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1巻
1-2
それより、大事なことを聞いていなかった。
「あ、あの! そもそも、ここはいったいどこなの?」
先ほどから、自分の口から出た言葉が、不思議な音に変換されている。
ピアス型の翻訳機による現象なのだろうけど、そんな便利なもの、聞いたことがない。
目の前の人たちだって、悪い人じゃなさそうなのに、いまだ警察を呼ぶそぶりすらない。どう考えてもおかしいだろう。
「ここはどこなの? 私は日本に、家族のもとに早く帰りたいの」
「ニホン……」
「もしかして私が日本人っぽくないから、疑っているの?」
私の髪や瞳は、日本人らしくない淡い色だ。その外見が、ずっとコンプレックスだった。
私は唇を噛みながら、黒髪の彼を睨む。西洋人そのものの顔立ちなのに、真っ黒な髪と瞳を持つ青年。私が欲しくて仕方がなかった色が、目の前にある。
私怨にとらわれた私に、彼は予想外の言葉を放つ。
「残念だが、この世界にニホンなどという国は存在しない」
「は…………?」
私は気の抜けた声を漏らす。彼は説き伏せるように、ゆっくりと言った。
「ここはアンレジッド王国。ニホンという国とは、異なる世界にある国だ」
「異なる、世界?」
何を言い出すのかと思えば、違う世界ですって?
私は周囲を見回してから、もう一度黒髪の彼を見据える。
「笑えない冗談に付き合う余裕は、ないんだけど」
「冗談ではない」
「うそ! やるなら徹底して。第一、この部屋にある完璧に揃えた英国式アンティーク家具は、なんだって言うの? どう考えたって、異なる世界の訳がないじゃない!」
「わが国の海には、時おり嵐のあとに異世界からの漂流物が流れ着く。この部屋にはそういったものやそれらを模した家具が揃えられている。決してうそは言っていない。それで……異世界からはこういったものだけでなく、人が流れ着くこともある。アオイ、お前のように」
淡々と放たれた信じがたい言葉に、私は顔を引きつらせる。
「はは、何言ってるの? 意味わかんない。……ねえ、電話を貸して。あなたがここの責任者でしょう?」
「デンワ? なんだそれは」
「ふざけないで。ねえ、今頃父が私を探しているわ。お願いだから連絡を取らせて。私を帰して!」
「帰還は困難だ」
「困難?」
先ほどから訳のわからないこと続きで、私の怒りは頂点に達した。
「どんな意図があるのか知らないけれど、帰らせないなら監禁……犯罪よ!」
「わかった。理解できぬのならば、己の目で確かめるといい」
男性はムッとしたような顔になると、私の腕を引いて立たせた。
「えっ!? 何!? やめてよ!」
訴える私を無視し、彼はカーテンがかかる大きな窓まで進む。カーテンと窓を開けると、庇のないバルコニーがあった。照りつける日差しに一瞬目がくらむ。
「見ろ、わが国は世界でも類を見ない、特徴的な国土を有している。お前の生きてきた世界にもあれらが存在するなら、文句を聞いてやろう」
黒髪の男性は、私をバルコニーに押し出した。
――目の前に広がる景色に、私は息を呑む。
「うそ、でしょう?」
がくがくと足が震え、私はその場に崩れ落ちてしまった。
目の前に広がる景色に、圧倒される。
「何、これ。空に……岩が浮かんでる……?」
「浮島と呼んでいる」
私がいる建物は小高い丘の上にあり、丘のふもとには街が広がっていた。街は入り江を囲むような地形で、入り江の先は広大な海。
その海の上空に、巨大な岩がいくつも浮かんでいた。
「なんなの、あれ?」
巨岩の周囲には、雲がまとわりついている。
呆然と岩を眺める私の隣に、黒髪の男性が並ぶ。そして口を開いた。
「ここは、海と浮島に囲まれた王国、アンレジッド。古から異なる世界と繋がりを持つ、稀有な国だ」
そんな国は、知らない。でも、まさか異世界に来ただなんて……
ありえない景色を見せられた今でも、信じられない。
私は隣に立つ彼を見上げて問いかける。
「あなたは、誰?」
「俺は、エドウィン・ハーヴェイ。このアンレジッドの王位を継ぐ者だ」
「王位を継ぐって……つまり、王太子様ってこと……ですか?」
「そうだ」
驚いて、彼をまじまじと見つめてしまう。けれど彼――エドウィン王子は、そんな私の視線など意に介さず、しれっと話を続けた。
「アオイ、お前は異世界からの漂流物と共に、この国の浜辺に流されてきた。異世界から流れてきたものは、王家が管理、保護することになっている。慣例通り、王家はお前を保護しよう。しばらくこの王城に滞在したらいい」
保護? 私を? 王城で?
