新月の夜を仰ぐ

wannai

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「あの……、俺は、別に」

 綺麗な人だけれど、触れられるのは嫌だ。
 やんわり手を剥がそうとするのに、意外な事に彼女の握力は強く、痛くないのに指の一本も動かせない。

「抵抗するのがそんなに怖い?」

 ずい、と顔が寄ってこられて、長い睫毛が刺さりそうな気がして上半身を後ろに逃す。
 キラキラした瞳に見つめられて困ってるのに、機嫌を損ねた店長は俺を助ける気は無いみたいで渡された水割りのグラスに口を付けている。

「大丈夫だよ。僕は君を痛めつけたりしない。……ねぇ、触られるのが嫌なら君から僕に触って?」
「え、あ、あの」

 パッ、と離れていった手が、今度は開いた俺の手の上に乗せられた。

「握って」
「……」
「に、ぎ、って」

 強い眼差しに拒否出来ず、言われるがままに彼女の手を握る。
 手の甲はしっとりした感触で、しかし内側は予想外に硬かった。長い指の腹にはいくつもタコが出来ていて、見れば掌は細かい傷だらけだった。
 こんな酒場で働くだけで付く傷ではなさそうだ。
 何の傷だろう、と興味を惹かれてすり傷を撫でると、紫さんが「ふふっ」と笑ったので慌てて手を引っ込めた。

「あ、いいんだよ。なんの傷だか気になる?」

 控えめに頷くと、カウンターに戻っていった紫さんの両手が棚の下から赤い縄を持って戻ってきた。

「……!」
「そ。僕ね、緊縛師なの。縄は好き?」

 こてん、と可愛らしく首を傾げて問われて、少し考えてから小さく首を横に振る。
 何度か店長に縛られたけれど、全身擦り傷になって数日は痛むし、何週間も消えなかったりする。蹴られる方がまだ、その場でだけ痛い分マシだ。

「縛りにくくてかなわないんです。縛られる時のコツを教えてやってもらえませんか」

 グラスを揺らしながら店長が横から口を挟むと、紫さんは眇めた目で彼を睨んだように見えた。

「縛りにくい、ね」

 ちょっと立って、と言われてカウンターの椅子から降りると、紫さんはカウンターの向こうから出てきて客席の俺の方に来た。

「ちょっと触るよ」

 向かい合わせに立った紫さんはやはり、俺より背が高かった。彼女の両手に肩から下がっていくようにトントンと軽く掴むようにされ、困惑しながらも受け入れる。
 横目で店長を見た。
 こちらを見てくれてはいるけれど、いつもの微笑みは無い。

「僕に背中向けて。抱き締めるよ?」
「え……」
「少しぎゅってするだけ。……ああ、緊張しなくていいよ。僕オトコだから」
「……えっ?」

 店長の方を向く俺は後ろから抱き締められ、目を白黒させて口を噤む。
 ふわっと甘くて可愛い匂いがする。確かに胸は平らだったけれど、見た目も声も、完全に可愛い女の子なのに。
 腕を前に、と指示されて従うと、後ろから伸びた彼女の──彼の腕の方が長いのに驚いた。
 また伸ばした腕のあちこちを揉まれてから、彼はすぐ離れていく。

「はい次、後ろ。曲げて。痛かったら言ってね」

 背中に回した腕を曲げて指先で肩甲骨に触れるような姿勢を取らされ、背筋を反らせてどうにか従う。

「す、少し……痛い、です」
「普通に体硬いくらいかな。……特に縛りにくそうな感じはしないんだけど?」

 筋肉無いから反発も少なそうだし、と店長を見ながら、紫さんは俺の背中をマッサージでもするみたいに指圧してくる。
 少しくすぐったいけれど、動いていいと言われてないから腕を後ろに回した姿勢で我慢する。
 紫さんの言葉に、店長が否定するように首を横に振った。

