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第一章 うつけ信長、我が道を行く!
第九話 帰蝶の危機! 決死の木曽川越え
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美濃と尾張との間には、大河が悠々と横たわっている。
信濃国・鉢盛山を水源とし、渓谷を縫うが如く流れて伊勢湾に注ぐという木曽川である。
そんな木曽川の本流だが、春の雪解けのころから増水し始めるという。
幹川の揖斐川や長良川はそれほど長い川ではないというが、上流に大雨が降ると忽ち増水、特に長良川は上流の飛騨山地の水を一気に下流に流すため「暴れ川」と呼ばれているという。
そんな木曽川を目前にして、美濃からの一行は足止めされていた。
足止めをしてきたのは、雑兵のような身なりの男数名。
尾張・織田弾正忠家当主、織田信秀と、美濃・斎藤道三との間に結ばれることになる和睦のため、道三の娘・帰蝶は信秀の第二子・信長に嫁ぐことになった。
それがこの日である。
「大人しく、我々と来ていただこうか? 姫よ」
従わねば力ずくで連れて行くと言いたげな男たちの態度に、護衛の稲葉良通らは腰の刀に手を掛けた。
国境まで尾張方の迎えが来るとは帰蝶も聞いていたが、彼らではないだろう。稲葉は尾張の罠だと言ったが、どう見ても尾張側には見えない。
では、彼らは何者か。
既にこちらが美濃・斎藤家だと知っていて、この日が婚礼だと知り得る者。
それは誰か。
「姫をお守りせよ!」
斬り合いに発展した両者だが、帰蝶に随行している共の多くは実戦の経験が皆無に等しく、合戦の経験がある稲葉良通、安藤守就、氏家直元だけでは限界があった。
「帰蝶さま、お逃げください!」
「楓!」
帰蝶を護るように、楓が盾となった。
楓もまた、哀れな女である。
忍びの家に生まれ、女であっても主君の盾となって戦うことを義務付けられた。それでも楓は、それが私の使命と言い切る。
しかし帰蝶は逃げろと言われて、逃げる女ではなかった。
ついに、あの懐剣を抜いたのである。
――万が一のときは……。
そういって道三に渡された、黒漆に蝶の金蒔絵が施された懐剣。
「やむを得ん……」
帰蝶が応じないとわかったか、雑兵を率いていた男が顎をしゃくる。
「帰蝶さまに触れはさせぬ!」
「楓!」
楓の短刀が雑兵の一人を切り裂く。
だが、雑兵の数は減らない。
今から稲葉山城に報せに走ったとしても、間に合わないだろう。
もし自分が死ねば、父はどうするだろう。
帰蝶は、冷静だった。
賊に従うつもりはなく、戦うことを決めた帰蝶はふと、父・道三がどう思うか考えた。
帰蝶は幼い時からおてんば娘であった。木登りをしては侍女を困らせ、道三といえば「さすがわしの娘よ」と笑っていた。
やはり、今回も笑うのだろうか。
「帰蝶さま!!」
楓の悲痛な叫びに我にかえれば、まさに男の刀が振り下ろされる瞬間だった。
◆
美濃・稲葉山城――。
帰蝶が稲葉山城を出て行ってから一刻、道三は天守から尾張の方角を見ていた。
娘・帰蝶のことを想っているのか、それとも和睦の成功か、はたまた次なる合戦への構想か、その心の中は誰にもわからない。
道三を離れたところから見つめながら、斎藤義龍は眉を寄せた。
そんな義龍の背後に、男が片膝をついた。
「義龍さま」
「どうであった?」
「土岐さまのご家来衆は、動かれなかったようにございます」
「父上を恐れてのことだろう」
元美濃守護・土岐頼芸は、道三に追放されて今は近江国にいる。
その頼芸にむけ、義龍は密書を送った。