頭がぐるぐるし、考えがまとまらない。
「エドウィン様」
そのとき、金髪の男性が慌ただしくやってきて、エドウィン王子に耳打ちをする。
「わかった、すぐに行く」
王子がそう答えると、部屋にいた人たちが急に動きはじめる。それを見て、私はつられるように立ち上がろうとしたのだけれど――
「あ……」
上手く力が入らず、ふらついてしまう。
とっさに支えてくれたのは、エドウィン王子だった。
改めて見ると、迫力のあるイケメンだ。だが、その目の下には濃いクマがある。
「大丈夫か? アオイは浜で気を失ってから丸二日、意識が戻らなかったんだ。まだしばらく休んだ方がいい」
「丸二日も?」
「ああ、そうだ。シャイア、あとを頼む」
もっと聞きたいことはいっぱいあったのだけれど、エドウィン王子は私をメイド姿の女性に預けて、立ち去ってしまった。
彼を見送ったあと、私はシャイアと呼ばれた銀髪のメイドさんに連れられ、ベッドに腰かける。
「私はエドウィン様付きの侍女です。アオイ様のお世話を仰せつかりました。なんでも遠慮なくおっしゃってくださいね」
シャイアさんはそう言いながら、温かい紅茶を渡してくれた。
「まずはゆっくり、喉を潤すようにお飲みください」
「……ありがとうございます」
一口すすると、ほんのりと甘いお茶が、胃を優しく温めてくれた。いい香りに心もホッとする。
「……やっぱり、信じられないよ」
「アオイ様?」
カップを手で包みながら呟く私に、シャイアさんが聞き返す。
「だって、これも知ってる」
手にしているカップに注がれた紅茶。
この味と香りは、紛れもなくイギリスで飲んだ紅茶なのだ。
「家具、絨毯は全部十八世紀の英国式、それにこの紅茶も……。こんなに共通項があるのに、ここは異世界だなんて……」
混乱する私に、侍女のシャイアさんが優しく微笑む。
「アオイ様は、家具や内装についてお詳しいのですね」
「父が骨董商をしていて……私も将来同じ仕事をしていきたかったから」
「まあ、それでは家具だけでなく、他のものにもお詳しいのですか?」
「どちらかというと、美術品の方が得意。美術史の勉強ができる大学に行くつもりだったんだけど……」
帰れなければ、それも夢に終わってしまう。
そんな不安を察したのか、シャイアさんが励ましてくれる。
「エドウィン様が責任を負うとおっしゃっておりました。二十歳とお若いですが、信頼できるお方です。アオイ様が困らないよう手助けをしてくださいます。だから今日のところは、お休みになってください。体が癒えれば、きっと気持ちも前向きになります」
シャイアさんはそう言うと、私の耳に化膿止めの薬を塗ってくれる。
エドウィン王子がそこまで信頼できるか、今の私にはちょっとわからない。
彼からは近づきがたい威圧感を感じるし、翻訳機をつけるためだったとはいえ、無理やり耳に穴をあけられた。今も続く耳の痛みが、彼に対する恐怖をよみがえらせる。ましてや王子様だなんて、どう接したらいいのかわからない。
その後、野菜のスープを少しいただき、私は横になることにした。
寝るまで見守るというシャイアさんの申し出を断って、一人にしてもらう。
すると、あっという間にまぶたが重くなり、私の意識は沈んでいった。
次に目が覚めたとき、あたりはすっかり暗くなっていた。
私はどれほどの時間、眠っていたのだろうか。ベッドから出て周囲を確認すると、寝る前と同じ、美しい調度品に囲まれた部屋だ。
カーテン越しの月明かりを頼りに窓際へ移動して、カーテンをそっと開けてみた。
「……やっぱり、夢じゃない」
月明かりに照らされた、いくつもの浮島が目に入る。昼間まとっていた雲は消え、ごつごつとした岩肌が露わになっている。そのところどころに、草木が生い茂っているのが見えた。浮島が作る大きな黒い影が、凪いだ海面に落ちている。
それ以上眺めるのが怖くなり、カーテンを閉じて戻ろうとしたとき、隣の棟の通路で人影が動いた。見覚えのある黒髪の青年の後ろ姿が目に入る。
「あ、王子だ」
エドウィン王子は数人の従者を引き連れていた。すると、一人の衛兵が王子に駆け寄り、足を止めて話しはじめた。
何かトラブルだろうか。しばらく観察していると――
「わ、しまった」
ふいに上を向いたエドウィン王子と、目が合った気がした。
私は慌ててカーテンを閉じ、窓に背を向ける。なんだか気まずくて、つい隠れてしまった。
そんな私の頭に、エドウィン王子の淡々とした声がよみがえる。
『帰還は困難だ』
本当に?
