100日後に死ぬ彼女

変愚の人

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「今日も仕事なの?」

ジャケットを着る私に、妻の明美が不機嫌そうに訊いた。

「ああ。茅場町の再開発案件、進捗状況を確認しなければならないんでね」

「わざわざあなたが行く必要あるの?来年の春には執行役員になるというのに」

「現場に行かないのは、プロジェクト管理者としては失格だからな」

「そんなだから、篤があなたになつかないのよ。父親はずっと、家に寄りつかないものだと思ってる」

明美が吐き捨てるように言った。

二重の意味で、少し心が痛んだ。まず、明美の言うことは正しい。私はこれまで、父親として息子に何をしてやったのだろう。
一緒の時間を作れない分、明美と篤には十分な暮らしをさせているとは思う。
だが、夫としても、父としても、私は控えめに言って失格だろう。そのことに負い目を感じていないとは言えない。

そして、もう一つ。……仕事の件は、噓だ。

篤の部屋をチラリと見る。机に向かったまま、私の方はチラリとも見ない。私の存在は、彼にとっていないも当然なのだろう。そのことに、再び痛みを覚えた。


だが、こんな生活でも、なくなるよりはずっとマシだ。


私は駐車場に向かい、クラウンのスターターボタンを押す。向かう先は、もちろん茅場町ではない。丸井の自宅がある、大泉学園だ。

*

「よう、もう大仏と沢村は来てるぜ」

丸井が笑顔で出迎えた。

「忙しいところすまない」

「いや、いいってことよ。まあ、緊急事態だしな。ここなら誰かに聞かれる恐れは、万が一にもない」

丸井は居間に私を通す。そこには、全自動の雀卓があった。

「懐かしいな。卓を囲むのは、5年ぶりか」

「だな。俺以外全員所帯を持って、賭け麻雀もしにくくなっちまったからな」

柳沢が、不安そうに俺を見る。

「目的は麻雀じゃないだろ?早く、本題に移ろう」

「まあまあ。嫌な話だからこそ、楽しい空気の中やりたいじゃないか」

丸井は相変わらず軽いノリで、麻雀牌を全自動卓にセットする。
こいつはどんな時でも、深刻そうな顔を見せない。その余裕と能天気さは彼の長所だったが、さすがに今日に限ってはイラっと来る。

「で、賭けるのか?俺は立場上、もう無理だぞ。国交省官僚がゼネコンやデベロッパーと賭け麻雀なんてマスコミにバレたら……」

「大仏ちゃん、もっとバレちゃまずいことを隠してて何を言うんだよ。ま、俺もそのつもりはないがね」

「確かに、な。……繰り返すが、誰も例の件については漏らしてないな」

理牌しながら、私は頷いた。配牌はかなり良くない。

「先週の日曜、私に『アイ』と名乗る人物からメールが来た。それは話した通りだ。
エバーグリーン自由ケ丘の耐震偽装について、内部告発を促すメールだ」

「それは聞いた。だからこうして集まったんだろ?あの事実を知っているのは、俺たち4人だけだからな」

柳沢が北を切る。「ポン」と、大仏が発声した。

「証拠の隠滅は、完璧だったのか?特に沢村、設計のデータはお前が持っていたはずだぞ」

「そこにぬかりがあると思うか?あれからすぐに、ハードディスクごと処分したよ。データ復旧ができないように、しっかり粉々に砕いてな。
データという意味じゃ、丸井。お前の所も大丈夫か?バックアップ残してないといけなかったはずだぞ」

苛立った様子で、沢村が南を強打する。丸井が肩をすくめた。

「データの改竄は完璧だぜ?だから10年間、誰も気付かなかった。そして気付きようがない。
ぶっちゃけ、良心の呵責に耐えかねて、自分から漏らす以外にはバレようがない。で、お前らが今更そんなことをするとも思えない」

