マッチ箱のウンチ

はまだかよこ

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マッチ箱のウンチ

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 美弥子は、玄関のドアを開けた。五月のまぶしい光が空から降ってきて、ふわーっと息を吸い込んだ。
「なんていいお天気」
 うきうきとつぶやきながら、郵便受けをのぞくと、ダイレクトメールに交じって封書が見える。先日郵送した『大腸がん検査』の結果だろう。急ぎ足でリビングにもどると封を切った。幸い『異常なし』で肩の力を抜く。七十を過ぎた体は、あちこちガタピシ音をたて、要注意なのだ。ちょっとうれしくなり、窓に向かって
「なんていいお天気」
 もう一度小さく言ってみる。
「それにしても、まあ便利な時代になったものね。昔の検便は大変だったなあ」
 ソファーにどっしりと座った美弥子は、あの検便の日を思い出していた。


 昭和三十年の頃、大半の小学生の体には寄生虫がいるということで、毎年検便があった。
 あの日、四年生の美弥子はうつむいて学校へ向かっていた。五月の空は晴れ渡っていたし、登校班のみんなは元気いっぱいだったけれど。
「やめてよ、マサ君、振り回さないで」
 検便の日の朝は、いたずら坊主たちのテンションが高い。たいていのマッチ箱は、新聞紙で包まれひもがかかっている。お互いのマッチ箱をぶつけあったり、女の子の顔の前でブラブラさせたりして、騒ぎまわるのだ。
 朝、美弥子は、その日に限って便が出なかった。何度もトイレに入って、顔を真っ赤にしたけれど、だめだった。六年生の兄がトイレのドアをたたいた。
「こら、美弥子、代われ」
「あかん、まだや」
「お母ちゃん、なんとかして」
 兄の悲鳴に、母がトイレのドアをたたいた。
「美弥子、いっぺん出てらっしゃい。お兄ちゃんが困ってる」
 トイレから出た美弥子は泣きじゃくった。
「うわーん、どないしょう。先生に怒られる」
「そんな、宿題サボってたわけじゃなし。怒られないよ。明日持って行けばいいでしょ」
「あかーん、恥ずかしい。一人だけ保健室へ持って行かなあかんのよ。うわーん」
 美弥子が泣きさけんでいる間に、母は、新聞紙の上にある兄の便をマッチ箱に入れて包んでいる。
「いややあ。学校休む―」
「なにあほなこと言ってるの。さあ、どいて。お兄ちゃんのを片付けないと」
「もう一回トイレ入る」
 母は、兄の便を新聞紙の上に乗せたままトイレの隅に置くと、忙しそうに洗濯機をまわしはじめた。
トイレのドアを閉めた美弥子は、顔をしかめて隅に置いてあるものをにらみつけた。
「もうしゃーない」
 兄の便を割りばしではさむと自分のマッチ箱に入れた。胸がドキドキして、頭からはグワーンゴワンという音がひびいてきた。トイレから飛び出すと、
「お母ちゃん、出た」
「あら、よかったね。用意するからちょっと待って。はよせんと遅れるわ」
「自分でやった。お兄ちゃんのも捨てといた」
「えー、すごいなあ」
「行ってきます」
 驚いている母に見つからないように、玄関から走り出た。そして、大急ぎで登校班の集合場所に向かったのだった。学校までの道を、美弥子はマッチ箱を手にとぼとぼ歩いた。班長のお兄ちゃんが
「こら、美弥子、はよ歩け」
 そう言って怒ったけれど、美弥子はそれどころではなかった。
(どないしょ、忘れとった。もしもお兄ちゃんに回虫おったら、あの『マクリ』飲まんとあかん。うわ、どないしょ、いやや、どないしょ)
 二年生の時に飲まされた『マクリ』は思い出しただけで、もどしそうになる。
 検便の結果、回虫がいるとされた者は『マクリ』という虫下しを飲まされる。それは、意地悪な魔女が作ったとしか思えないものだった。水飲み場に並んだ悲壮な顔をした子どもたち。その手のボコボコのアルミカップに、先生たちが、大きなやかんからたっぷりと注ぎ入れるのは、どろっと生ぬるい茶色の液体。その匂いで鼻がもげそうになる。
(ちょっとこぼしとこ)
