恋する狼と竜の卵

ミ度

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8.嵐の前



 十年前の春。
 北と南、それから東の地で、七獄王の内、《嫉妬》《強欲》《憤怒》の三柱がほぼ同時期に顕現するという悪夢が起こった。
 『ヴァルプルギス』とも総称されるこの戦争で、世界は多くの犠牲を払いながらも、辛うじて魔族を退けたのである。


※※※


 航海は不気味なほど順調だった。
 フェンリルは甲板に出ると、海を眺めているバアルのとなりに並んだ。
 空も海も眩しいほど青い。
「……眠れていないようだな」
 穏やかな海を眺めながら、バアルが言った。
 フェンリルの目の隈は深くなる一方で、毛並みも悪くなっている。
 しかし、当のフェンリルは明るく笑い飛ばした。
「お前とこんな遠出するのは初めてだからな。旅行みたいで浮かれてんだよ」
「……」
「心配すんな。コウゲツのところまでは持つさ。オレら獣人は、人間より頑丈にできてるからな。……ヴァルプルギスでもよ、作戦の関係で長いこと寝れねえ時期があったんだ。今回はゴールが見えてる分、あのときよりかなりマシさ」
「貴様も、あの戦争に参加したのか」
「そうか、この話はしてなかったな……。オレはデイビーと……それから親父や兄貴と一緒に、ファウナピアの防衛軍に参加したんだ」
 ファウナピアは北方の大国である。獣人族が興した最古かつ最大の国。フェンリルは、ファウナピア北端にある村で生まれ育った。
「オレらの国は、すべての獣人にとって聖地みたいな所だ。魔族なんぞに好き勝手させていい場所じゃねえ。たとえ、相手が七獄王だろうとな」
 ファウナピアを狙ったのは、《嫉妬》の大魔インウィディアレヴィアタン。そして、大魔が自身の器として選んだのは、隣国の皇帝だった。
「元から獣人嫌いな野心家で有名な皇帝サマだったからよ、こっちの将軍方も、最初は素面で戦争を吹っかけられたのかと思ってたんだ」
 魔導兵器や幽鬼兵の投入も、あの皇帝ならやりかねないという考えが、ファウナピア側にはあったのだが、帝国側の異変にいち早く気づいた者がいた。第一王子・ヴィルフレート、現在のファウナピア国王である。
「陛下がいなかったら、オレは今ここにいられたかどうか……」
 フェンリルは、デイビーから気休めにもらった葉巻に火をつける。
「あの戦争で親父は死んだ。別部隊だったオレは人伝に聞いた話だが、撤退する自分の部隊の殿をつとめて、見事にその責務を果たしたんだとよ」
「……勇敢な父君だ」
「おう、狼としてこれ以上ない立派な死に様だ。……だが、番としては最低だな」
 父のことは誇らしく思うと同時に、残された後の母のことを思うと、どうしても複雑な感情が込み上げてくる。
「親父が死んでから、おふくろは目に見えて弱っていった。番と死に別れて弱る狼は珍しくねえが、小さなガキのいる狼は、そうじゃないヤツより弱るスピードが遅いって言われてる。周りにも似たような境遇の連中がいたから、実際そうなんだろうよ」
「……」
「末の弟がまだ赤ん坊だった。だからオレも兄貴も油断してた。……親父とおふくろは、仲が良すぎたんだ。弟たちはチビでも、兄貴やオレが養っていけるくらい稼げてた。おふくろは心のどっかで、親父を追っても、家族は大丈夫だと思ったのかもしれねえ」
「……それで、母君は……」
「死んだよ。戦争が終わって一年後に」
 遠くを見つめて、煙の息を深く吐き出す。
「だからな、オレは……臆病者とか、卑怯者とか罵られようが、絶対に生き延びて、オレの番になるヤツを悲しませないって決めたんだ」
 ふと視線を感じて横を向くと、バアルと目が合った。何か言いたげな表情をしている。
「悪かった。つまんねえ話を聞かせたな」
「いや……私にも、その気持ちは、少し分かる。……十年前、私はタカアマノハラにいた」
「なに……!?」
 思わず声を上げてしまった。
 タカアマノハラは、オウリュウより更に東にある島国で、ヴァルプルギスにおける激戦区のひとつとして数えられている。
「お前の生まれ故郷か?」
「いや、亡くなった師匠の故郷だ。私は赤ん坊の頃に師に拾われたから、自分の生まれがどこなのか知らない」
「そうなのか」
「タカアマノハラを訪ねたのは、師の遺骨を埋めるためだ」
「なるほどな」
「……あの国は居心地がよかった。民は素朴で温かく……私にも、友と呼べる存在ができた。──だが、奴が来た。暴力と怨嗟を引き連れて……」
 そう話すバアルの声には、静かな怒りが滲んでいた。
 東方に降りかかった厄災のことは、フェンリルも知っている。
 七獄王の一柱、《憤怒》の大魔イーラサタンが、東方のとある国の元帥を器として顕現し、王族を傀儡化した。国の中枢を支配したサタンは、極東の島国タカアマノハラへ侵攻し、無辜の人々を蹂躙したのである。
「……霧が出てきたな」
 と言って、バアルは話を中断した。
 いつの間にか濃い霧が立ち込め、周囲が不吉な白に染まる。
 自然発生した霧ではない。
 硫黄の臭いを嗅ぎとって、フェンリルは舌打ちした。この不快な臭いは、魔族、幽鬼のものだ。
「せっかくお前が珍しく自分の昔話を聞かせてくれてたってのに……つくづく嫌な連中だ」
 低く呟く。
 葉巻を握り潰し、霧の向こうを睨みつけた。
 傍らでバアルが剣を抜く気配がした。
「──総員、位置につけ!!」
 船長の鋭い声が響き渡る。
 まもなく、黒く禍々しい船が姿を現した。


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