「確かにな。一番ありそうなのは水元、お前だが」

大仏が私を睨んだ。私は眉を潜めて、九索を切る。

「どうして私なんだ」

「お前があの時、一番渋ってたからだよ。お前のチキンさは、学生時代からよく知ってる」

「私が漏らす意味が、今更どこにある?それに、なぜあのメールが私の所にしか来ていない?お前らの所にも来たなら、自作自演を疑われても仕方ないが」

そう、「アイ」のメールは私の所にしか届いていなかった。それが非常に不可解だ。

「そこだよ。『アイ』ってのに、心当たりはないんだろ?」

丸井に私は頷いた。

「そもそもフリーメールのアドレスからだった。全く心当たりはない」

「意味が分からないな。っと、それロンな。3900」

「真面目に麻雀やれるお前のメンタル、どうなってるんだよ。俺たちはマジな話してるんだぞ?」

大仏は点棒を放り投げるように卓に置いた。

「俺もちゃんと真剣だぜ?何せ、俺も含め全員の破滅につながりかねない話だからな。
とりあえず、『アイ』って奴の正体は分からん。問題は、これからだ」

「違いないな。水元、もちろん返事は返してないな」

私は強く首を縦に振った。

「当たり前だ。黙殺しないでどうする?」

「そりゃそうだな。問題は、『アイ』が単独でマスコミにたれ込んだ場合だが……」

大仏の言葉に、柳沢がふうと息を吐いた。

「まず、大丈夫のはずだ。偽装の証拠となるデータはどこにもない。エバーグリーン自由ケ丘の住民からも、クレームが出ているわけじゃないんだろ?
あれの立証は、かなり手間がかかるはずだ。大規模な非破壊検査をして、それでようやく気付く程度でしかない。
メディアが記事にするには裏取りが必要だが、具体的な問題が発生していない限りは動けないだろ」

「根拠なく『飛ばす』かもしれないぞ?」

「それをやるのは三流ゴシップ誌だけだな。新聞はもちろん、『文潮』のような有力週刊誌が書くとは思えない」

「随分自信たっぷりだな、柳沢」

「そりゃ、マスコミ慣れはそこそこしているんでね。どのぐらいのネタならどこが食いつくかは分かる」

具体的な問題、か。もしクレームが発生すれば、子会社の三友プロパティマネジメントにまず話が行くはずだ。
この10年間、そんな話は聞いたことがない。子会社が握りつぶしていなければ、だが。

私は牌山からツモを取った。赤五萬、絶好の引きだ。

「とりあえず、引き続き探ってみる。リーチ」

「おいおい、そんなに早いのかよ水元ちゃん。……ま、経過観察が妥当だな。クレームが発生したら、すぐに俺たちに上げてくれ。対処を考えよう」

丸井が真剣な表情になって、俺たちを見渡した。確かに、何かがすぐに起きるとは考えにくい。
しかし、私にはどうにも引っかかった。「アイ」はなぜ、あそこまで具体的に知っている?

「対処って何だ」

「まあ、そこは俺に任せてくれ。お、ツモった。悪いな水元ちゃん、300、500だ」

丸井には相変わらず余裕があるようだ。何か腹案でもあるのだろうか。私は首をかしげながら、100点棒5本を彼に渡した。

*

麻雀は半荘1回で終わった。その後、飲まないかと丸井に誘われたが、車で来ている以上受けるわけにもいかない。
丸井のウイスキーコレクションは大変魅力的だったが、それはまたの機会にとその場を辞した。
アリバイ作りに一応茅場町に寄って、簡単に視察をした後みなとみらいの自宅に戻った。夕方前の帰宅に明美は訝しげだったが、気にしても仕方がない。

私は書斎に入り、ノートPCを開いた。まさか、また「アイ」からのメールが来ているなんてことは……



「水元敬士様へ」


血が一気に引いた。このアドレスは……「アイ」だ。慌ててメールを開く。

*

水元様

再度のメール、失礼いたします。ご返信がないようでしたので、改めてご連絡差し上げました。
まだ、決心はついておられないでしょうか。心中お察しします。
ただ、繰り返しますが本件は人命に関わる話です。万一のことがあれば、数百人の犠牲が出ることは想像に難くありません。
マスコミへのリークは、無駄と心得ております。あなたの良心だけが頼みなのです。

なお、このメールを無視された場合、2週後に強硬手段を執らせていただきます。
無論、どなたかに相談された場合も同様です。
あまり手荒なことをしたくはございません。

もし、ご決心がつきましたら埼玉県鶴ケ島市の「カフェ・ドゥ・ポアロ」をお訪ねになってください。
そこで、私の代理がお話をさせていただきます。遠方になり大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。

アイ

*

私は、椅子から転げ落ちそうになった。強硬手段、だと?
まさか、私に危害を加えるとでもいうのか?

そして、もう一つ。誰かに相談した場合でも、強硬手段を執ると書いてある。まさか、私は監視されているのか?あるいは、今日のことも……


45年間生きてきて、感じたことのない恐怖が全身を襲った。こいつは、一体何者なのだ??


私はノートPCを閉じ、目を固く閉じた。「アイ」の誘いに乗れば、きっと今の生活は破綻するだろう。だが、乗らなくても結果は同じなのか?
このメールがブラフであることを、強く願った。いや、恐らくはブラフだ。企業の一社員を、簡単に監視などできるはずがない。


だが、この脅しが本物ではないという確証も、またないのだった。


幸い、まだ2週間の猶予がある。あるいは、この間に身の振り方を考えておけ、ということなのか。

*



その日の夜、睡眠薬のレンドルミンは一切効かなかった。



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