金魚の歌

ムラサキハルカ

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 一

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 大学に入った年の夏のある日。俺は学校の友人達と散々酒をかっ食らったあと、ぐらぐらと身体を揺らしていた。周りの仲間達に心配されながらも、見栄を張って介抱を断り、別れ、ふらふらとした体に温い夜風を浴びていた。胸のあたりに飲み屋で口にしたつまみの数々が迫り上がってきていたものの、足を止めたら止めたで吐きだしそうだったのもあって、ただただ歩き続けた。
 当初は下宿に帰ろうとしていたはずだったが、飲み過ぎのせいか、通常の方向感覚はおろか、記憶していたはずの道さえ忘却する有様だった。とはいえ、俺の通っている大学のあるこの町は、基本的に鍵を開けっ放しにしていても泥棒に入られない程度にはのどかだったのもあって、それほどの不安もなしにぶらぶらと彷徨っていた。
 なんとはなしに空を見上げると、浮かぶ月が細い笑みを浮かべていた。
 今日はみんな気分がいいんだな。そう思うと、なんだか嬉しくなって踊り出しそうになったが、ようやく冷め始めていた頭の中にいるもう一人の自分が、さすがに大学生としてそれはどうよ、と突っ込んできた。ああ、それもそうだなところりと意見を変えた俺は、歩き疲れていたのもてつだって、近場にあった緑色の電灯に寄りかかり、そのまま腰を落とすと、体から力を抜いて横たわった。真上で点滅する薄明かりがちらりちらりと視界に入った気がしたが、瞼を閉じるのを邪魔するまでにはいたらなかった。

 目覚めとともにやってきたのは頭に響くような鈍い痛みだった。こめかみのあたりを押さえると同時に再び眠ってしまいたかったが、それを遮ったのは、目の前に立っている一人の男だった。
 なぁ、兄ちゃん。邪魔だから退いてくれないか。
 その男は麦藁帽子を被り、白いランニングシャツと青い短パンというなりでなんだか小汚く見えた。
 ここは俺の店だと昔から決まってるんだ。てなわけで、退いた退いた。
 仏頂面でそう告げると、手をひらひらと振って退去を促してくる。俺は渋々立ち上がったものの、寝起きかつぞんざいに扱われたそいか、なんとはなしに男に反感を覚えてしまう。おまけに頭痛も酷いままだった。
 店って言ったけど、おっさんは何やってる人なんだよ。
 なんとなく聞いたのが運の尽きだったかもしれない。途端に男は黄ばんだ歯をしっかりと見せつけて、心底愉しそうな笑みを浮かべた。
 いいことを聞いたな、兄ちゃん。一発やっていくかい。
 その言葉を聞いて真っ先に思い出したのは、飲み屋で友人が熱く語っていた風俗嬢の話だった。
 もしかしたら、あんなことやこんなことや、そんなことまで。邪まな考えは両側に羽根を付けて、今にも天まで飛んでいきそうだった。そんな俺を嘲笑っているのか、男は下卑た声を上げ、鉛筆サイズの棒切れに丸いものが付いたものを差し出してみせた。これは噂の近藤夢さん、いや、大人のオモチャという線も無きにしもあらずか。そう思い、いつも以上に力を入れて受け取ったあと、
 金魚掬いの、ポイ。
 思考が停止した俺の前で、男はいかにも、と力強く、告げた。
 それが古来から続く男と男の勝負に必要な道具。これ以上にないくらい、勝者と敗者の差がはっきり出る。どうだい、痺れるだろう兄ちゃん。
 夏場らしいTシャツをべたつかせる汗が冷たくなるまで、何も言い返すことができないまま、網を一人握り込んでいた。そうして我に返ったあと、小さく溜め息を吐いた。
 うん、どうしたんだい、兄ちゃん。いやにしょぼくれちまって。
 いや、ちょっと、自分の卑しさに思うところがあってな。
 いつの間にか大分楽になっている。二日酔いのような気だるさとわずかな頭痛はまだ少し残っていたものの、気持ちとしてはもう素面だった。さっさとポイを捨て帰ってしまいたかったものの、握ってしまった手前、無視していくのはどうにも具合が悪い気がしたので、ゆっくりと構えた。
 とりあえず一回、よろしく頼むぜ、おやじ。
 へへ、毎度あり。一回百円な。
 持っていた手提げの中に入れた財布を取り出す最中、男は運んできたとおぼしき水槽を設置し始めていた。もうやけくそだ。そう思いながら、体の力を抜いた。

