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第二話 二

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 重量物が落下してきた振動が女帝たちの足腰を痺れさせる。普段なら誰も見向きしないはずの最後方右端に全員の視線が集まった。九十九位は腰を抜かしたし、というより、

「ってどっから来てんのよっ!」

 思わずつっこんでしまった。
 やらかしたと口を覆ったものの、出たものは戻ってくれない。

「すまん、遅刻だ。近道してきた。堀と塀を飛び越えたほうが早いかと思ってな。威勢がいいな、百位」

 うわ出た、と百位は頬を引きつらせた。屋根に金の鳥、神社の社を金箔で飾り付けたような神輿、そして目を閉じたままでも色気を漂わせる澄まし顔。今日も今日とて神輿でふんぞり返るは帝位五位の蒼い長髪の男だった。

 先週の生々しい辱めが蘇る。

 舞う砂埃と女帝たちの困惑のひそひそ話。五位様、なぜ五位様が最底辺と、立場をわきまえろ、そんな文言が聞こえてくる。びっくりして反射的に声を出してしまった。最悪だ。余計に目をつけられるかもしれない。

「なんだ? まだ減量するのか? 百位よ」

 名指しで呼ばれれば返答しないわけにはいかない。舌打ちをぐっと堪え、地に手をつけて五位に頭を下げた。

「五位様。女帝の食事は全部で九十八人分しか支給されません。なら、最も身分の低い者が、呑気に皆様の食事に手はつけられません」

 頼むから話をややこしくしないでくれと、頭を上げた百位は五位に目配せを試みたものの、瞼を下げたままの五位には伝わらなかった。

「なるほどな。時に、九十九位はどなたか?」

 隣で頭を下げたままだった九十九位がびくりと顔を上げた。九十九位は目を見開きながら額に脂汗を浮かばせている。

「えっと、クク、じゃなくて、わ、わたくしが九十九位でご、ざいます」

 緊張か焦りか呂律が回っていない。九十九位の返答を聞いた五位は、閉じたままだった右目を薄く開けた。視線は、九十九位の膳に向く。

「ほう、百位と比べ、ずいぶんと鮮やかな食事だな。そなたは隣を見てなにも思わないのか? それとも下位の人間なぞ、視界にすら入らんのか?」
「え、えっと、えっと、そ、その」

 ちょっと待ってほしい。その言い方だと、九十九位が横取りしているようにも聞ける。ふざけないでほしい。九十九位も、好きでこんなこと――。

「ん? なにも言うことは無いのか? 九十九位」

 五位の声音が鋭くなる。九十九位は口をパクパクさせながら左右に目を泳がしている。
 黙っていられなかった。

「あんたに関係無いでしょ。どっか行って。神輿が邪魔なのよ」

 威嚇するように歯を向いてやった。矛先が自分に向くように。背後の女帝たちが絶句し、凍り付くのが肌でわかった。九十九位でさえ、呆気にとられていた。

「関係無い、か。ふむ、そなたとて女帝。なら、俺の妻となるやもしれん女の一人。気にかけるのは当然であろう?」

 五位が薄く開けた右目をこちらに寄こす。夕陽に真っすぐ見下ろされる。

「あんたと結婚する気なんて微塵も無いわ。ほっといて」

 キッと睨んでやれば、目の前に火花が散ったような錯覚さえ覚えた。心臓がバクバクと暴れている。頭がふわふわする。緊張で息の根が止まりそうだった。

「五位様! いかがなさいました!」

 いよいよ吐きそうになったとき、艶のある声が近づいてきた。振り返れば、桃系の装束を引きずりながら小走りで近づいて来る女帝がいた。
 最年長二十四歳。帝位、そして女帝らの食事管理を任されている女帝十位は、目尻と豊かな胸にあるほくろが印象的に残る、姉さんのような女性だ。女帝十位は、息を切らしながら百位の隣で膝を着くと、大胆に強調させた胸元を見せつけるように頭を下げた。ハーブのような香水の匂いが漂ってくる。