妹・帰蝶がこの日、尾張に嫁ぐため木曽川を越える――と。
ただそれだけだが、義龍は頼芸が美濃に戻ることを諦めていないと考えた。ならば、帰蝶を捕らえて人質とし、道三に対して挑んでくるだろうと。
だがさすが元とはいえ守護大名、手を汚すのは足がつかぬ者たちに任せたようだ。
「ですが――」
国境まで様子を見に行っていた男は不安げだ。
「土岐さまに書状を送ったことが父上に知られないかと? ふん、父上はまさかこの私が土岐さまをたきつけたなど思うまい。帰蝶には、悪いことをしたとは思うが」
土岐頼芸の背を押したのは、義龍である。
身内を策に利用するのは、この世では珍しくはない。故に妹である帰蝶を、義龍も利用した。
そもそも義龍は、今回の尾張との和睦は反対であった。
この際、敵は一つでも多く減らしておくべきだ。義龍はそう思っている。
元美濃守護・土岐頼芸をたきつけたのは彼の守護復帰を思ってのことではなく、この際に守護復帰を諦めぬ頼芸も討たれれば幸いと思ってのことだ。
――私は私なりに、この美濃のことを思っているのです。父上。
義龍は、道三を見据えた。
彼の視線は、まだ尾張の方角に向けられたままだ。
なのに、義龍に向けられる道三の目は厳しく、口調も冷たい。
今回の画策にあたり、証拠は一切消した。道三に露見することはないだろう。
――認めさせてやる……! この義龍があなたの後を継ぐに相応しい男だということを!
義龍は道三に背を向け、その場をあとにした。
◆◆◆
木曽川国境では、乱闘が続く。
帰蝶に振り下ろされようとしていた刀は、ピタリと真上で止まった。
男は信じられぬといった顔で「うっ」と呻き、そのまま倒れた。背には矢が刺さっている。帰蝶は矢が放たれた方向へと視線を運び、目を見開いた。
そこには、騎乗の四人の男がいた。
矢を放ったのは、中心にいた男で帰蝶が変わらなそうな若い男で、緋と鬱金色の小袖を片肌脱ぎにしていた。
「な、何者だ!?」
稲葉たちが身構える。
「人様の土地で、賊が悪さをしていると聞いたんでな」
帰蝶たちを襲ってきた雑兵は、ほとんど彼らに倒されていた。
動揺する者が多い中、帰蝶は違う意味で動揺していた。
実は彼女が木曽川にきたのは、これが初めてではない。
帰蝶は今回の輿入れの際、どうしても相手のことを知っておきたくなった。二度の婚姻のときは幼かったこともあり道三の言うがままに従ったが、今回夫となる織田信長という男はうつけだという。とてもうまくいくとは思えなかったが、否と言える立場ではない。 帰蝶は尾張まで見に行くと、楓に言った。当然反対されたが帰蝶の決心は変わらず、男装して木曽川に来たのだ。
その時出会ったのが、その風変わりな男であった。
ただそのときは帰蝶としてではなく、楓としてだったが。
「おのれ……、邪魔だて致すとは……」
雑兵たちは、歯軋りをしている。
「文句があるなら、いつでも那古野城に来るといい。織田軍を相手にする勇気があるならな」
「お、織田――!?」
「俺は那古野城主・織田三郎信長だ」
その名乗りに、雑兵たちはもちろん美濃方にも動揺が広がった。
「乗れ。帰蝶!」
馬上から差し出される手に、帰蝶に迷いはなかった。
忽ち信長の背の人となった帰蝶に、斎藤家家臣が慌て始めた。
「ま、待たれよ! 我が姫をどうされるおつもりか!?」
「愚問だな」
信長が嘲笑って、手綱を引く。
ただ帰蝶に随行していた家臣たちの災難は、賊との交戦冷めやらぬうちに、信長に連れ去られた帰蝶のあとを追わせられるという事態が待っていた。
信濃国・鉢盛山を水源とし、渓谷を縫うが如く流れて伊勢湾に注ぐという木曽川である。
