鍵盤上の踊り場の上で

紗由紀

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第5章 Duet

信じる

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走りながらスマホを操作し、水瀬に電話をかける。電話を繋げているコール音が無機質に響いた。長く、無心に。
プツリと音が鳴ったのを聞き、僕は無意識に話し出していた。
「水瀬、今すぐ学校に来い。早く」
水瀬は、何も話していなかった。それでも、僕は言葉を紡いでいく。いつか、水瀬が何度も僕に話しかけてくれたように。
水瀬が来ないなら、僕から行くように促せばいいのだ。水瀬が不安がっているのなら、僕がその拠になればいいのだ。水瀬がいつか、僕にそうしたように。どうして、そんな簡単なことに気がつかなかったのだろうか。こうしていればきっと、水瀬をこんなにも長い期間沈んだ気持ちにさせることもなかった。自分に後悔したけれど、過去を振り返っても意味は無い。僕は今の水瀬に言葉を送った。
「僕は、水瀬のおかげでピアノを好きになることができた。ピアノの愛し方を知った。昔の、音楽を愛していた頃の自分のようになれた」
僕は走りながら、言葉を続ける。どこに向かっているかもわからず。息が切れそうになりながらも、それでも伝えたい言葉があるから。
「わかったんだ。水瀬の言ってた『大好きな音』が。水瀬、僕の好きな音は──」
僕は、水瀬にだけわかるように。耳元で呼びかけるように言った。
ずっと探していた。
僕の好きな音はなんだろうと。僕がピアノを弾く意義はなんだろうと。
今、やっと答えが見えた。
その先の答えを聞いた水瀬は、息を飲み込んでいた。
一瞬の沈黙があった後、プツリと音が鳴った。水瀬に電話を切られてしまったようだった。
ただ、信じた。
水瀬が来てくれることを信じた。
先生だって、僕だって。諦めかけたけど、それでも今は信じていたかった。
大丈夫だ。水瀬なら来る。絶対に来る。先生も信じていたし、僕も、信じているから。
水瀬はあんなにピアノが好きだったのだから。ピアノに愛されていたのだから。今は、ピアノが好きではない時期なのかもしれないけれど、あんなにピアノが好きな時期があったのだから。あんなに、ピアノにひたむきになったときがあったのだから。
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