私は、異世界とはとても思えない室内を改めて見回す。
「こんな状況じゃなかったら、泣いて喜ぶのに」
美しいアンティーク家具に囲まれているにもかかわらず、私はため息をつく。
「誰でもいい、私を助けて」
そんな弱音を吐いたとき、窓の反対側にある大きな扉の下から、明かりが差しこんでいることに気づいた。
扉の向こうは廊下だろう。
気になった私は、大きな扉までそっと歩く。扉を押すと、簡単に開いた。
「すみませーん、誰かいますか?」
隙間から顔を出し、声をかけてみる。
思った通り、外は廊下だった。扉のそばにあるランプが、ほんのりと黄色い明かりを灯している。
「ふふ、かわいいね」
ランプは猿を象った骨董品だった。アーチ状に伸びた尾の先に、小さな明かりがついている。猿はリンゴのような実を取ろうとしていて、とてもかわいらしい表情だ。
その猿を眺めていると、昔、父の店に似たものがあったことを思い出した。アンティークの商品は、動物をモチーフにしたものが多い。
この城には他にも骨董品がありそうだ。わくわくして、城の中を回りたい気持ちに駆られる。
『──キキッ』
空耳だろうか、猿の鳴き声が聞こえた気がした。
私は気になって、鳴き声がした方に足を向ける。
突き当たりを曲がると、廊下の両側には飾り棚があって、ランプと美術品が交互に置かれていた。
「すごい、綺麗」
目にとまったのは、ベネチアングラスの花器。薄い緑色のガラスが、まるで海の波のようで美しい。
『キキィ』
また鳴き声が聞こえた気がして、その方向――足元を見る。そこには先ほどのランプとそっくりな子猿が座り、私のワンピースの裾を引っ張っていた。
「わっ、びっくりした。どうしたの?」
まさか本当に子猿がいるなんて、思ってもいなかった。
人間に慣れているのか、私を怖がる様子はない。
キャッキャと導くようにワンピースの裾を引っ張られて、自然と足を動かす。すると階下に向かう階段があった。
「そういえば、ここはお城だったね」
そんなことを呟きながら階段を下りる。
下の階はホールになっていた。高い天井からゴールドのシャンデリアがぶら下がっている。
「アオイ様!」
名前を呼ばれて顔を上げると、上の階の廊下にシャイアさんがいた。
「部屋にいらっしゃらないので、心配しました。すぐそちらに参りますのでお待ちください」
慌てた様子のシャイアさんを見て、申し訳なくなる。
「勝手に部屋を抜け出したのは、よくなかったね?」
私は肩を落とし、階段の手すりに上った子猿に声をかける。
『キー、キキィ』
子猿は私を真似るように肩を落とす。
そうしているうちに、シャイアさんが階段を下り終えた。
「アオイ様、ご無事で何よりです」
「ごめんなさい。目が覚めたのでちょっと出歩いてしまいました」
私が謝ると、シャイアさんはいいえと首を横に振る。
「本来でしたらご自由になさってかまわないのですが、今は少々城内が混乱しております。衛兵も出払っておりますので、申し訳ありませんが、一度お部屋へお戻りください」
「混乱? 何かあったんですか?」
「精霊が、ひどく騒いでいるのです」
「せい、れい?」
聞き慣れない言葉に困惑し、聞き返す。
「はい。普段は姿を現さない、力の弱い精霊まで目覚めてしまいました。いたずらをしたり音を出したりするので、ちょっとした騒ぎになっております。それでエドウィン様方が対応に追われ……」
「ちょ、ちょっと待って、精霊って? 意味がよく……わ、子猿ちゃん?」
なんの話かさっぱりわからず、詳しく聞こうとする。それと同時に、子猿が手すりの上から私の髪を引っ張った。
「まさか……アオイ様、そこに何かいるのですか?」
シャイアさんは驚いたような表情で、私の周囲をキョロキョロとうかがう。
「……え?」
何って、子猿が──
え? まさか、子猿が見えてない……なんてことないよね?
私は飛び跳ねる子猿と、シャイアさんを見比べる。
「アオイ様、私は精霊の姿を見ることができません。ですが、気配でしたらかすかに感じられるのです。そこに、何がいるのですか?」
シャイアさんの問いを受けて、今さらだけど、子猿の存在そのものに疑問を抱く。
この豪華絢爛なお城の中に、子猿が放し飼いされているなんて、どう考えたっておかしい。
戸惑う私をよそに、子猿は唇をめくりキキキと笑う。
そのとき、私たちの後ろから悲鳴が響いた。
「きゃあああ」
何事かと振り返ると、メイド姿の女性が走ってくる。
「どうしました?」
シャイアさんが逃げてきた女性を抱きとめた。
「振り返ったら水が……廊下が一面、海のように波打っているのが見えて……恐ろしくて」
「海? どこに?」
私が聞き返すと、彼女は首を振る。
「それが一瞬のことで……、精霊が見せた幻だと思うのですが……」
「なんということでしょう、ついにこの棟まで」
シャイアさんは震える侍女を抱えるようにして、階段に座らせた。
「とりあえずここは大丈夫だから、落ち着いて。精霊が危害を及ぼすことはないはずです。パニックを起こして事を大きくしてはいけません。衛兵を呼びますから、あなたは一度寮に戻って」
二人が話しこんでいると、再び子猿が私の顔を覗きこむ。そして、赤い絨毯が敷かれた廊下の奥を指さした。
「あっちに、何かあるの?」
私の問いに、子猿は二度頷く。まるで言葉がわかるかのようだ。
子猿の示す方に歩いてみたら、入り口があった。真っ暗で中の様子は見えないが、そこから小さな子供が顔を覗かせている。