 必死で悪智恵を働かせたのに、美弥子のカップは、すぐに継ぎ足されてよけい多くなってしまった。苦手な給食の脱脂粉乳は息を止めて飲んだ後、パンをほうりこむとなんとか息ができるようになるけれど、『マクリ』はそれもできない。涙がにじんだ目で、それをながめていると、後ろに並んだ子に背中をつつかれた。泣きながら、オエオエという声と一緒に流し込んだ。
(お兄ちゃんのウンチに虫がおったら、あの『マクリ!』どないしょう。お兄ちゃんは虫がおったら、自分のことやもん飲んだらええけど、私はなんも、なんも)
 今更どうしようもない。美弥子は、そのまま道端に倒れたくなった。
 教室でもマッチ箱を振り回すバカ男子が騒いでいたけれど、いつもとはちがって、美弥子はただじっとうつむいて座っていた。
 先生が教室に入って来た。
「おはよう、検便は持って来たか。ひもや紙をはがして、マッチ箱だけを出席順に出すように」
 先生は、ブリキのチリトリ二つに新聞紙を敷くと、
「ここへ男女別に置くこと」
出席簿を手にそう言った。もうこうなっては仕方がない。美弥子は、おどおどしながらもチリトリの上に並べた。持って来なかった子が二人、
「明日は必ず保健室に持って行くんだぞ」
 そう言われて、しょんぼりしていた。
「では保健係り、これを保健室まで」
 その声を聞いた美弥子は、めまいがした。
「えっ、それって日直とちがうの? 去年までそうやったのに。保健係りて、わたしやん。けがした子を保健室へ連れて行ったげたり、毎週衛生検査して、なかなかええ仕事やと、立候補してなったのに」
 でも、文句を言うこともできず、もう一人の保健係りと、チリトリを一つずつ手に取った。ムアアっと匂ってくる。仲良しの友だちが
(うわあ、かわいそう)
 そういう視線を送ってきた。
 もう一時間目の授業が始まっていて、ひんやりとした静かな廊下へと出た。美弥子たちの教室は、木造校舎の二階のはしにあり、保健室ははるかに遠い一階の反対のはしにある。階段をそろそろ下りた。もう一人はさっさと行ってしまったけれど、美弥子は元気がでない。その上、できるだけ腕を伸ばして持っていたからか手が傾いて、チリトリに敷いていた新聞紙がずるっと落ちてしまった。
「あっ、あー」
 小さく悲鳴をあげた美弥子の目に映ったのは、階段の下まで散らばった二十一個のマッチ箱だった。
(兄ちゃんの検便ののろいや)
 美弥子は泣くこともできず、素手でのろのろとマッチ箱を拾ってチリトリに並べた。なんだかぬるっとしているものも多い。誰か助けてくれないかと思ったが、奇跡は起こらない。
 この間本で読んだ『絶望』という言葉は、これなんだと脳がゆれた。できるだけ息をしないようにがまんしていたけれど、勝手に目からぽたぽた涙がこぼれ落ちた。なんとか保健室の前の廊下に新聞紙を並べた後、水道を勢いよく流し、手にせっけんをこすりつけて何度も何度も洗った。けれど、体中に便の匂いがこもっている気がした。

 一週間後、兄の検便は『異常なし』ということが分かった。
「よかったなあ、よかった! 」
 ひどく喜ぶ美弥子を不思議そうに見ていた兄だったが、笑いながら言った。
「おれのクラスでな、犬のフンを検便に出したやつがおってん。『人類には考えられない寄生虫ばかりだ』と注意されたんやて。先生がたずねたら、そいつ白状してな。えらい怒られたんや。あんなこわい先生初めて見た」
 横で聞いてた母が
「まあ、そんなあほな子がおるんやねえ。大体自分のと違う便を持って行ってどうするの。自分の体を調べてもらわんとあかんのに」
 そうおかしそうに笑いながら、目だけはするどく美弥子をにらんだ。
(あっ、ばれてた)
 美弥子の背中にひとすじ冷たい汗が流れた。
 それ以後高校卒業まで、保健委員だけは絶対やらなかった美弥子だった。


 ソファーに背中を預けたまま、美弥子はくすっと思い出し笑いをした。それから、ちょっと痛む腰をなでながら窓を開けた。あの日と同じように緑を増した若葉がゆれていた。
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