「硬い? いえ、いつもタコみたいにぐにゃぐにゃで……」
「タコ」
「ええ。茹でてない、生のタコ」

 タコ呼ばわりされて困惑する俺を紫さんがもう一度後ろから抱き締めてくる。
 彼が動く度に甘い匂いがしてドキドキする。
 男でもこれだけ可愛ければどうでも良いって人は多いと思う。
 かくいう俺も、こうして至近距離に稀な美しい顔を拝めるのは眼福だと思ってしまっている。

「……縛ってみて、いい?」

 耳元で小さく囁かれて、吐息が耳朶にかかってぞくりとした。
 視線を上げて、店長を見る。黙って頷かれたので、「はい」と返事する。

「いいこだね」

 頭のてっぺんあたりを撫でられ、体が固まった。
 俺が誉められるのが好きなのを悟られたのか、と思ったが、続いて首の付け根を噛まれて拳を握った。

「さっきから、何回も何回も……、いちいち、ご主人様に了解取って。本当に良いわんちゃん。でもね、僕が縛る間は僕の犬になってもらうよ」
「……っ」

 逃げていいか、と店長を見るが、彼は面白そうに目を細めるばかりか首を横に振った。

「て、てん」
「今はプライベートなので、役職で呼ばないで貰えますか」

 テーブルに肘をついて、店長はグラスをゆっくり揺らして中の酒を眺めている。
 通路だと狭いから、と店の端の何も無いスペースに引っ張られていって、少し高くなった場所に立たされると、他の客からの少なくない視線が集まってきた。
 見られるのは居た堪れなく、目を伏せる。

「大丈夫。絶対痛くしないからね」

 心臓の上を優しく叩かれて、そう約束された。可愛らしい声に、諦めて体の力を抜くしかない。
 俺の腕を、脚を、それから胴体を。紫さんは優しく、しかし手早く縛り上げていった。
 縄は布地かと思うような滑らかさで、肌の上を往復されてもそれだけで擦り傷になったりはしない。
 力任せに縛る店長とは全然違う。
 縄が肌を押して、食い込む場所が増える毎に、少しずつ吸える酸素が減っていく。胸いっぱい吸えない。段々苦しくなっていくけれど、息が止まるほどではない。
 身体はどこも痛くないのに、気が付けば指一本すら上手く動かせない。

「大丈夫?」

 首には縄が回ってこないので、自分の意思で動かせるのはもう頭だけだ。
 途中で何度も気遣うように聞かれ、頷いて返す。
 頭がクラクラする。ふわふわして苦しいのに苦しくない。
 店長に縛られた後は全身痛くてしょうがないけれど、この人ならきっとどこも痛くないんだろう。
 なんだろう、これは。これが緊縛なら、今まで店長にされてきたのは一体なんだったのか。
 なんで店長は、わざわざ俺の身体に傷を付けるような麻縄を選んでいたのか。

「紫さん、もうそのくらいでいいでしょう?」

 不意に店長の声がして、沈みそうになっていた意識が急浮上する。
 え、何、俺今寝そうになってた?
 パチパチ瞬きすると、俺の前に店長がしゃがみ込んでいた。
 自分の体を見下ろすと、服は着たままだけれど床に座って大きく脚を開かされるように縛り上げられている。背後から抱き締めてくる紫さんに太腿の危ういところをズボン越しに指でなぞられて、これが裸だったら相当恥ずかしい格好だと動揺する。
 しかも客席の方から面白そうに覗き込んでいる客の一人と目が合って、カッと頰が熱くなった。

「あ、あのっ」

 途中から意識が朦朧としてきて、自分がどんな体勢で縛られているか考える余裕も無かった。
 店長に縛られる時は痛いから起きていられるけれど、紫さんは全く痛くないから。
 体を起こそうにも少し身動ぎしただけで食い込むみたいに縄が締め付けてきて更に息苦しくなる。
 店長が終わりというなら終わりだ。
 早く縄を解いて欲しいのに、俺を抱き締める紫さんはその身体を離してくれない。