私はちらりと後ろを振り向いた。シャイアさんは怯える侍女をなだめている。
そのとき、子猿が焦れたように走り出した。
「アオイ様?」
後ろからシャイアさんの声が聞こえたけれど――ごめんなさい。猿を追いかけて、私も駆ける。
なぜかわからないけれど、この不思議な子猿が、私をどこかへ導いているような気がするから。
さっき見つけた入り口をくぐると、トンネルみたいな通路になっていた。先ほど見たときには真っ暗に見えたけど、今は不思議と中の様子がわかる。市松模様の床に大理石の壁、そして両端に調度品が並ぶ、不思議な空間だ。
ぐるりと見回してみたけれど、先に入ったはずの子猿の姿が見えない。その代わりとばかりに、白い服を着た天使のような小さな子供たちが出迎えてくれた。彼らはにこにこと微笑みながら、揃って同じ方向を指さす。
その先には、ガラスケースに入った陶磁器製の天使の像があった。
「これって、あなたたち?」
さして深く考えずに口から出た言葉に、子供たちが頷く。
――この現象を、どう受け取ったらいいのか、わからない。だけど、不思議と怖くなかった。
彼らに促されるように、私はさらに奥へ進む。
そこに並ぶ調度品は英国式だけでなく、フランスやトルコ、日本のものなど、多様だ。
その通路を通り抜けると、天井の高い円形のホールがあった。
ホールの壁際には、いくつもの像が部屋を取り囲むように並んでいる。ギリシャ彫刻、ルネッサンス時代のもの、そして遺跡から持ち出したのかと思うほど古いものまでずらりと並び、まさに壮観。私は圧倒されつつ、ふらふらと足を進める。
広いホールの最奥に、三メートルほどの大きな扉があった。
その両脇を守るかのように中世の鎧が置かれ、向かい合って剣を掲げていた。
「ええと、ここ、宝物庫なのかな?」
いかにも入ったらダメですよと言いたげな扉と門番を前に、そんなことを考える。
尋ねながら振り向くと、いつのまにか天使の子供たちがいなくなっていた。
「ちょっとぉ、案内しておいて逃げないでよ」
そのとき、ギギギと重く軋む音がした。
正面に向き直ると、なんと鎧騎士が動き出し、重厚な扉を押し開こうとしている。
「……うそ」
いよいよ自分の目がおかしくなったのか。そういえばスープを飲んだだけで、溺れて以来ろくに食べていない。空腹と疲労のあまり、幻覚を見ているのかもしれない。
そんなことを考えていると、私が歩いてきた通路から大勢の人がやってくるのが見えた。
その先頭にいるのは、黒髪のエドウィン王子。彼は厳しい表情だ。
「や、やばいかも。なんで勝手に出歩いているんだって、めちゃくちゃ怒られそう」
私がとっさに隠れる場所を探していると――
「ぎゃあー!」
何者かに背中を押され、開いた扉の中へ倒れこんでしまった。
ギリギリのところで手をついて、顔から大理石にダイブするのは回避したものの、かなり格好悪い状態だ。
「いたた……誰よ、背中を押したのは!」
うめきながら顔を上げると、目の前に金縁の台座があった。
その上に置かれているのは、美しく大きな白磁の壺。
「なんて、見事な大壺」
前面に大きく描かれているのは、橘の木。たわわに実った果実には、色鮮やかな彩色が施されている。
もっとよく見ようとしたところで、台座の後ろに置かれた木箱に気づいた。
「これ……そうか、これがあの箱の中にあった壺なのね。思っていた以上に、綺麗な品。傷は? 海水に浸かっちゃったけど、大丈夫かな?」
こんな逸品に傷でもできていたら大変だと、状態を観察する。
果実が実る絵の反対側は、白くかわいい花を咲かせた絵柄だった。満開の花と果実の二つの絵柄――季節によって、壺の向きを変えて飾っていたに違いない。
橘には、不老長寿や魔除けの力があると考えられている。桃の節句では桜とセットで飾られ、左近の桜・右近の橘と称されたりもするのだ。
「きっと縁起物ね。対になる桜柄のものがあったのかもしれないな……」
我慢できずに壺に触れたとき、異変に気づいた。
圧迫感を感じるほど、数多くの気配に囲まれている。だが、周囲は薄暗くて、数メートル先はよく見えない。
必死に目をこらすと、薄闇の中にたくさんの目が浮かび上がった。
「きゃあああっ! ゆ、幽霊、お化け」
私は腰を抜かして尻餅をつく。そのまま逃げようと後ずさるが、なかなか進めない。
「アオイ、どうした?」
駆けつけてくれたのは、衛兵を引き連れたエドウィン王子。
彼から隠れようとしていたことも忘れて、私は半べそをかきながら彼にすがった。そして必死に周囲を指さす。
「あ、あれ見て! 目!! 目がいっぱい!」
『お姉さん、いい反応だねえ』
一つの目がひょっこり目の前に現れ、そんなことを言う。
突然のことに悲鳴も出せず、私はエドウィン王子の背に逃げこむ。
「な、ななな、何あれ!」
「アオイ、落ち着け」
よく見ると、それは鬼の面をつけた子供だった。
私の反応を見て、その子供が笑う。
『あははは、驚いてる』
『珍しい、言葉が通じる娘がいるな』
今度は大きな白い蛇――うわばみが現れて、そう喋った。うわばみが私の目の高さまで鎌首をもたげて、しゅるると舌を出し入れする。
そういえばうわばみの言葉で気がついたが、鬼の面をつけた子供もうわばみも、日本語を話している。翻訳機が変換をしていないが、意味がわかった。
どうなっているのかわからず、私は目も口も丸くしてキョロキョロするしかない。まさか仮装大会じゃないよね?
