はまだかよこ

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前編 阿成の霜

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 昭和十九年(1944年)六月三十日、久子が生まれて初めて乗ったハイヤーは、磯の香りが窓から入ってくるでこぼこ道を進んでいた。戦争で物資がない時、花嫁衣装は用意できなかったけれど、嫁いだ姉に色留袖を送ってもらい何とか支度を整えた。  
 汽車を乗り継いで街中の仲人さんの家で一泊し、そこで着付けてもらって出てきたのだ。父親と、里帰りしてくれた姉、そして仲人の男性が乗った車が続いていた。今から向かう夫となる人の待つ家は、この辺りでは大金持ちとして名高いという。よくある『仲人口』とは思うものの、山里で育ち、二十六歳になるまで、母の亡くなった農家で、弟や妹の世話、家事に追われていた久子は、
「街へお嫁にいったら毎日映画が見られる」
 などと、たわいもないことを考えていた。近隣からの縁談は色々あったけれど、久子は農家は嫌いで、すべて断ってきた。家でも農作業はしたことがない。
 その仲人さんの口から
「ちょっと体が弱いんだけどね、今は丈夫な男の人なんていませんよ。兵隊に取られないから安心。ご大家だし。うちの娘を嫁がせたいくらいですよ」
 などと言われ、父親もその気になった。

 はっきりと分からないが、その家のことは古い書物の記録に残っているそうだ。
 江戸時代の元禄の頃(千七百年頃)鹿児島薩摩藩の浪士濵田庄助が大阪堺の港を目指して船を出した。しかし、途中難破し、姫路飾磨(しかま)の辺り、阿成(あなせ)村に居住した。これが始祖。その後この地で財を築いてきた。三代目庄助が藩の奨励もあり、新田開発に乗り出した。その地は今も『庄助新田』と呼ばれている。その後、付近沿岸一帯の漁獲権を獲得して魚問屋を開いた。『鯔屋(いなや)』という屋号で、主に大阪へ船で売り出し、大いに栄えた。徳川吉宗が将軍だった頃である。
 その後六代目庄助が当主のとき、姫路藩家老の河合(かわい)寸(すん)翁(のう)の勧めにより大規模な新田開発に乗り出した。今は『相生新田』と呼ばれている広い地域である。また、市川沿岸に櫨(はぜ)を植林し、果実から蝋を採取し、それを一手に販売した。亡くなったのは幕末の頃である。
 時代が進んでもこの地に根を張り、『阿成の旦那さん』として、親類縁者も大きな屋敷を構えていた。
 
 久子はそんなことをほとんど知らなかったが、嫁ぐ家は良質の『姫路木綿』を織る工場を経営していると聞いていた。
 梅雨の中休み、空は晴れていたが、ハイヤーの開けた窓からは湿気を帯びた風が吹き込んで、角隠しが乱れないか気がかりだった。隣に座る仲人の奥さんは、
「花婿さんの庄一さんが生まれはったときには打ち上げ花火が上がったそうですよ。えらいもんやねえ。小学校へも人力車で通わはったとか。女中さんがついて」
久子はうつむいたままうなずいた。母方の遠縁にあたるという仲人の奥さんは、話し続ける。
「お母さんは一番下のお子が生まれた時亡くなってしまわれてねえ。庄一さんの弟さんは、学徒出陣で名誉の戦死をされました」
 その時だけ 神妙な顔をして手を合わせた。話は続く。
「妹さんが三人いてはりますが、一人は高砂に嫁がれ、一人はうちのわりと近く、大きなお家に嫁いでおられます。下の妹さんは、そこから女学校へ通てはって。今は、お父さんの庄之助さんと庄一さんだけが暮らしてはります。久子さん、お気楽でよろしいで。今は、ちょっと家も傾いてるということやけど、まあこの戦争でどっこも大変や。また持ち直してですわ」
 久子は、そういうものかなあと小さくうなずいた。久子の家も、母親が一番下の弟の死産のときに自分も命を落とした。姉はすでに嫁いでおり、高等小学校を卒業した久子が主婦替わりを努めなければならなかった。そうして婚期を逸してしまったのだ。奥さんはここぞとばかりに話し続ける。
「なにしろ、酒井の殿様から同じ御紋を頂いておられるんですよ。たいしたことですわ」
 久子は、
「紋でお腹がふくれるわけもないのに」
 そう思ったけれど、だまって小さくうなずいた。
 やっと、めざす家に着いた。流石に大きな門構えだが、庭の手入れは行き届いていないように見えた。
 仲人さんは
「そしたらまず、ご先祖様へのご挨拶を。さあ、久子さん、仏間へ」
 久子は驚いた。家は広いが、調度品が何も置かれていない。そして、仏間に入ったとき、仲人さんの顔がこわばった。
「えっ、あのう」
 案内してきた舅になる人が、上品に腰をかがめると、
「申し訳ありません。修理に出していて、間に合いませんでした」
 あまりのことに、久子たちはそそくさと仏間を出た。手を合わせるものがないのでは仕方がない。
 何も置かれていない床の間を背に、三々九度を交わしたが、喜びのないひっそりとした結婚式だった。付いてきた父親も渋面をつくっていた。
 翌日起きると、夫も舅もそそくさと出かけてしまった。しかたなく、久子は、父と姉を私鉄の小さな駅まで送った。なんか腹立たしいことばかりで、三人ともむっつり黙っていた。帰ってきた久子は、それでも掃除をしなければと、モンペに着替えた。ふすまを開けても開けても、座敷が続く。
「一体、いくつ部屋あるんだろ」
 ふすまには山水画が描かれ、たくさんの欄間の彫刻も手彫りらしく精巧なものだ。
 一つの部屋に、久子の嫁入り道具の長持ちがぽつんと置かれていた。戦争が激しくなり、物がなくて、用意するのに四苦八苦したものだ。
茶室もあったが、茶碗一つとしてなく、水屋もからっぽであった。