「ねぇクラ、この子俺にちょうだい?」
「冗談よして下さいよ。客のパートナーを横取りする気ですか?」
「だってさぁ、この子縛って『縛りにくい』なんて文句が出てくるド素人のところにいるの、勿体無いもん」

 薄ら笑いの店長の眉間に、珍しく皺が寄る。

「それは……紫さんに比べたら、俺は確かにド素人でしょうけど」
「最初控えめに抵抗する感じも可愛いかったけど、縛り出してからがすごくいいね、この子。もう少し筋肉がついてれば見映えがするけど、まあそれはおいおい僕がメニュー作って筋トレさせるし」
「勝手に話を進めないでくれます?」
「これだけ無抵抗に身体を預けてくれる子に文句が出るなら、誰縛っても一生満足出来ないよ、クラ。……ね、クラ捨てて僕のとこにおいで? 痛い事なんてなぁんにもしないよ。君が気持ちいいことだけしてあげるから」

 ね、と囁かれて、店長を見る。
 紫さんに触れられるのは、陽広さんほど嫌じゃない。縛られるのも嫌じゃない。
 だからといって、分かりました、と鞍替え出来る訳もないのに。

「だ、そうですよ?」

 俺の前にしゃがんだ店長は、まるで俺の意思に任せるみたいなことを言う。
 それを聞いて、急に胸が詰まって喉元が熱くなって、内側からせり上がってきたものが涙になって両目から溢れ出した。
 ぼろぼろ、とこぼれ落ちた涙を見て、店長の顔から表情が消える。

「お……っ、俺、は、……っ、て、てん、満さんが、言うから、縛られたのにっ……、な、なん、で、俺、捨てるん……です、か」
「ちょ、……なんですか、急に」

 慌てたような店長の指で涙を拭われて、けれど止まることなく溢れてくる。
 紫さんの手は、嫌じゃないとしても、嬉しくもない。
 俺が触れてもらえて嬉しくなるのは店長だけだ。
 店長の手に撫でられて、店長に誉められなければ満たされない。そう躾けたのは彼なのに、まるでどうでもいいみたいに言われて心臓が握り潰されるみたいに痛む。

「い、痛いの、ちゃんと我慢します……、逃げません、逆らいません、だから」
「馬鹿、落ち着け。おい紫、早く縄解け」

 捨てないで下さい、としゃくりあげて泣く俺の頭を、店長が乱暴に撫でてくる。
 大きな掌に両目を覆うように塞がれて、瞼の中に涙が封じ込められて鼻の方に流れてきた。

「いいか、……いいですか、影間くん。俺は貴方を見捨てません」
「……ほ、ほんと、ですか」
「ええ。貴方がちゃんと俺の忠犬である限りは。貴方が俺以外と何をしようと自由ですから、紫さんの犬になりたいと言うなら止めませんし」
「……」

 しゅるしゅるという音と共に、縄が解かれていく感覚がある。
 腕が動く。すぅと息を大きく吸い込むと、急激に増えた酸素に肺がびっくりしたのか咳き込んだ。
 俺の目の上から退いた店長の手が、ゲホゲホと咳する俺の喉元に下りて撫でてくれる。

「絹田くんと付き合おうが、紫さんの犬になろうが、俺が貴方の一番のご主人様である事を忘れなければ、自由にしていいんですよ」
「……すごい自信」

 紫さんは店長の言葉を聞いて、肩を竦めて呆れたようだった。
 つまり、体の浮気は許すけど本気の心変わりは許さない、的な感じだろうか。捨てられて二度と店長に触れて貰えない訳じゃないのならどんな意味でも構わない。