そんなことを考える私に、またも何かが近づいてくる。
『あらまあ、年頃の娘がはしたない』
私を非難したのは、口元を扇で隠した西洋貴婦人。その隣にいる花魁姿の日本美人が、貴婦人に声をかける。
『へえ、年頃だって? ずいぶんと発育が足らないみたいだけどねえ』
花魁は長い煙管を咥え紫煙をくゆらせながら、にやにや顔で私の胸を見下ろした。
失礼な発言にカチンときて、私は口を開く。
「は、発育が足らなくて悪かったわね」
『負けん気が強い女子は、嫌いじゃない』
にやりと笑う花魁に、私は舌を出した。
「あ、あの! そもそも、ここはいったいどこなの?」
先ほどから、自分の口から出た言葉が、不思議な音に変換されている。
ピアス型の翻訳機による現象なのだろうけど、そんな便利なもの、聞いたことがない。
目の前の人たちだって、悪い人じゃなさそうなのに、いまだ警察を呼ぶそぶりすらない。どう考えてもおかしいだろう。
「ここはどこなの? 私は日本に、家族のもとに早く帰りたいの」
「ニホン……」
「もしかして私が日本人っぽくないから、疑っているの?」
私の髪や瞳は、日本人らしくない淡い色だ。その外見が、ずっとコンプレックスだった。
私は唇を噛みながら、黒髪の彼を睨む。西洋人そのものの顔立ちなのに、真っ黒な髪と瞳を持つ青年。私が欲しくて仕方がなかった色が、目の前にある。
私怨にとらわれた私に、彼は予想外の言葉を放つ。
「残念だが、この世界にニホンなどという国は存在しない」
「は…………?」
私は気の抜けた声を漏らす。彼は説き伏せるように、ゆっくりと言った。
「ここはアンレジッド王国。ニホンという国とは、異なる世界にある国だ」
「異なる、世界?」
何を言い出すのかと思えば、違う世界ですって?
私は周囲を見回してから、もう一度黒髪の彼を見据える。
「笑えない冗談に付き合う余裕は、ないんだけど」
「冗談ではない」
「うそ! やるなら徹底して。第一、この部屋にある完璧に揃えた英国式アンティーク家具は、なんだって言うの? どう考えたって、異なる世界の訳がないじゃない!」
「わが国の海には、時おり嵐のあとに異世界からの漂流物が流れ着く。この部屋にはそういったものやそれらを模した家具が揃えられている。決してうそは言っていない。それで……異世界からはこういったものだけでなく、人が流れ着くこともある。アオイ、お前のように」
淡々と放たれた信じがたい言葉に、私は顔を引きつらせる。
「はは、何言ってるの? 意味わかんない。……ねえ、電話を貸して。あなたがここの責任者でしょう?」
「デンワ? なんだそれは」
「ふざけないで。ねえ、今頃父が私を探しているわ。お願いだから連絡を取らせて。私を帰して!」
「帰還は困難だ」
「困難?」
先ほどから訳のわからないこと続きで、私の怒りは頂点に達した。
「どんな意図があるのか知らないけれど、帰らせないなら監禁……犯罪よ!」
「わかった。理解できぬのならば、己の目で確かめるといい」
男性はムッとしたような顔になると、私の腕を引いて立たせた。
「えっ!? 何!? やめてよ!」
訴える私を無視し、彼はカーテンがかかる大きな窓まで進む。カーテンと窓を開けると、庇のないバルコニーがあった。照りつける日差しに一瞬目がくらむ。
「見ろ、わが国は世界でも類を見ない、特徴的な国土を有している。お前の生きてきた世界にもあれらが存在するなら、文句を聞いてやろう」
黒髪の男性は、私をバルコニーに押し出した。
――目の前に広がる景色に、私は息を呑む。
「うそ、でしょう?」
がくがくと足が震え、私はその場に崩れ落ちてしまった。
目の前に広がる景色に、圧倒される。
「何、これ。空に……岩が浮かんでる……?」
「浮島と呼んでいる」
私がいる建物は小高い丘の上にあり、丘のふもとには街が広がっていた。街は入り江を囲むような地形で、入り江の先は広大な海。
その海の上空に、巨大な岩がいくつも浮かんでいた。
「なんなの、あれ?」
巨岩の周囲には、雲がまとわりついている。
呆然と岩を眺める私の隣に、黒髪の男性が並ぶ。そして口を開いた。
「ここは、海と浮島に囲まれた王国、アンレジッド。古から異なる世界と繋がりを持つ、稀有な国だ」
そんな国は、知らない。でも、まさか異世界に来ただなんて……
ありえない景色を見せられた今でも、信じられない。
私は隣に立つ彼を見上げて問いかける。
「あなたは、誰?」
「俺は、エドウィン・ハーヴェイ。このアンレジッドの王位を継ぐ者だ」
「王位を継ぐって……つまり、王太子様ってこと……ですか?」
「そうだ」
驚いて、彼をまじまじと見つめてしまう。けれど彼――エドウィン王子は、そんな私の視線など意に介さず、しれっと話を続けた。
「アオイ、お前は異世界からの漂流物と共に、この国の浜辺に流されてきた。異世界から流れてきたものは、王家が管理、保護することになっている。慣例通り、王家はお前を保護しよう。しばらくこの王城に滞在したらいい」
保護? 私を? 王城で?