 元々、金魚掬いは子供の頃から慣れ親しんでいたのもあって、どちらかといえば得意だった。頭は多少重かったものの、少々むしゃくしゃしていたのもあって、どこかに捌け口を求めていたのだろう。今日の俺の目とポイを操る手先は、これ以上にないくらい冴えわたっていた。
 まずは弱っていそうな金魚や角などの掬いやすそうな場所にいる金魚を的確に探し出し(とはいえ、金魚を泳がしている水槽がそれほど広くなかったのもあって、泳いでいる金魚も通常の縁日比べると、随分と少なかった。金魚が寄ってきやすいように身体で陰を作るのも忘れなかった)、ポイをできるだけ水に付けずに魚を極力暴れさせないよう拾い上げ、手元の薄桃色の椀に納める。加えて、ポイが比較的頑丈で破れにくかったのもあって、最初のポイが破れる頃には、五六回交換した椀の中には、水槽の実に五分の一程度の金魚が納まっていた。
 よし、どうせなら、全部掬ってやるか。持って帰っても困ること請け合いなのに、一回の肩慣らしで温まった身体とハイになった脳味噌は、冷静な判断を下さずに、懐から百円玉を取り出し男に差し出そうとしていた。
 待てよ、兄ちゃん。その勝負ちょっと待った。
 直後、慌てた様子の男が右手をパーの形に広げ制止の姿勢を取った。俺は目の前にあった楽しみに水を差されたのもあって、思い切り睨みつけてしまう。だが、男はそれに動じるでもなく、下卑た苦笑いを作りながら、揉み手を作った。
 まず確認だ。兄ちゃん、何匹持っていく気だい。
 持ち金と体調次第だけど、このケースの中にいるやつ全部かな。
 勢いでそんなことを口にする。飲み会でそれなりに削れてはいたものの、まだまだ懐には多少の余裕があり、今日の調子だったら野口さん一枚も費やさずに水槽の中を綺麗にしてしまえそうだった。灯りの下にいる男の顔が青く染まったように見えた。
 そいつはちょっとばかし困るなぁ。兄ちゃんみたいなできるやつだったら、どうせたいして金かけないで持っていっちまうんだろう。そうなると、さすがにこっちも赤字になっちまうというか、なんというか。
 知らないよ。今俺、限界にチャレンジしたい気分でさ。
 そこをなんとか。
 嫌だよ。さぁ、次のポイをくれよ。
 憐れみを誘う姿で懇願する男の姿を見ながら、要求を突っぱねるべく左手を差し出して次のポイを要求する。そうしながら、店主らしくここで打ち止めを宣言すればいいのにとか、そもそもいくら掬っても一定数の金魚しか客に還元しないシステムにすればいいのにとか思ったけど、自らの卑しさを実感させられた逆恨みもあって口にしなかった。きっと、この男は商売が絶望的に下手なんだろうな。そう漠然と考えながら、へこへこする男の姿を見ていた。
 頼むと告げられて、ダメだ、という押し問答を数度繰り返す。別段、金魚を食べる育てる気もないんだから、こだわる必要なんか少しだってないのに、なぜだか意固地になっていた。だから、
 じゃあ、うちで一番貴重な金魚を一匹やるから、それで引き下がってくんねぇかな。
 そう提案された時は、とりあえず見せてくれ、と答えつつも、すぐに断ってやろうと手ぐすね引いて待ち構えていた。
 それを聞いて胸を撫で下ろした男は、水槽の後ろに置いてあった棺のような箱を前に持ってくると、ぱかりと開いてみせる。その中身が目に入った瞬間、俺の目は大きくかっ広げられ、口の両端がだらりと弛んだ。
