗って薬を取りに行き、お父さんも氷を買いに行った。氷枕を当てたお母さんが、そっと言った。
「あー、気持ちええ。みんなありがとう」
織田先生のスクーターが停まっていたので、下の階のおばちゃんが心配して来てくれた。
「美代子ちゃんがまた熱出したんかとおもたらお母ちゃんかいな。えらいこっちゃ、おかいさん炊いて来るからね」
しばらくして持ってきてくれたお粥を、お母さんは少し食べ、寝間着を着替えると、うとうと眠ってしまった。その頃には、すっかり普通の顔色になっていた。
遅くなった夕食は、三人でそっと食べた。お父さんが炊いたご飯に卵をかけて、ポールウインナーを一本ずつ丸かじりした。美代子は一度やってみたかったのだ。いつもはお母さんが切って、サラダに入れたりするだけだったから。
あれから美代子も電話が何故かからなったか、逆にダイヤルを回していたからだと分かったけれど、思い出すたびに体中がカーっと熱くなるので、ずっとずっとヒミツなのだ。
昭和三十年の秋のこと、一年生の美代子が学校から帰ると、お母さんがタオルをおでこに当てて、真っ赤な顔を布団からのぞかせていた。
「お母ちゃん、どなしたん?」
「美代ちゃんお帰り。お母ちゃんな、えらい熱やねん。ごめんやけど織田先生に往診してもらうように電話してほしいんよ」
美代子は、その布団の傍で泣きそうになって、固まってしまった。お母さんが昼間に寝ているの一度も見たことがなかったのだ。
「独身寮の管理人さんとこに電話あるから、この番号にかけてもらって。名前きちんと言えるね。十円置いてきてな。お礼はまたお母ちゃんが元気になったらするから」
そう言われて、汗をかきながら走っていたのだ。お父さんは仕事だし、五年生のお兄ちゃんもまだ帰ってこない。美代子ががんばるしかなかった。
社宅の美代子の家は、四階建ての棟が七つ並んだ中の一つにあった。そして、一番端にある三階建ての棟が、『独身寮』という、会社で働く若い男性のための住まいになっている。そこには食堂もお風呂もあり、管理人さんも住んでいた。
社宅の敷地はとても広く、独身寮まではずいぶん遠かった。美代子が息を切らせて管理人室の前に立ったとき、慌てて出て来たおじさんとぶつかりそうになった。
「おや、六号棟の子やな。えらい急いでどないしたんや」
「お母ちゃんが熱で、織田先生に電話頼まれたんです」
「そら、えらいことや。自分で電話できるか? おっちゃんな、二階の部屋の水道が止まらんで水浸しなんやと。すぐ行かなあかんのや。これに乗って電話しいや」
管理人のおじさんは、木のふみ台を置きながらそう言うと、両手いっぱいに何か大工さんみたいな道具を抱えて大急ぎで出て行ってしまった。
玄関脇の少し高い台には、ノートと鉛筆、そして黒い電話が置いてあった。美代子は、頭がくらくらした。電話なんか掛けたことがなかったのだ。走って来た汗とドキドキの汗で背中が冷たい。
(お母ちゃんがえらいことやもん、電話せんと)
こわごわ靴を脱いで踏み台に上がり、電話の横にしわくちゃになったチラシの裏を広げた。お母さんが走り書きした数字が涙でぼやける。ぐっと袖でぬぐうと数字を睨んだ。
「3-5487」
前にお母さんがかけているのを思い出して受話器を持つと、ずっしりと重い。それを耳に当てたとたんジージーと気持ちの悪い音がした。
ピカピカの黒い電話の前には、一番下に⓪があり、ぐるっと丸く⑨⑧⑦から①まで並んでいる。お化けみたいな怖い顔に見えた。
「3―5487」
美代子は震える声で読み上げる。右手の人差し指を下の丸い⓪に入れる。③のところでパッと放す。それからまた⓪に人差し指を入れ⑤までくるとパッと放す。④⑧⑦と繰り返した。でも繋がらない。
織田医院は、よく美代子が診てもらう先生で、扁桃腺をはらすと注射をしにくるから大嫌いだけれど、なんとかつながってほしい。もう一度同じことを繰り返した。
(番号ちごてんのやろか)
もう一度やってみる。左手がどんどん重くなり、右手の人差し指も痛くなる。じわっとにじんでいた涙が、どんどんたまってポトッと落ちた。二階では物音や声がしているが、周りを見渡しても誰も通らない。黒い電話がプンプン怒って、光りながら美代子にとびかかってきそうだ。
「帰りたい。でもお母ちゃんが」
泣きながら小さな声を出して、もう一度やってみた。
そこへ、管理人のおじさんが戻って来た。
「えっ、まだおったんか? 電話できひんかったんか。ごめんな。おっちゃんがしたろ」
そう言うと、ささっと電話をかけ、往診を頼んでくれた。
「ほらもう大丈夫やで。家に帰ってお母ちゃん塩梅ようしたりや」
美代子が十円玉を渡そうとすると、
「この帳面に名前書いてたら、社宅の人はお金はいらんのや。おっちゃんが書いとくからな」
うなずきながら黒い電話を見ると、今度はだまって泣いてるみたいだった。
お礼も言わずに飛び出した美代子は、また走って帰った。美代子の帰りがあまりに遅いので心配していたお母さんが、ほっと安堵のため息をついた。
美代子は洗面器に水を入れ、タオルをしぼると、ぎこちなくお母さんのおでこに置いた。すぐぬるくなるので、何度もたたみ直して置く。お母さんは、かすれた声で言った。
「ありがとう。ごめんね」
夕方、先生と看護婦さんが来てくださり、注射をした。いつもの美代子と一緒だ。先生は
「美代子ちゃんが電話してくれたんやなあ。一人でえらかった、えらかった。お母ちゃん心配ないよ、すぐに熱下がるからな」
体温計の水銀をを元に戻すためサッサと振りながらそう言った。それから、ニコっとして、美代子の頭をなでて帰って行った。
(いつも注射して嫌いやけど、ほんまはやさしいな)
美代子も心がほわっとした。お母さんは安心して目を閉じている。
日が暮れてから、お兄ちゃんが自転車に乗って薬を取りに行き、お父さんも氷を買いに行った。氷枕を当てたお母さんが、そっと言った。
「あー、気持ちええ。みんなありがとう」
織田先生のスクーターが停まっていたので、下の階のおばちゃんが心配して来てくれた。
「美代子ちゃんがまた熱出したんかとおもたらお母ちゃんかいな。えらいこっちゃ、おかいさん炊いて来るからね」
しばらくして持ってきてくれたお粥を、お母さんは少し食べ、寝間着を着替えると、うとうと眠ってしまった。その頃には、すっかり普通の顔色になっていた。
遅くなった夕食は、三人でそっと食べた。お父さんが炊いたご飯に卵をかけて、ポールウインナーを一本ずつ丸かじりした。美代子は一度やってみたかったのだ。いつもはお母さんが切って、サラダに入れたりするだけだったから。
あれから美代子も電話が何故かからなったか、逆にダイヤルを回していたからだと分かったけれど、思い出すたびに体中がカーっと熱くなるので、ずっとずっとヒミツなのだ。
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