頭がぐるぐるし、考えがまとまらない。
「エドウィン様」
そのとき、金髪の男性が慌ただしくやってきて、エドウィン王子に耳打ちをする。
「わかった、すぐに行く」
王子がそう答えると、部屋にいた人たちが急に動きはじめる。それを見て、私はつられるように立ち上がろうとしたのだけれど――
「あ……」
上手く力が入らず、ふらついてしまう。
とっさに支えてくれたのは、エドウィン王子だった。
改めて見ると、迫力のあるイケメンだ。だが、その目の下には濃いクマがある。
「大丈夫か? アオイは浜で気を失ってから丸二日、意識が戻らなかったんだ。まだしばらく休んだ方がいい」
「丸二日も?」
「ああ、そうだ。シャイア、あとを頼む」
もっと聞きたいことはいっぱいあったのだけれど、エドウィン王子は私をメイド姿の女性に預けて、立ち去ってしまった。
彼を見送ったあと、私はシャイアと呼ばれた銀髪のメイドさんに連れられ、ベッドに腰かける。
「私はエドウィン様付きの侍女です。アオイ様のお世話を仰せつかりました。なんでも遠慮なくおっしゃってくださいね」
シャイアさんはそう言いながら、温かい紅茶を渡してくれた。
「まずはゆっくり、喉を潤すようにお飲みください」
「……ありがとうございます」
一口すすると、ほんのりと甘いお茶が、胃を優しく温めてくれた。いい香りに心もホッとする。
「……やっぱり、信じられないよ」
「アオイ様?」
カップを手で包みながら呟く私に、シャイアさんが聞き返す。
「だって、これも知ってる」
手にしているカップに注がれた紅茶。
この味と香りは、紛れもなくイギリスで飲んだ紅茶なのだ。
「家具、絨毯は全部十八世紀の英国式、それにこの紅茶も……。こんなに共通項があるのに、ここは異世界だなんて……」
混乱する私に、侍女のシャイアさんが優しく微笑む。
「アオイ様は、家具や内装についてお詳しいのですね」
「父が骨董商をしていて……私も将来同じ仕事をしていきたかったから」
「まあ、それでは家具だけでなく、他のものにもお詳しいのですか?」
「どちらかというと、美術品の方が得意。美術史の勉強ができる大学に行くつもりだったんだけど……」
帰れなければ、それも夢に終わってしまう。
そんな不安を察したのか、シャイアさんが励ましてくれる。
「エドウィン様が責任を負うとおっしゃっておりました。二十歳とお若いですが、信頼できるお方です。アオイ様が困らないよう手助けをしてくださいます。だから今日のところは、お休みになってください。体が癒えれば、きっと気持ちも前向きになります」
シャイアさんはそう言うと、私の耳に化膿止めの薬を塗ってくれる。
エドウィン王子がそこまで信頼できるか、今の私にはちょっとわからない。
彼からは近づきがたい威圧感を感じるし、翻訳機をつけるためだったとはいえ、無理やり耳に穴をあけられた。今も続く耳の痛みが、彼に対する恐怖をよみがえらせる。ましてや王子様だなんて、どう接したらいいのかわからない。
その後、野菜のスープを少しいただき、私は横になることにした。
寝るまで見守るというシャイアさんの申し出を断って、一人にしてもらう。
すると、あっという間にまぶたが重くなり、私の意識は沈んでいった。
次に目が覚めたとき、あたりはすっかり暗くなっていた。
私はどれほどの時間、眠っていたのだろうか。ベッドから出て周囲を確認すると、寝る前と同じ、美しい調度品に囲まれた部屋だ。
カーテン越しの月明かりを頼りに窓際へ移動して、カーテンをそっと開けてみた。
「……やっぱり、夢じゃない」
月明かりに照らされた、いくつもの浮島が目に入る。昼間まとっていた雲は消え、ごつごつとした岩肌が露わになっている。そのところどころに、草木が生い茂っているのが見えた。浮島が作る大きな黒い影が、凪いだ海面に落ちている。
それ以上眺めるのが怖くなり、カーテンを閉じて戻ろうとしたとき、隣の棟の通路で人影が動いた。見覚えのある黒髪の青年の後ろ姿が目に入る。
「あ、王子だ」
エドウィン王子は数人の従者を引き連れていた。すると、一人の衛兵が王子に駆け寄り、足を止めて話しはじめた。
何かトラブルだろうか。しばらく観察していると――
「わ、しまった」
ふいに上を向いたエドウィン王子と、目が合った気がした。
私は慌ててカーテンを閉じ、窓に背を向ける。なんだか気まずくて、つい隠れてしまった。
そんな私の頭に、エドウィン王子の淡々とした声がよみがえる。
『帰還は困難だ』
本当に?
