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4、贖罪、進展、再構築
二週間後、あの波打つ黒髪の彼女が来店した。いらっしゃいと声をかけると彼女は、店主の顔を見ずにどーもと言い、いつもの棚にまっすぐ進んだ。店主は頬を緩ませる。
よかった。また来てくれた。今日は余計なことは言わないぞ。
鼻歌を歌いたくなるほど心が弾む。歓喜の興奮を押しとどめ、店主はレジ横の椅子から立ち上がると、静かにリズミカルに身体を揺らしていた。
馴染みの男性が来店した。いらっしゃいと声をかけると、ぺこりと頭を下げてくれる。店内をぐるぐる回ってあちこちのコーナーに目を通したあと、漫画の新刊を買っていく。
次に来たのは中年のビジネスマン。趣味の釣りの雑誌をパラパラとめくり、棚に戻し、実用書のコーナーに向かう。何冊か手に取って品定めをするように見ているが、お気に召すものはなかったらしい。何も買わずに出ていった。
やがてあの彼女がレジに一冊の本を持ってきた。店主はにこにこしながら会計をする。
「やあ。この前はすまなかったね。あの三冊はお気に召したかな」
「まあね。悪くなかったわ。それほどハマりはしなかったけど」
「そうか。楽しめたなら良かった」
睨まれたら控えようと思っていたが、軽やかに返してくれたので、安堵よりも歓喜が上回る。カバーを付けるか尋ね、肯定されたのでつけようとして、今彼女が買おうとしている本のタイトルに気が付いた。
動きが止まり、思わず顔を上げて相手を見遣る。彼女と目が合い、言いかけた言葉を飲み込んだ。顔を伏せた店主に、彼女は言った。
「それは誰も死ななそうだけど分かった上で買うの。何でも死ねばいいってもんでもないわ。普通のラブストーリーだって読むこともあるわよ」
店主が何を言いかけたのか、わかったらしい。まさに店主が言おうとしたのはそのことだ。この本は彼女の言う通り死者は出ない。それはあらすじにも書いてある。一瞬彼女が気づかずに買おうとしているのかと思い、伝えるべきか迷ったのだ。言わなくて正解だった。
「ああ、そうだね」
カバーを付け、彼女に渡す。
「まいど」
「どうも」
店主は今日も際どい判断を間違えず、戦場を乗り切った。気分はとても晴れやかだった。
次に来店した彼女がレジに持って来たのは、ラブサスペンスではなくミステリー小説だった。
「新しいジャンルだね」
「まあね」
テンポのいい返しに、彼女との会話も以前より気さくなものになってくる。親しい中にも礼儀ありゆえ、馴れ馴れしくならないように気を付けながらも、少しずつ信頼関係が育っている気がした。レジを打とうとして、ふと気付く。
「このシリーズ四作目だけど、前作はもう読んだかい?」
「これは短編集なんでしょ。シリーズを知らない読者も楽しめるって書いてあるから買ってみるのよ」
「確かにそうなんだけど、先に一から三巻まで読んでおいた方が楽しめるんじゃないかな。一巻の前日譚とか、二巻で出てくる人物の裏話とか、三巻の事件の別視点とかもあるから」
「は? 何それ、そんなのあり? なんでそんなに前作が絡んでくるのよ。単独でも楽しめるんじゃないの?」
「もちろん単独でも楽しめるよ。絡んでくるって言っても、ちらっと数行出てくるだけなんだけどね。一から三までは文庫版もあるから、なんならそっちを先に読んだ方が」
彼女の目つきが鋭くなり、無言の圧力を感じた。これはまずい。またやってしまったかもしれない。
「……いや、先にこちらを読んでから前作を読んでもいいよね。どういう順番で読むかは君の自由だ。それでも内容は問題ないし、知らなくても話は通じるし、もちろん読まなくたって」
「一巻から三巻までも頂戴」
「承知しました」
「文庫版でいいわ。重いから」
「了解」
結局彼女は四冊を同時購入した。