 箱の中には水に浸かった裸体の若い女が目を瞑って横たわっていた。長く波打つように広がった緑の髪の毛、透き通るような白い肌で形作られた細長く小さな顔、妖精のように尖った耳、しっかりと存在感を主張する丸みを帯びた胸元の双丘。それだけでも充分非現実的なのにも関わらず、とりわけ目を引いたのは彼女の下半身だった。腰から下にあったのは足ではなく、海の青さと海藻の緑を混ぜたような鱗に蔽われた魚の尾鰭だった。
 人魚、だよな。
 そう呟きながら、ゆっくりと箱の方へと手を伸ばす。この年になれば、そんな空想上の生物なんかいるわけがないと決め付けてしまっているものだが、しっかりと目の前にいれば、信じざるを得ない。謀られているのかもしれない。頭の中の冷静な部分はそう考えようとしていたが、もっと奥底にある本能はこれが本物であると訴えていた。
 釘づけになっていた俺の前に、ごつごつとした掌がかざされた。見れば、男が下卑た笑いを浮かべている。
 おっと兄ちゃん、摘み食いは厳禁だぜ。
 男はまるで俺がついさっき思い浮かべた思考をなぞって逆撫でするみたいに、お預けを食らわすと、得意げに鼻を鳴らす。
 なーに、難しいことは求めちゃいない。今兄ちゃんの手元にいる金魚とこれから掬おうとしていたケースの中の金魚、それとこの一匹の金魚の交換に応じてくれればいいってだけさ。なっ、簡単だろ。
 それを聞いて浮かんだ、いやどう考えてもその一匹の方が貴重で高いだろうとか、どうせ面倒見切れないからどうでもいいし、などの思考は、箱詰めになった人魚の裸体でいっぱいになった頭の中では、どうでもいいことでしかなかった。遠慮なしに視線を浴びせながら、黙って御椀を一つずつ手渡していく。ケースの中に再び小さな魚が投入される音を聞きながら、手元にただ一匹の大きな金魚がやってくるのを今か今かと待ち構えていた。
 くくく。待たせたなぁ。さぁ、持ってけ泥棒。
 ほどなくして、金魚を戻す作業を終えた男が、水で浸された箱をわざわざ持ち上げてこちらの前に置いた。ぼんやりとした灯りの下、俺は人魚の肌をしげしげと見やった。水につかっているせいか、それとも元からそうなのか、肌は薄らと光沢を放っている。何分、人生経験が少ないせいもあって、そもそも生身の若い女の裸をしっかりと見たのも初めてだった。
 どんな感触をしているのだろう。些細な疑問とともに、自然と女の頬に手が伸びていく。肌に胸、それに濡れた髪の毛に触れたかった。そうして、最初の目標に指の先端が触れた時、人魚の瞼がゆっくりと開かれた。蒼いガラス玉みたいな二つの目玉は、どこか作りものじみていた。
 もしかして、これは精巧な作り物なんじゃないだろうか、というような不安が湧き上がる。それを否定したのは、少しだけ冷たい肌の温度と、こちらを不思議そうに見つめる女の視線。たしかに、目玉こそ俺たちとは少しばかり違うが、たしかにそれは生き物の持ち合わせるものだった。
 それに一時の安堵を覚えるとともに、人魚と視線をかわす。どこか人工的な風にすら思える瞳に吸い寄せられるようにしてしばらく見つめ合う。時間すら忘れて、結局男にまた話しかけるまで、俺と人魚は動かずにいた。
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