私は、異世界とはとても思えない室内を改めて見回す。
「こんな状況じゃなかったら、泣いて喜ぶのに」
美しいアンティーク家具に囲まれているにもかかわらず、私はため息をつく。
「誰でもいい、私を助けて」
そんな弱音を吐いたとき、窓の反対側にある大きな扉の下から、明かりが差しこんでいることに気づいた。
扉の向こうは廊下だろう。
気になった私は、大きな扉までそっと歩く。扉を押すと、簡単に開いた。
「すみませーん、誰かいますか?」
隙間から顔を出し、声をかけてみる。
思った通り、外は廊下だった。扉のそばにあるランプが、ほんのりと黄色い明かりを灯している。
「ふふ、かわいいね」
ランプは猿を象った骨董品だった。アーチ状に伸びた尾の先に、小さな明かりがついている。猿はリンゴのような実を取ろうとしていて、とてもかわいらしい表情だ。
その猿を眺めていると、昔、父の店に似たものがあったことを思い出した。アンティークの商品は、動物をモチーフにしたものが多い。
この城には他にも骨董品がありそうだ。わくわくして、城の中を回りたい気持ちに駆られる。
『──キキッ』
空耳だろうか、猿の鳴き声が聞こえた気がした。
私は気になって、鳴き声がした方に足を向ける。
突き当たりを曲がると、廊下の両側には飾り棚があって、ランプと美術品が交互に置かれていた。
「すごい、綺麗」
目にとまったのは、ベネチアングラスの花器。薄い緑色のガラスが、まるで海の波のようで美しい。
『キキィ』
また鳴き声が聞こえた気がして、その方向――足元を見る。そこには先ほどのランプとそっくりな子猿が座り、私のワンピースの裾を引っ張っていた。
「わっ、びっくりした。どうしたの?」
まさか本当に子猿がいるなんて、思ってもいなかった。
人間に慣れているのか、私を怖がる様子はない。
キャッキャと導くようにワンピースの裾を引っ張られて、自然と足を動かす。すると階下に向かう階段があった。
「そういえば、ここはお城だったね」
そんなことを呟きながら階段を下りる。
下の階はホールになっていた。高い天井からゴールドのシャンデリアがぶら下がっている。
「アオイ様!」
名前を呼ばれて顔を上げると、上の階の廊下にシャイアさんがいた。
「部屋にいらっしゃらないので、心配しました。すぐそちらに参りますのでお待ちください」
慌てた様子のシャイアさんを見て、申し訳なくなる。
「勝手に部屋を抜け出したのは、よくなかったね?」
私は肩を落とし、階段の手すりに上った子猿に声をかける。
『キー、キキィ』
子猿は私を真似るように肩を落とす。
そうしているうちに、シャイアさんが階段を下り終えた。
「アオイ様、ご無事で何よりです」
「ごめんなさい。目が覚めたのでちょっと出歩いてしまいました」
私が謝ると、シャイアさんはいいえと首を横に振る。
「本来でしたらご自由になさってかまわないのですが、今は少々城内が混乱しております。衛兵も出払っておりますので、申し訳ありませんが、一度お部屋へお戻りください」
「混乱? 何かあったんですか?」
「精霊が、ひどく騒いでいるのです」
「せい、れい?」
聞き慣れない言葉に困惑し、聞き返す。
「はい。普段は姿を現さない、力の弱い精霊まで目覚めてしまいました。いたずらをしたり音を出したりするので、ちょっとした騒ぎになっております。それでエドウィン様方が対応に追われ……」
「ちょ、ちょっと待って、精霊って? 意味がよく……わ、子猿ちゃん?」
なんの話かさっぱりわからず、詳しく聞こうとする。それと同時に、子猿が手すりの上から私の髪を引っ張った。
「まさか……アオイ様、そこに何かいるのですか?」
シャイアさんは驚いたような表情で、私の周囲をキョロキョロとうかがう。
「……え?」
何って、子猿が──
え? まさか、子猿が見えてない……なんてことないよね?
私は飛び跳ねる子猿と、シャイアさんを見比べる。
「アオイ様、私は精霊の姿を見ることができません。ですが、気配でしたらかすかに感じられるのです。そこに、何がいるのですか?」
シャイアさんの問いを受けて、今さらだけど、子猿の存在そのものに疑問を抱く。
この豪華絢爛なお城の中に、子猿が放し飼いされているなんて、どう考えたっておかしい。
戸惑う私をよそに、子猿は唇をめくりキキキと笑う。
そのとき、私たちの後ろから悲鳴が響いた。
「きゃあああ」
何事かと振り返ると、メイド姿の女性が走ってくる。
「どうしました?」
シャイアさんが逃げてきた女性を抱きとめた。
「振り返ったら水が……廊下が一面、海のように波打っているのが見えて……恐ろしくて」
「海? どこに?」
私が聞き返すと、彼女は首を振る。
「それが一瞬のことで……、精霊が見せた幻だと思うのですが……」
「なんということでしょう、ついにこの棟まで」
シャイアさんは震える侍女を抱えるようにして、階段に座らせた。
「とりあえずここは大丈夫だから、落ち着いて。精霊が危害を及ぼすことはないはずです。パニックを起こして事を大きくしてはいけません。衛兵を呼びますから、あなたは一度寮に戻って」
二人が話しこんでいると、再び子猿が私の顔を覗きこむ。そして、赤い絨毯が敷かれた廊下の奥を指さした。
「あっちに、何かあるの?」
私の問いに、子猿は二度頷く。まるで言葉がわかるかのようだ。
子猿の示す方に歩いてみたら、入り口があった。真っ暗で中の様子は見えないが、そこから小さな子供が顔を覗かせている。
私はちらりと後ろを振り向いた。シャイアさんは怯える侍女をなだめている。
そのとき、子猿が焦れたように走り出した。
「アオイ様?」
後ろからシャイアさんの声が聞こえたけれど――ごめんなさい。猿を追いかけて、私も駆ける。
なぜかわからないけれど、この不思議な子猿が、私をどこかへ導いているような気がするから。