「い、五位様。なにか、ご不快なことでも」

 五位は右目を閉じた。ふん、と鼻息一つで女帝十位の声を払いのける。

「いまどきの女帝は、下位の者を見捨てるのかと思うてな」
「そ、それはどういう……」

 十位が困惑したように顔を彷徨わせる。すると、たくあんだけの膳に焦点を結ぶやいなや、言葉を詰まらせた。

「うそ、あなた、これ」

 十位から驚愕の視線が飛んでくる。瞳孔が狭まった紅葉色の瞳を正面から受け止めきれず、百位は顔を背けた。すかさず五位が追い打ちをかけてくる。

「ふむ、配膳の担当は女帝十位が一任されていたな。やけに偏りがあるのではないか?」
「た、確かに、わたくしめが、確実に、均等に食事は分けたはず、ですが……」
「ほう? そうは見えんが? いくら九十八人分しか支給されんとは言え、九十八人分はあるのだ。なにも一人が我慢することは不要であろう?」
「確かに、確かに、あなた、これ――」

 全員の視線を背中に浴びている。頬が真っ赤になっていそうなほど熱を発している。いますぐにでも装束を脱ぎ捨てて逃げたい。十位が弁解を口にするよりも先に、百位は割って入るように声を荒げる。

「ちょっと! やめてくれない? わたしの問題だから他の女帝は関係ないわ。十位様は確かに食事を管理しているけれど、末端は末端なりに管理しているの。だから、十位様にはなんの落ち度もないわ。さっきからなんなのよ、あんた」

 言い放てば、次は十位が声を荒げる。

「あなたっ! 五位様になんて口の聞き方っ!」

 十位が女帝らしくもなく唾を飛ばす。十位は本気で怒ったのだろう、眉間に皺を寄せて乱暴に百位の左腕を掴んだ。
 が、重ね着しているにも関わらず、すっぽりと自身の右手に収まった百位の二の腕に、十位はまたもや言葉を失った。まるで死人でも見かけたような形相で百位の袖を捲る。百位も腕を隠そうと十位の手を払いのけるが、今度は顎と頬を鷲掴みにされた。

「噓でしょ……。あなた、こんなに痩せて……、いつから?」

 完全に瞳孔を狭めた紅葉色の瞳が小刻みに揺れる。両の頬を挟まれたままでは言葉を発せられないため、強引に十位の手を引きはがす。

「ふんっ、気安く触らないで。汚れるわよ」

 しばし茫然とした十位だったが、装束の襟を正すと再び五位へ頭を下げた。

「五位様。これは、わたくしめの失態。本日の食事会、女帝百位には、わたくしめの食事を与えますゆえ、どうか、お気をお静めください」

 十位が地に平伏せば、五位は興味を失ったように神輿に深くもたれた。

「なに、俺は疑問を投げかけたまで。当人が気にしていないのであるならば、一向に構わん。みな、騒がしてすまなかった」

 ぬらりと神輿が揺れると、担ぎ手のあやかしがぺたぺたと歩み始めた。五位のことをまたキッと睨んでやったが、目を閉じたまま肘をつく様子では気づかれまい。代わりにか、神輿左前の担ぎ手のあやかし、十六夜がポッ、と胸ビレ、もとい頬をピンク色に染め上げ、去り際にぶるんと胴を震わせた。なにやら気に入られたようだ。
 神輿が過ぎるやいなや、十位に手を引っ張っられる。

「あなた、こっちに来なさい」

 問答無用と引っ張られたので、対抗するように尻に体重を寄せる。

「え、嫌よっ」

 拒否すれば、十位は引っ張るのを止めた。すると、ふっくらした唇が触れてしまいそうなくらいに顔を近づけてきて、

「刎ねるわよ。来いって言ったわ。拒否権は無い。黙ってついてきな」

 耳元に纏わりついてきた吐息がどす黒く思えた。フッと吹きかけられた湯のような吐息が首筋を一周してきたため、百位は間違って水風呂に入ってしまったときのように背筋を震え上がらせた。
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