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第三話 三

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 馬小屋には常時百頭ほどの馬が世話されている。主に女帝らの馬車を引くための馬たちだが、有事の際に衛兵が乗るための馬でもある。馬小屋の裏には広い放牧地まであって、九十一から百位までの屋敷は、農場の敷地内にあるようなものであった。
 
 七十から百位までの女帝たちは、仕事の一つとして馬小屋の管理が任されている。女帝たちもただただ婚活だけしていれば良い、という話もなく、女帝の位によって仕事が割り振られている。汚れ仕事もあれば、計算仕事もあるし、位によっては婚活する暇など無いほど忙しい女帝もいる。この間の女帝十位は仕事が忙しいことで有名でもあり、なにせ女帝全員分毎日の食事を管理しなければならない。たくさんの下女を連れてはいるが、毎日走り回るらしい。それに比べれば百位の仕事は気長にできるものばかりだ。馬の管理や帝都内の植物を管理することなどが主な仕事で、女帝になっても故郷の農民と同じような生活を送っていた。馬の世話も幼い頃からしていたから、正直、馬百頭程度の世話なら余裕でこなせる。貴族育ちの女帝や、農民出身ではない下女には苦しい仕事だろう。普段は関わることがない他の下女に仕事を教えたことだってある。去年は、まだ他人と関わることが多かった。

 さて、物思いにふける暇は無い。馬小屋の馬はこの時間一斉放牧されている。その間にさっと小屋内を掃除してしまう。今日の担当は百位とその下女、それから九十三位とその下女になっている。
 しかし九十三位の姿は見えず、あのウンコ三姉妹だけがせっせと掃除をしている。九十三位は特別な仕事があるとかで基本的に汚れ仕事には顔を出さない。その代わりか、あのウンコ三姉妹が担当日以外も馬小屋で作業をしている。あの三人はおそらく農民出身だろう。最初からこの仕事に手慣れていた。動物を好いている三人だと思う。
 つまり、だ。今日この時間、馬小屋に居るのは、百位と下女、それからウンコ三姉妹だけになる。

 いつもはやられる日だ。億劫な日だった。今日は違う。

 百位は「うへ」と笑みを漏らした。

 こっちを見た下女が血の気を引かせていたが、いま自分はどんな顔で笑っているのだろう。他に迷惑はかけないよう、自分の担当は手早く終わらせた。両手に馬糞を溜めた桶を持つ。臭いのでなるべく口呼吸を意識した。馬小屋での作業中は、汚れても良いように専用の着古した着物に着替えてある。失う物は無い。

 時は来た。

「おい」
「え?」

 まず目をつけたのは一番背が低い下女だ。藁の入れ替え作業をしていた下女は、真後ろに百位が来るまで気がつかなかった。この下女も作業用の着物に着替えているが、菊の刺繍がされているあたり、安い一着ではなかろう。きょとんと振り返った下女は、百位の両手を見るや否や後ずさりをした。

「な、なんですか」

 下女がふくよかな頬を引きつらせる。群れなければ吠えられないのか。無言で下女を壁際まで追いやった百位は、満面の笑みで振りかぶった。

「ぴゃああああああああああああああああああ!」


 ***


 馬小屋に阿保みたいな悲鳴が轟いた。それを聞いた九十三位の下女二人はすっ飛んだ。

「どうしたや! なんや!」

 一番背が高い下女は目撃した。床にうずくまる糞まみれの相方と、しゃれこうべがケタケタと笑うように肩を揺らす悪魔を。中背のそばかす下女が「ひっ」と後ずさりしたとき、悪魔がぐるりと首を回した。
 狩人の血筋が直感した。狩られる。

「逃げや! ここは食い止めるや!」

 襲われたとき、誰かが生き残らねばならない。生きて危険を村に知らせなければならない。血に刷り込まれた本能が全身の血の巡りを加速させ、背が高い下女を突き動かす。
 中背の下女が出口に向かって走りだす。悪魔が軟体動物のように体をくねらせながら突っ込んできた。

 ――こちらの武装は箒一本。やるしかないっ!

 箒を槍と見立て、対突撃防御の姿勢をとった。左半身を前にし、足を開き、重心を下げ、箒を中段に構える。突っ込んで来たところを、叩く!

「させません」
「なっ」

 忍者のように姿を突然現したのは、悪魔の下女だった。そいつは藁を集めるための大きなフォークで箒ごと床を突いた。おかげで箒が床に固定される。
 やられた、と悟った瞬間、悪魔の視線に気がついた。こいつ、狙いは自分ではなく、

「ふせやああああああああ!」
「おらぁ! 〇ねっ!」

 悪魔が馬糞入りの桶を投げた。伏せるように叫んだが、逃げるの必死だった相方には届かなかった。しかし、馬糞入りの桶は完璧な軌道で相方の後頭部まで放物線を描き――。

「きゃあああああああああああああああああ!」

 相方は馬糞入りの桶を頭に被った。キンキンする悲鳴が響き、そのまま桶に視界を塞がれ足をもつれさせると、馬小屋の出口に突っ込む。

 最悪な偶然だった。

 どうして、今日に限って。

 相方は、出口扉に突っ込まなかった。なぜなら、扉を開けた人物が居たから。

 馬糞にまみれた体でその人物に体当たりしてしまった。

 その人物に付き添っていた顔見知りの下女たちが、口元を両手で覆いながら絶句した。

「あ、あ、あ、九十三位、さま」

 相方が泣きそうな声でその人物を見上げた。
 糞まみれになった銀杏色の着物をぽかんと見下ろすのは女帝九十三位、菊一族の娘、我が主。

「よ、よ、よ? これは、一体、何事?」

 馬小屋の気温が急激に下がったような錯覚に陥った。まずい、狩られる。

「きゅ、九十三位様、こ、こやつが、我々に突然!」

 悪魔、ではなく脂汗を額に浮かべる女帝百位を指差した。やっちまったって顔をしている。

「う、うるさいわねっ! いっつも、こっちがやられてんだから、やり返したって良いじゃない!」
「いつ、も?」
「そ、そうよ! あんたのとこの下女にどんだけ汚されたと思ってんのよ! 恥を知りなさい! げ、下女を仕向けて嫌がらせするなんて、あんた最低の女帝よっ! 文句あるなら直接かかってきなさいっ!」

 捲し立てるように怒鳴った百位に、九十三位は言葉を失っていた。中背の下女がぼそり「九十三位様、これは」と口を開いたが、九十三位はそれを「黙れ」と一言で断ち切る。背が低い下女はプルプルと床で震えていて顔を上げない。背が高い下女は弁解しようとしたものの、痙攣した喉は使い物にならなかった。
 状況を呑みこんだのか、九十三位が百位を真っすぐに捉える。

「……余の下女が、お主に粗相をした。ので、お主は仕返しをした、という話、よの?」
「そういう話よ。どう落とし前つけるのよ」
「……しばし、考えさせてくれ」

 九十三位は背を向けた。背面に大きく刺繍された菊の紋様が黒髪の合間から覗く。そして九十三位はポキポキと首を鳴らすと、

「余の下女は、この場を片づけたのち、着替えて部屋に来い」

 と残して立ち去った。百位は困惑したようにキョロキョロしている。糞まみれの相方二人は、がっくりと両肩を落としている。背が高い下女は膝から崩れ落ち、いつも見下していたはずの痩せ細った女帝に見下されることとなった。
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