恋する狼と竜の卵

ミ度

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6.悪夢



 下腹へのしかかる柔らかな重みに、フェンリルは目蓋を持ち上げる。最初、無断で部屋に入ってきた娼婦が股がっているのかと思った。
 しかし、その考えはすぐに否定した。いくら疲れているとはいえ、自分たちが侵入者の気配に気づかないわけがないのだから。
 それに……。
 窓から差し込む月明かりに照らされる毒のある美貌、きわどい黒のボンテージに包まれた豊麗な肢体、山羊の角、蝙蝠の翼。この女は娼婦ではない。
 ──魔族だ。
 反射的に押し退けようとしたが……。
(身体が動かねえ)
 幸いにも目は動かせた。素早く周囲を見渡す。ここは宿屋のベッドの上。となりのベッドには、バアルがこちらに背中を向けた格好で眠っている。
 これは夢の中なのだと悟った。
「夢魔に会うのは初めてだ。噂以上にエロい身体してんだな」
「あら、ほめてくれてありがとう、狼さん」
 夢魔は形のよい唇で弧を描いた。獲物に淫らな夢を見せて、精気を吸いとる魔物。
「悪いがオレはくたびれてんだ。ロクなもてなしはできねえから、他をあたってくれや」
「あなたはとても魅力的だけど、今夜の用件はそっちじゃないわ」
「仕事の依頼か? なら尚更明日にしてくれ」
「うふふ、もう分かってるくせに……」
 フェンリルは内心舌打ちした。
「あたしのご主人様はとってもグルメなの。あの黒竜クエレブレの種からできた卵なら、きっと喜んでくださるわ」
「なんで卵のこと知ってる?」
「偉大な魂の誕生は、なんとなく分かるものなのよ。まぁ、魔族の全員が気づけるわけではないけど」
 口振りからしてこの女は、かなり高位の魔族だ。そして、そんな彼女が『ご主人様』と呼ぶ存在は、おそらく魔界の支配階級。厄介な連中に目をつけられてしまったようだ。
「ねえ、あたしに卵をちょうだい? いい加減、雑魚どもの相手も疲れたでしょう?」
「……あの迷惑な噂を流したのはお前か」
「ええ」
 女は悪びれもせずに認めた。
  ──クエレブレではなかったか……。
 その事実に、ほんの少しだが安堵する。ほとんど神に近いような黒竜よりも、魔族の方がまだやりあえる。
「あなたへの見返りだって、ちゃんと用意できてるのよ」
 女はフェンリルの胸元をなぞりながら、耳元に唇を寄せて艶っぽく囁いた。夢の中であるにも関わらず、彼女の肌からは、官能を呼び起こすような甘く熟れた匂いがする。夢魔のもたらす夢は相手の五感を支配するという話は本当のようである。
「お金はもちろん……毎晩、あなたの望む夢を見せてあげるわ」
 美女の姿が一瞬で変じた。金の髪は漆黒に、血のように赤かった瞳は蒼氷に、柔らかな女体は無駄のない引き締まった男のそれに……。
 フェンリルは思わず生唾を飲み込んだ。
 バアルの姿を模した彼女が艶然と微笑み、そして、
「フェンリル、卵のことなど忘れて、私と楽しもう」
 彼の声で甘く囁き、しなだれかかってくる。
頬に手を添えて甘やかな表情で覗き込まれると、腹の奥が熱く疼いた。くやしいが、声も、匂いも、バアルそのもの。頭では違うと分かっているのに、獣の本能がむしゃぶりつきたい衝動にかられる。
 しかし……。
「……ったく、ガワを作るなら中身もそれらしくしろよ。一度引き受けた仕事を放り出すあいつなんて、解釈違いもいいとこだ」
 同時に、怒りの感情が胸奥から噴き出してくる。
 フェンリルが恋い焦がれるバアルは、目先の欲望に囚われて、まだ生まれてもいない赤ん坊を見捨てるような男ではない。他者のために自己の損得を抜きに行動するバアルの生き方は、青く、危うく、それでいて眩しい。この女はそれを土足で踏みつけた。未来の伴侶への冒涜を、狼は許さない。
