鍵盤上の踊り場の上で

紗由紀

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第4章 Chorus

僕だけの音楽

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その一瞬の動作の後、僕は演奏を始めた。輝かしいイントロが、体育館中に響き渡る。僕の伴奏以外何も聞こえない世界だったものが、声によって更に色鮮やかなものへと変化する。
ただ、僕は弾いていた。鍵盤を叩いて、絶え間なく指を動かしていた。四分音符と全音符のコントラストは、前よりも明確に濃淡をつけて奏でられていた。強、弱、中、弱。意識していたことが、自然とできている。
その後の八分と十六分のメロディーもきらびやかな音が出せたと思う。苦戦していたオクターブも、滑らかに弾くことができた。しなやかに、滑らかに。それでいて明るい音色を出して。水瀬の言っていた、「大好きな音」に少しでも近づけるように。僕はそんなことを考えながら伴奏を少しずつ進めていく。曲の終わりへと向かっていく。
歌声が耳に心地よく響いて、声は幾つものハーモニーを生み出していた。
水瀬のことを、思い浮かべた。
水瀬のような、あんな明るさの音色。そんな音色を出したい、と切に願った。それはもしかしたら、僕が出したい音色なのかもしれないなんて、今更だけれど思った。
水瀬。
水瀬が、ここにいてくれたらよかったのにな。
『相原くん』
ふと、それに応えるように僕の名前を呼ぶ、水瀬の姿を思い出した。
…僕はいつから、こんなに水瀬のことを考えるようになったのだろうか。いつから、水瀬とピアノを弾くことが、僕の喜びになっていたのだろうか。
いつから、僕の隣に水瀬がいることが当たり前になっていたのだろうか。
それはきっと、水瀬と出会ったあの日から始まったものだった。
何もかもどうしようもない僕を変えてくれたのは、いつも君だったな、水瀬。ここにいない水瀬にそう呼びかける。それに応じて伴奏のハーモニーも優しいものへと移り変わっていった。
曲という物語はクライマックスを迎えていた。
歌詞に込められたその想いは、果たしてどこへ行くのだろう。願わくば、それが大事な人の元へ届きますように。
ソプラノの高音にアルトのハーモニーな重なり、低音パートの重低音が響き渡る。
最後の8拍間、声はただ響いていた。
ピアノは16分のリズムを延々と奏で続ける。もしかしたら、このままこの曲は終わらないのではないかという錯覚を見た。僕の中で、永遠に鳴り続けている気がしたから。
一瞬の、空白。譜面に書かれた、人工的な空白。
そうだとはわかっていても、僕はこの空白に震えを感じた。恐怖ではない。感動だった。世の中には、こんなにも輝かしいハーモニーがあるのかと、感じられたからだった。
最後に、僕のソロパートがあった。たった数小節分だけれど、僕にとって心地よい時間。僕の思い通りに弾ける時間。
クライマックスのときとのメリハリをつけて、優しい音を鳴らす。保健室にいるであろう水瀬に、そっと話しかけるように。
そして、僕は最後の1音を弾き終えた。鮮やかなpを、表現出来たと思う。
指揮者は、手をゆっくりと下ろした。それと同時に、僕もピアノから手を離した。名残惜しいような、そんな感覚を覚えた。
遂に、終わった。
終わって、しまった。
そんな風に思ったのは、今回が初めてでだった。今まで、ピアノを楽しく弾いていたときでも、感じたことのない感情。
そっと立ち上がり、礼をする。今までの全ての感謝を込めて。
拍手の波は1度響くと、体育館中に数十秒も響いた。
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