後日、レジにビジネス書を持って来た彼女は、店主を睨むように真正面から見据えて腕を組み、威圧的に問いかけた。
「何か補足は?」
何かあるなら先に言えという彼女の思いが伝わってくる。その瞳の奥には、文句が無ければ何も言うなという強い意志も宿っている。彼女と仲良くなれた気がしていたが、そうではなかったようだ。やはり普段のおしゃべりは迷惑だったのかもしれない。
「いや、何も」
「そう」
無事に会計を終え、彼女は去った。
後日、ラブサスペンス小説を二冊レジに持って来た時、彼女はショルダーバッグから財布を出しながら問うてきた。
「これはヒロイン死ぬ?」
予想外の問いに言うべきか否か逡巡する。これはもしかして試されているのだろうか。ここで判断を間違えるわけにはいかない。
「どうせ読んで知ってるんでしょう。私はサスペンスで誰か死ぬのは好きだけど、ヒロインが死ぬのは読みたくないの」
前にもそう言っていたのは覚えている。
「どちらも死なない」
「じゃあ買うわ」
これは信頼の証なのだろうか。けれど表情は不機嫌そうだ。怒っているのかもしれない。
「この作者好きなのかい?」
「まあね。まだ五冊くらいしか読んでないけど」
彼女の持って来た二冊は同一作者のものだった。ゆっくりとレジを打つ店主に、彼女は身を乗り出した。
「また何か言いたいことでも?」
「い、いや」
「言いたいなら言いなさいよ。今更でしょ」
怒っているというか、呆れているのだろうか。彼女は睨み上げるような体勢で情報を待っている。
「あ、ああ、この作者と他の作者が共同制作したミステリー小説があって、別の棚にあるんだがそれはもう読んだかい?」
「知らないわ」
「好みかもしれないから、どうかなと思って」
数秒の沈黙の末、彼女は、ふうん、と悪くはなさそうなそぶりを見せた。
「ええっと、ちょっと持ってくるね」
棚からそれを持ってくると、彼女があらすじを読み終わるのを大人しく見守った。
「そうね。確かにちょっと面白そう。文庫版にもなってるし。いいわ。これもお願い」
「まいど」
つんとした態度で立ち去る彼女を、店主は達成感にも似た気持ちで見送った。
よかった。また来てくれた。今日は余計なことは言わないぞ。
鼻歌を歌いたくなるほど心が弾む。歓喜の興奮を押しとどめ、店主はレジ横の椅子から立ち上がると、静かにリズミカルに身体を揺らしていた。
馴染みの男性が来店した。いらっしゃいと声をかけると、ぺこりと頭を下げてくれる。店内をぐるぐる回ってあちこちのコーナーに目を通したあと、漫画の新刊を買っていく。
次に来たのは中年のビジネスマン。趣味の釣りの雑誌をパラパラとめくり、棚に戻し、実用書のコーナーに向かう。何冊か手に取って品定めをするように見ているが、お気に召すものはなかったらしい。何も買わずに出ていった。
やがてあの彼女がレジに一冊の本を持ってきた。店主はにこにこしながら会計をする。
「やあ。この前はすまなかったね。あの三冊はお気に召したかな」
「まあね。悪くなかったわ。それほどハマりはしなかったけど」
「そうか。楽しめたなら良かった」
睨まれたら控えようと思っていたが、軽やかに返してくれたので、安堵よりも歓喜が上回る。カバーを付けるか尋ね、肯定されたのでつけようとして、今彼女が買おうとしている本のタイトルに気が付いた。
動きが止まり、思わず顔を上げて相手を見遣る。彼女と目が合い、言いかけた言葉を飲み込んだ。顔を伏せた店主に、彼女は言った。
「それは誰も死ななそうだけど分かった上で買うの。何でも死ねばいいってもんでもないわ。普通のラブストーリーだって読むこともあるわよ」
店主が何を言いかけたのか、わかったらしい。まさに店主が言おうとしたのはそのことだ。この本は彼女の言う通り死者は出ない。それはあらすじにも書いてある。一瞬彼女が気づかずに買おうとしているのかと思い、伝えるべきか迷ったのだ。言わなくて正解だった。
「ああ、そうだね」