「俺は、店……満さんじゃなきゃだめなので」

 紫さんは可愛いけれど、だからといって俺の意思で自由にしていいのなら……触れて欲しいとは思わない。それをそのまま言葉にして、涙を喉の奥に飲み込んだ。
 完全に縄を解かれて腕を摩るが、やはり痛みは残っていなかった。袖を少し捲って縄跡の残り具合を確かめると、少し赤みがある程度で、明日の朝には消えていそうだ。
 袖で顔を拭くと、白い布地が少し濃く色を変えた。

「すみません紫さん、今日は出直します」
「クラが素出してんの久々に見た」
「客として来るなら馴れ馴れしくするなと言ったのは貴方でしょう」
「あ~ハイハイ。クラもやっと愛の大切さに目覚めたんだね~、紫ちゃん嬉しい」
「……うぜ」

 早く会計、と紫さんにせっついて店長が出口の方へ向かうので、慌てて俺もその後を追い掛ける。
 口を付けてもいない酒の料金を取られるのは少し勿体無いけれど、長居したい訳でもないので俺も財布を出した。
 が、「先に出ていて下さい」と店長に追い払われてしまったので、とぼとぼと一人で店の扉を開けて外階段を降りた。
 店に来てからまだ三十分ほどしか経っておらず、しかし外はもう夜の帳が下りていた。
 店長は今夜はここで過ごすつもりだったんだろうに、俺が泣き出すような見苦しい真似をした所為で帰らなくてはならなくなったのだ。怒っているんだろう。
 肩を落として駅までの道を歩き、電車に乗った。
 来る時は外出すると聞いて気が重かったが、まさかそれ以上に気落ちして帰宅することになるとは思わなかった。
 制服やスーツ姿で混み合う電車内でスマホを開いて時刻を確認すると、まだ十九時前だった。
 家の最寄り駅で降りて、帰路につく。
 夕食時の駅前は人が多く、いつもなら人目を嫌って早足で抜けるのだけど、今日に限ってはその気力が湧かなかった。
 俯いたまま足を引き摺るように歩く。すれ違う人にあからさまに邪魔そうにされるのもどうでも良いくらい、とにかく気落ちしてどうにもならなかった。

「はぁ……」

 溜め息と一緒に、この淀んだ気持ちも外に出てしまえばいいのに。
 人前で泣いた事より、それで店長の気分を害した事の方が辛い。
 それに、それよりもっと凹むことまで聞いてしまった。
 紫さんは店長を指して『何人も毒牙にかけた』と言っていた。
 つまり、店長にとって俺は、何人も居る中の一人にしか過ぎないのだ。俺にとって店長がたった一人の特別だとしても、彼にとっては遊ぶ犬の一匹でしかない。
 心臓が痛い。
 鳩尾の奥が苦しくて、息苦しさから逃げるみたいに俯いて歩いた。
 家に帰り着いた時はほっとして、なのにドアの鍵を開けようとしてキーホルダーにぶら下がった店長の家の鍵が目に入ってまた唇を噛む。

「疲れた……」

 食欲も無いし、もう寝てしまおう。
 そう思ってそのままベッドに倒れ込んだ。
 ざらつくリネンの感触と、馴染んだ匂いに安心する。ここは俺だけの空間で、俺以外の誰かに責められたり嫌われたりしない場所。だって俺の他は誰も居ないから。
 すぅ、と大きく一呼吸しただけで、意識が沈んでいく心地がする。明日は午後から出勤だから、ギリギリまで寝ていよう……。
 微睡から本格的に眠りに落ちかけたタイミングで、ガン! という大きな金属音に驚いて跳ね起きた。
 ドキドキする心臓を押さえて音のしただろう方を見ると、もう一度、同じ音が鳴り響く。
 俺の家のドアを、誰かが外から叩く、もしくは蹴っている。
 音が鳴ったのはうちのドアで間違いない。だって、振動が部屋の中にまで響いてきている。でも、何故蹴る必要があるのか。
 用があるならインターホンを鳴らせばいい。当然付いているそれを無視してドアを叩く人なんて、ひたすらに恐ろしい。
 居留守をするべきだ、と瞬時に判断して、でもどんな人なのか人相だけでも確認しておこうと、足音を立てないようそっと玄関ドアに近付いて覗き窓から外を見たのだが。