さっき見つけた入り口をくぐると、トンネルみたいな通路になっていた。先ほど見たときには真っ暗に見えたけど、今は不思議と中の様子がわかる。市松模様の床に大理石の壁、そして両端に調度品が並ぶ、不思議な空間だ。
ぐるりと見回してみたけれど、先に入ったはずの子猿の姿が見えない。その代わりとばかりに、白い服を着た天使のような小さな子供たちが出迎えてくれた。彼らはにこにこと微笑みながら、揃って同じ方向を指さす。
その先には、ガラスケースに入った陶磁器製の天使の像があった。
「これって、あなたたち?」
さして深く考えずに口から出た言葉に、子供たちが頷く。
――この現象を、どう受け取ったらいいのか、わからない。だけど、不思議と怖くなかった。
彼らに促されるように、私はさらに奥へ進む。
そこに並ぶ調度品は英国式だけでなく、フランスやトルコ、日本のものなど、多様だ。
その通路を通り抜けると、天井の高い円形のホールがあった。
ホールの壁際には、いくつもの像が部屋を取り囲むように並んでいる。ギリシャ彫刻、ルネッサンス時代のもの、そして遺跡から持ち出したのかと思うほど古いものまでずらりと並び、まさに壮観。私は圧倒されつつ、ふらふらと足を進める。
広いホールの最奥に、三メートルほどの大きな扉があった。
その両脇を守るかのように中世の鎧が置かれ、向かい合って剣を掲げていた。
「ええと、ここ、宝物庫なのかな?」
いかにも入ったらダメですよと言いたげな扉と門番を前に、そんなことを考える。
尋ねながら振り向くと、いつのまにか天使の子供たちがいなくなっていた。
「ちょっとぉ、案内しておいて逃げないでよ」
そのとき、ギギギと重く軋む音がした。
正面に向き直ると、なんと鎧騎士が動き出し、重厚な扉を押し開こうとしている。
「……うそ」
いよいよ自分の目がおかしくなったのか。そういえばスープを飲んだだけで、溺れて以来ろくに食べていない。空腹と疲労のあまり、幻覚を見ているのかもしれない。
そんなことを考えていると、私が歩いてきた通路から大勢の人がやってくるのが見えた。
その先頭にいるのは、黒髪のエドウィン王子。彼は厳しい表情だ。
「や、やばいかも。なんで勝手に出歩いているんだって、めちゃくちゃ怒られそう」
私がとっさに隠れる場所を探していると――
「ぎゃあー!」
何者かに背中を押され、開いた扉の中へ倒れこんでしまった。
ギリギリのところで手をついて、顔から大理石にダイブするのは回避したものの、かなり格好悪い状態だ。
「いたた……誰よ、背中を押したのは!」
うめきながら顔を上げると、目の前に金縁の台座があった。
その上に置かれているのは、美しく大きな白磁の壺。
「なんて、見事な大壺」
前面に大きく描かれているのは、橘の木。たわわに実った果実には、色鮮やかな彩色が施されている。
もっとよく見ようとしたところで、台座の後ろに置かれた木箱に気づいた。
「これ……そうか、これがあの箱の中にあった壺なのね。思っていた以上に、綺麗な品。傷は? 海水に浸かっちゃったけど、大丈夫かな?」
こんな逸品に傷でもできていたら大変だと、状態を観察する。
果実が実る絵の反対側は、白くかわいい花を咲かせた絵柄だった。満開の花と果実の二つの絵柄――季節によって、壺の向きを変えて飾っていたに違いない。
橘には、不老長寿や魔除けの力があると考えられている。桃の節句では桜とセットで飾られ、左近の桜・右近の橘と称されたりもするのだ。
「きっと縁起物ね。対になる桜柄のものがあったのかもしれないな……」
我慢できずに壺に触れたとき、異変に気づいた。
圧迫感を感じるほど、数多くの気配に囲まれている。だが、周囲は薄暗くて、数メートル先はよく見えない。
必死に目をこらすと、薄闇の中にたくさんの目が浮かび上がった。
「きゃあああっ! ゆ、幽霊、お化け」
私は腰を抜かして尻餅をつく。そのまま逃げようと後ずさるが、なかなか進めない。
「アオイ、どうした?」
駆けつけてくれたのは、衛兵を引き連れたエドウィン王子。
彼から隠れようとしていたことも忘れて、私は半べそをかきながら彼にすがった。そして必死に周囲を指さす。
「あ、あれ見て! 目!! 目がいっぱい!」
『お姉さん、いい反応だねえ』
一つの目がひょっこり目の前に現れ、そんなことを言う。
突然のことに悲鳴も出せず、私はエドウィン王子の背に逃げこむ。
「な、ななな、何あれ!」
「アオイ、落ち着け」
よく見ると、それは鬼の面をつけた子供だった。
私の反応を見て、その子供が笑う。
『あははは、驚いてる』
『珍しい、言葉が通じる娘がいるな』
今度は大きな白い蛇――うわばみが現れて、そう喋った。うわばみが私の目の高さまで鎌首をもたげて、しゅるると舌を出し入れする。
そういえばうわばみの言葉で気がついたが、鬼の面をつけた子供もうわばみも、日本語を話している。翻訳機が変換をしていないが、意味がわかった。
どうなっているのかわからず、私は目も口も丸くしてキョロキョロするしかない。まさか仮装大会じゃないよね?
そんなことを考える私に、またも何かが近づいてくる。
『あらまあ、年頃の娘がはしたない』
私を非難したのは、口元を扇で隠した西洋貴婦人。その隣にいる花魁姿の日本美人が、貴婦人に声をかける。
『へえ、年頃だって? ずいぶんと発育が足らないみたいだけどねえ』
花魁は長い煙管を咥え紫煙をくゆらせながら、にやにや顔で私の胸を見下ろした。
失礼な発言にカチンときて、私は口を開く。
「は、発育が足らなくて悪かったわね」
『負けん気が強い女子は、嫌いじゃない』
にやりと笑う花魁に、私は舌を出した。
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