  問い正したいが、それもできずに一週間が経った。
「ごめん」
 そう言って一人の男が玄関に立った。久子が出て行くと、
「あんた、ここへ嫁に来た人か。何にも知らんと来たんか?」
 久子が、きょとんとして突っ立っていると、
「この家は借金まみれや。そう言うわしは、借金取りや。この家で嫁取りがあったと聞いて、血も涙もあるわしは、ちょっと待ってやってたんや。いつまでもというわけにはいかん。今日はなんぞもろて帰るで」
 そう言うと、勝手に玄関の間に上がり込んだ。次々とふすまを開けると、こわごわついてきた久子をふりむいた。
「これあんたの道具か。かわいそうやがもろて帰る。わしも仕事やからな」
 久子も、流石にずっと異常を感じていた。家具があまりにもない。食事の支度と思っても、かまどに鍋があるだけ。野菜は家を出れば畑があるからなんとかなったけれど。仕方なく、芋に野菜を混ぜて雑炊だけをつくっていた。     この国がすべて食糧不足であったけれど、それにしても何もなさ過ぎたのだ。
 近くに住む親類の家を訪れた久子が聞きこんできたことは恐ろしい現実であった。
 舅に当たる庄之助は、相場師であった。もちろんお金がどんどん回ってきたこともあったけれど、損失の方が多かった。当時『小豆相場』にはまり、大きな借財をした。工場も田畑も家屋敷も人手に渡った。
「親戚の恥や。この子らに罪はない」
 そう文句を言いながら、本家などが、家と小さな畑だけは買い戻してくれた。
 ところが、それに懲りず庄之助はまた相場で負債を抱えた。
 もう親戚は腹を立て、素知らぬ顔を決めた。
 ただ、次女の嫁ぎ先の山内家の当主、トシが救いの手をさしのべてくれた。その上、三女も引き取って、そこから女学校へ通わせた。
 いくら何でも懲りたと思われたのに、またしても、庄之助は相場でしくじったのだ。もう誰も助けてはくれなかった。そんな家に久子は入って来たのだ。
 三女をトシが引き取ったのも、
「借金取りが出入りする家に若い娘を置いておくわけにはいかない」
 ということだった。

 戦争は激しくなる一方で、秋が過ぎ冬になった。来る日も来る日も、人相の悪い借金取りがやって来る。勝手に上がり込んで自分たちで煮炊きして食事をする。舅はどこへ行ったのか行方が分からない。夫は
「胃が痛い。体がだるい」
 そう言って、ずっと臥せっている。粥を煮ながら、久子は怒りに体を震わせた。子供の時からいつも何をするのも一番だった。勉強も運動もできた。学芸会では主役だったし、みんなが一目置いていた。色白でかわいいと評判だった。ただ女の子にしては大柄だったのが難だった。
「久子さんが歩いたら風が吹く」
 などと言われ、怖いものなど何もなかった。
 悪ガキが悪さをしても
「ふん、あんな小作の子」
 そう思って、相手にならなかった。女学校へはやってもらえなかったけれど、文句はなかった。家でも、姉は嫁ぎ、五人の兄弟の面倒をみる久子は、いつも一番だった。父親までもが嫁にやらずに家事をさせていることで負い目を感じ、気を遣っていた。

 「だまされた」
 脳天を突き抜けるような怒りに、里に帰ろうと決めた。
 しかし、お腹に子どもを宿してしまった。どうしようもなくて、涙がこぼれそうになった。
「泣くもんか」
 生来の負けず嫌いで、歯を食いしばった。そんな暮らしの中、弟が苦労して里から運んでくれる米が何よりありがたかった。
 そして、とうとう、そんな暮らしさえできなくなる日が来た。その年も暮れようとする十二月の末、庄之助、庄一と久子は、リヤカーにわずかな家財道具を積み込んで家を出たのだ。
 三日前、警察官と執達吏(しったつり)という男たちがどかどかと入り込むと、家の中を歩き回り、わずかに残った家具に赤い紙を貼り付けていった。ついに、この家を出なければならなくなった。
 ひとまずお城の東側にある仲人さんのお宅に向かった。リヤカーがあぜ道を進む。
「泣くもんか」
 歯を食いしばる久子の下駄の下は、リヤカーの轍が細々と残った。そこに、月明かりに照らされた霜が光っていた。


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