「ま、テメェみたいな下品なメスに、あいつの真似をしろってのが酷か」
「……取引しないつもり?」
「オレは強欲なんでね。夢ごときじゃ満足できねえんだ。現実で抱かなきゃ意味ねえだろうが」
 心底バカにしたように笑ってやると、バアルに化けた夢魔が、美しい眉をひそめた。瞳の温度が急激に冷えていく。通用しない技を続けるつもりはないのだろう。彼女はあっさりと変化を解いた。
「残念だわ。となりの坊やと違って、あんたは話の分かる男だと思ってたのに」
 となりでベッドが軋む音がした。ふいに濃密な性のにおいが鼻を掠めた。
「あっ、ぁ……ぅ、あ……」
 女のものにしては低い嬌声に心臓が凍りつく。邪悪な笑みを浮かべる女と視線がぶつかった。
 ──嫌だ。やめろ。やめろ!
「さあ、よぉくご覧なさい」
 夢魔に顎を掴まれ、無理やり見せつけられた光景は、まさに悪夢という他に例えようがなかった。
「あ、ぁっ、あっ、あっあっ、ぁん……ぃ、いぃ……そこ気持ちいい……っ」
 バアルが男に犯されて喘いでいた。
 仰向けの彼に覆い被さり、腰を振っているのはドミニクだ。
 怒りで全身の毛が逆立った。今すぐ飛び起きてドミニクを引き裂いてやりたいのに、身体はぴくりとも動かない。
「やめろ……っ!」
「ふふ、夢もなかなかバカにできないでしょう? 思ったよりいい反応をしてくれて嬉しいわ。『狼を殺すには番を傷つければいい。そうすれば、奴らは勝手に衰弱していく』。……たしか、百五十年前に吊るされた獣人狩りの言葉だったかしら?」
「へえ、物知りだな。なら、『狼は番を傷つけた奴を絶対に許さない』ってことも知ってるよなァ……!?」
 舌だけが器用に回るのが無力感に拍車をかける。しかし言わずにはいられない。抵抗せずにはいられない。
 フェンリルが低く唸りながら牙を剥いても、夢魔は涼しい顔を崩さない。ここは夢の中、彼女は絶対の支配者で、フェンリルは鎖に繋がれた飼い犬である。
「あんたの場合は番じゃなくて、片想いの相手だけどね」
 バアルの嬌声が激しさを増す。相手のことなど一切考えていない乱暴なピストンに泣いてよがっていた。
「く、口を……口を吸わせてください……」
 甘ったるく媚びた声音でドミニクにキスをせがむ。
 ドミニクが嘲るように笑う。
「奴隷の分際で、ワシの口づけが欲しいのか?」
「お願いします、ご主人様……」
 自分を性処理の道具として扱う男に、バアルの幻影が健気に愛を求める。
「しょうがない、ワシは慈悲深いからな。お情けでキスハメしてやるから、ケツの穴をしっかり締めておるんだぞっ」
「は、はい、締めます……ケツ穴ちゃんと締めますから……」
 見たくないのに顔を背けることができない。目蓋を閉じることさえ許されない。
 重なる唇。ぢゅるぢゅると唾液を啜る音が嫌になるほど大きく聞こえた。肉厚の唇で塞がれたバアルの唇の間から蕩けた声が漏れている。赤くヌラヌラとした舌が、まるで見せつけるように睦まじく絡みつく。『これは夢だ』といくら自身に言い聞かせても、においが、音が、光景が、『これは現実だ』と錯覚させる。憤怒と嫉妬、悲しみと焦燥がフェンリルの胸を掻きむしる。夢魔のことも、ドミニクの幻影も、今すぐ噛み千切ってやりたい。
「クールで綺麗な男の子が、醜い親父に媚びてとろとろになってるのって、たまんないわよねえ」
「殺すぞクソアマ……ッ!」
「これは罰よ。せっかくの提案を無下にしたあんたへの罰。こんなのまだ序の口よ? これから毎晩、いろんな悪夢を見せてあげる。楽しみにしてなさい」
 淫らでおぞましい幻影の中で、夢魔の嗤い声が響いた。

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