「……店長?」

 小さな丸窓から見えた店長の姿に、慌ててドアの鍵を開けた。
 何か忘れ物でもしてしまっていただろうか。持ってきてくれたのだとしたら、手間を掛けてしまったのも重ねて謝らないといけない。

「あの」
「入れろ」

 開いた隙間に真っ先に靴の爪先を捻じ込んできた店長がそのまま強引にドアを引っ張るので、ノブが手から離れてしまった。
 勝手に開けて入ってきた店長は、後ろ手で素早くドアを閉めると、おろおろする俺の顎を下から鷲掴みにして前後に揺さ振ってくる。

「お前、何勝手に帰ってんの」
「え、だって、先に帰れって……」
「言ってねぇよ。先に出てろ、って言ったの。意味違うだろ、ちゃんと聞いとけ。店出たら居ねーから驚いただろ馬鹿が。こっからまた戻って俺の家行くとか完全に二度手間だっつぅの」
「え、あ、す……すいません」

 ぐらぐらする視界に少し気持ち悪くなった頃、やっと開放された。
 蹴られなかっただけ割とマシだ。

「……つーか、すげー雑然としてんな」
「こっ、これは、その」

 じろりと俺の部屋を見回した店長にそう言われて、恥ずかしくなってその視線を遮りたくてばたばたと腕を振る。
 棚とかチェストみたいな大物家具を買いに行くのすら人嫌いで敬遠してきたので、持ち物のほとんどが床に直置きされているのだ。
 持ち物の総数は少ない方だと思うけれど、ワンルームなのでそれら全てが玄関から見えてしまっている状態で、改めて考えると相当恥ずかしい。

「あ、あんまり……見ないで下さい」
「これ、客来る時どうやって隠してんの?」
「……来ないので。あ、あの、最近掃除もろくにしてないので、上がらないで……」

 止めるのも聞かず店長は靴を脱いで部屋の中へ上がり込んでしまって、さっきまで俺が横になっていたベッドに腰を下ろして俺を見る。

「絹田も?」
「絶対呼ばないです」

 陽広さんとか、家を教えたら押しかけそうで怖い。絶対嫌だ。
 首を真横に振って顔を顰めたら、掌を上に向けてちょいちょいと手招きされた。

「……え」

 店長のニヤつく表情に、嫌な予感がする。
 それでも俺が大人しく彼の前に膝をつくと、すぐに頭に手が乗って髪を掴んで引っ張ってきた。

「俺の機嫌取りたいだろ?」

 そりゃそうだ。
 ここですれば機嫌を直してくれるというならやぶさかではない。
 早速デニムの股間のボタンを外してジッパーを下ろすと、手首を掴まれて店長の目線あたりまで持ち上げられる。

「手は使わない方が良いですか?」
「……そうだな」

 俺の腕をしげしげと眺めていた店長が肯定するので、離された腕は店長の太腿の上に置かせてもらって、顔を股間に擦りつけた。
 鼻と頰で感触を確かめると、まだそこは柔らかかった。手を使えば今すぐ下着を下ろして柔らかい陰茎を口に含めるけれど、今日は駄目だと言われてしまったので我慢だ。
 涎をつけないように気をつけながら下着の上から唇でやわやわと刺激する。
 少し硬さの出てきた下着の中の肉の先端のあたりを唇で噛んでいたら、前髪を撫でられた。