カバーを付け、彼女に渡す。
「まいど」
「どうも」
店主は今日も際どい判断を間違えず、戦場を乗り切った。気分はとても晴れやかだった。
次に来店した彼女がレジに持って来たのは、ラブサスペンスではなくミステリー小説だった。
「新しいジャンルだね」
「まあね」
テンポのいい返しに、彼女との会話も以前より気さくなものになってくる。親しい中にも礼儀ありゆえ、馴れ馴れしくならないように気を付けながらも、少しずつ信頼関係が育っている気がした。レジを打とうとして、ふと気付く。
「このシリーズ四作目だけど、前作はもう読んだかい?」
「これは短編集なんでしょ。シリーズを知らない読者も楽しめるって書いてあるから買ってみるのよ」
「確かにそうなんだけど、先に一から三巻まで読んでおいた方が楽しめるんじゃないかな。一巻の前日譚とか、二巻で出てくる人物の裏話とか、三巻の事件の別視点とかもあるから」
「は? 何それ、そんなのあり? なんでそんなに前作が絡んでくるのよ。単独でも楽しめるんじゃないの?」
「もちろん単独でも楽しめるよ。絡んでくるって言っても、ちらっと数行出てくるだけなんだけどね。一から三までは文庫版もあるから、なんならそっちを先に読んだ方が」
彼女の目つきが鋭くなり、無言の圧力を感じた。これはまずい。またやってしまったかもしれない。
「……いや、先にこちらを読んでから前作を読んでもいいよね。どういう順番で読むかは君の自由だ。それでも内容は問題ないし、知らなくても話は通じるし、もちろん読まなくたって」
「一巻から三巻までも頂戴」
「承知しました」
「文庫版でいいわ。重いから」
「了解」
結局彼女は四冊を同時購入した。
後日、レジにビジネス書を持って来た彼女は、店主を睨むように真正面から見据えて腕を組み、威圧的に問いかけた。
「何か補足は?」
何かあるなら先に言えという彼女の思いが伝わってくる。その瞳の奥には、文句が無ければ何も言うなという強い意志も宿っている。彼女と仲良くなれた気がしていたが、そうではなかったようだ。やはり普段のおしゃべりは迷惑だったのかもしれない。
「いや、何も」
「そう」
無事に会計を終え、彼女は去った。
後日、ラブサスペンス小説を二冊レジに持って来た時、彼女はショルダーバッグから財布を出しながら問うてきた。
「これはヒロイン死ぬ?」
予想外の問いに言うべきか否か逡巡する。これはもしかして試されているのだろうか。ここで判断を間違えるわけにはいかない。
「どうせ読んで知ってるんでしょう。私はサスペンスで誰か死ぬのは好きだけど、ヒロインが死ぬのは読みたくないの」
前にもそう言っていたのは覚えている。
「どちらも死なない」
「じゃあ買うわ」
これは信頼の証なのだろうか。けれど表情は不機嫌そうだ。怒っているのかもしれない。
「この作者好きなのかい?」
「まあね。まだ五冊くらいしか読んでないけど」
彼女の持って来た二冊は同一作者のものだった。ゆっくりとレジを打つ店主に、彼女は身を乗り出した。
「また何か言いたいことでも?」
「い、いや」
「言いたいなら言いなさいよ。今更でしょ」
怒っているというか、呆れているのだろうか。彼女は睨み上げるような体勢で情報を待っている。
「あ、ああ、この作者と他の作者が共同制作したミステリー小説があって、別の棚にあるんだがそれはもう読んだかい?」
「知らないわ」
「好みかもしれないから、どうかなと思って」
数秒の沈黙の末、彼女は、ふうん、と悪くはなさそうなそぶりを見せた。
「ええっと、ちょっと持ってくるね」
棚からそれを持ってくると、彼女があらすじを読み終わるのを大人しく見守った。
「そうね。確かにちょっと面白そう。文庫版にもなってるし。いいわ。これもお願い」
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