「咥えてぇか?」

 問われて、目を輝かせて頷いた。
 分かってくれて嬉しい。
 店長が自分で下着をズラして中から出してくれた肉茎に大口開けてかぶり付くと、彼は笑って俺の頭を叩いた。

「おい、食うなよ」
「んん」

 嬉しくて溢れてくる唾液を絡め、舌で茎を舐め回す。
 口の中にいてくれるのは勃起するまでの僅かしかないから、それまでを堪能しようとしたのに、たった数秒でムクムクと成長してしまった。
 顎が外れそうになりながらなんとか頭を逃して、残念な気持ちを堪えて亀頭に吸いついた。
 頭上で溜め息が聞こえて、慌てて舌を茎に這わせた。
 これは店長への謝罪行為なんだった。
 自分がしたい事をするべきじゃなかった、と反省して、玉を舌でつついて唇で優しく吸う。丁寧に、絶対に歯を当てないように。
 舌と唇の愛撫だけでは、強い刺激を与えるのは無理だ。だから、追い上げるまでにかなり時間がかかる。焦らずひたすら続ける。
 舐めて吸ってを繰り返していると、酷使し過ぎて痺れてくる。
 次第に頭もぼんやりしてきて、自分が何をしてるのかも分からなくなってくるけれど、それでも舌は動かし続けた。
 くいくい、と前髪を引かれて、先端に強く吸い付いた。手を使う時は最後まで優しくするのだけど、口だけの時は、じゅううぅ、と大きな音がするくらい強く吸わないと導けない。

「……っ」

 口の中にえぐみのある粘液が吐かれた後、店長の細く長い溜め息が続いた。ごくん、と飲み干してから、この前された口の中を指で弄られるのを思い出して少し勿体無くなった。今度またやってもらおう。

「お前ほんと、俺のこと好きだよなぁ」
「……」

 わしゃわしゃ頭を撫でられて、黙って肩を竦めた。

「照れんなよ。……ベッド上がれ、キスしていいぞ」

 冗談をわざわざ否定するのも面倒くさいので返事をしなかったが、続く言葉に店長に飛び付いた。
 店長をベッドに押し倒してから、ここが自分の部屋だったのを思い出す。
 俺の布団に、店長の匂いがつく。
 寝る時に店長の匂いがするのを想像してぞくぞくした。
 店長の腰の上に乗り上げ、彼の肩に手を置いて覆い被さるようにして唇を合わせる。店長の唇は触れた瞬間は表面が硬くて、でも舐めればすぐに柔らかくなる。少し酒の匂いのする唾液を吸わせてもらって、何度も飲んだ。
 舌同士が触れると背筋が甘く痺れる。生きてる人間の体温を直に吸っているみたいでもっと奥まで入れたくなる。
 店長にされるみたいに彼の上顎を舐めたいのだけれど、頑張って舌を伸ばしても前歯の裏を舐めるのが精一杯だ。店長の舌が長いのか、俺の舌が短いのか。
 店長の頭を抱え込んで、唾液の一滴も溢れないように唇を合わせて彼を貪る。
 口の中を舐め回して、彼の舌をつついて唾液をせがんだ。
 夢中になる俺の背中を店長が撫でてくれていて、俺の勝手を許してくれているみたいでたまらなく嬉しい。

「てんちょ……、ありがとう、ございます」

 止められなければ一晩中でもキスしていられると思う。だからこそ、自分でやめ時を決めなければ、と我慢して体を起こした。

「もういいのか?」

 まだまだしたいけれど、曖昧に頷く。
 機嫌を直してもらったのに、わざわざまた怒らせたくはない。しつこいと思われて、今後キスが禁止になったら最悪だ。

「頑張ったな」

 俺を上に乗せたまま上半身を起こした店長に抱き締めて頭を撫でられ、間近にある顔に微笑まれて戸惑った。

「……あの、もうご褒美貰いましたよ」
「されたくねぇの?」
「いや、そりゃ……してもらえるなら嬉しいですけど」
「だったら黙って抱き着いてろ」

 だったら遠慮なく、と店長を抱き締める。
 硬い体は暖かくて、そして店長の匂いがする。
 落ち着く。肩口に顔を埋めて深呼吸して堪能する俺の後頭部を撫でて、店長は殊更優しい声で俺を誉めてくれる。

「しゃぶってる時のお前の顔、すげー可愛い。小せぇ舌で一生懸命舐めてんの見下ろすのもたまんねぇ。一回出して満足出来んの、お前だけだぞ」

 途中まで幸せな気分だったのに、急に落とされた。
 ああ、つまり、俺以外にも咥えてくれる人が居るんですね。そしてその人には一回どころじゃなく何回も咥えさせてるんですね。
 鳩尾の辺りが痛くなって、店長から体を離した。

「どうした?」
「……すいません、トイレ」

 誤魔化して離れ、トイレと同室になったバスルームに逃げ込む。もやもやと疼く腹を両腕で抱えて、身を縮こませた。
 なんだろう、この感じ。見知らぬ誰かと店長の陰茎で間接キスしている事への拒絶反応だろうか。女の人ならまだしも、俺に手を出している店長なら男の可能性は低くない。男と間接キス……気持ち悪い。
 想像して溜め息を吐いていると、玄関のドアがガチャンと閉まった音がした。
 帰ってしまったのか、とそろりとバスルームから出て玄関の方へ行くと、扉越しに外から店長の声が聞こえてきた。

「だから、まだだって言ってんだろ」

 珍しく、素のまま会話している。驚きつつ、いけないとは思うのに耳を澄ましてしまう。

「……分かったって。すぐ仕上げっから、店には来んなよ。お前明らかにスジモンなんだから、従業員がビビる」

 スジモン? 何かのモンスターに似ているのだろうか。親しい人から頼まれた仕事の進捗を問われているらしいと解釈して、ベッドの方に戻った。
 素を出せる友人も、俺以外の犬も。店長には沢山居る。
 俺には店長だけなのに、と思ってから、ふと中学の頃を思い出した。同じような事があった。俺は親友だと思っていたけれど、相手からすれば俺は友人の一人……いや、知り合いの一人でしかなかった。
 寂しい思い出の一つだけれど、それを知った時は今ほど胸の潰れそうな気持ちにはならなかった。むしろ、まあそうだろうなと諦めがついたくらいだ。今はあの時より孤独が強まっているから、こんなやりきれない気持ちになるのだろうか。
 俺が店長にとって特別ではないのは、店長のせいじゃない。
 だから怒ったり拗ねたりするのはお角違いだ。やっちゃいけない。
 さっきみたいに「捨てないで」なんて泣くのは論外だ。
 自分に言い聞かせていると、電話の終わった店長がドアを開けて部屋の中に戻ってきた。

「急ぎの仕事入ったから帰るわ」

 素直に頷いた俺に向かって、店長は当然みたいに腕を広げてくる。
 嬉しい筈なのにどうしてか抱き着きたい気分になれなくて、その場から動けなかった。

「拗ねんなよ」
「……拗ねてないです」
「今逃したら三ヶ月くらい出来ねぇぞ?」
「え」

 そんなに忙しくなるのか。
 果たして耐えられるだろうか、と困惑する俺を「早よ来い」と呼び付けて、それでも俺が動かないと見ると店長はわざわざ靴を脱いで戻ってきた。
 蹴られる、と身構えたのに、店長はただ俺を抱き締めた。俺の背中をポンポンと叩き、つむじあたりにキスまでしてくれる。

「しばらく構ってる時間がとれねぇ。浮気は好きにしろ、別に怒らねぇから」

 相手が居ないのを分かっていてそれを言うか、と奥歯を噛む。今拗ねたい気分だ。

「いいか、拗ねんなよ。いい子で待てるよな?」

 返事の代わりに、ぎゅうっと強く抱き締めた。
 きっとちょうど良かったんだ。少し離れればきっと、このモヤモヤも落ち着く。
 店長の匂いを強く嗅いで、その時はただそう思っていた。

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