そんな木曽川の本流だが、春の雪解けのころから増水し始めるという。
幹川の揖斐川や長良川はそれほど長い川ではないというが、上流に大雨が降ると忽ち増水、特に長良川は上流の飛騨山地の水を一気に下流に流すため「暴れ川」と呼ばれているという。
そんな木曽川を目前にして、美濃からの一行は足止めされていた。
足止めをしてきたのは、雑兵のような身なりの男数名。
尾張・織田弾正忠家当主、織田信秀と、美濃・斎藤道三との間に結ばれることになる和睦のため、道三の娘・帰蝶は信秀の第二子・信長に嫁ぐことになった。
それがこの日である。
「大人しく、我々と来ていただこうか? 姫よ」
従わねば力ずくで連れて行くと言いたげな男たちの態度に、護衛の稲葉良通らは腰の刀に手を掛けた。
国境まで尾張方の迎えが来るとは帰蝶も聞いていたが、彼らではないだろう。稲葉は尾張の罠だと言ったが、どう見ても尾張側には見えない。
では、彼らは何者か。
既にこちらが美濃・斎藤家だと知っていて、この日が婚礼だと知り得る者。
それは誰か。
「姫をお守りせよ!」
斬り合いに発展した両者だが、帰蝶に随行している共の多くは実戦の経験が皆無に等しく、合戦の経験がある稲葉良通、安藤守就、氏家直元だけでは限界があった。
「帰蝶さま、お逃げください!」
「楓!」
帰蝶を護るように、楓が盾となった。
楓もまた、哀れな女である。
忍びの家に生まれ、女であっても主君の盾となって戦うことを義務付けられた。それでも楓は、それが私の使命と言い切る。
しかし帰蝶は逃げろと言われて、逃げる女ではなかった。
ついに、あの懐剣を抜いたのである。
――万が一のときは……。
そういって道三に渡された、黒漆に蝶の金蒔絵が施された懐剣。
「やむを得ん……」
帰蝶が応じないとわかったか、雑兵を率いていた男が顎をしゃくる。
「帰蝶さまに触れはさせぬ!」
「楓!」
楓の短刀が雑兵の一人を切り裂く。
だが、雑兵の数は減らない。
今から稲葉山城に報せに走ったとしても、間に合わないだろう。
もし自分が死ねば、父はどうするだろう。
帰蝶は、冷静だった。
賊に従うつもりはなく、戦うことを決めた帰蝶はふと、父・道三がどう思うか考えた。
帰蝶は幼い時からおてんば娘であった。木登りをしては侍女を困らせ、道三といえば「さすがわしの娘よ」と笑っていた。
やはり、今回も笑うのだろうか。
「帰蝶さま!!」
楓の悲痛な叫びに我にかえれば、まさに男の刀が振り下ろされる瞬間だった。
◆
美濃・稲葉山城――。
帰蝶が稲葉山城を出て行ってから一刻、道三は天守から尾張の方角を見ていた。
娘・帰蝶のことを想っているのか、それとも和睦の成功か、はたまた次なる合戦への構想か、その心の中は誰にもわからない。
道三を離れたところから見つめながら、斎藤義龍は眉を寄せた。
そんな義龍の背後に、男が片膝をついた。
「義龍さま」
「どうであった?」
「土岐さまのご家来衆は、動かれなかったようにございます」
「父上を恐れてのことだろう」
元美濃守護・土岐頼芸は、道三に追放されて今は近江国にいる。
その頼芸にむけ、義龍は密書を送った。
妹・帰蝶がこの日、尾張に嫁ぐため木曽川を越える――と。
ただそれだけだが、義龍は頼芸が美濃に戻ることを諦めていないと考えた。ならば、帰蝶を捕らえて人質とし、道三に対して挑んでくるだろうと。
だがさすが元とはいえ守護大名、手を汚すのは足がつかぬ者たちに任せたようだ。
「ですが――」
国境まで様子を見に行っていた男は不安げだ。
「土岐さまに書状を送ったことが父上に知られないかと? ふん、父上はまさかこの私が土岐さまをたきつけたなど思うまい。帰蝶には、悪いことをしたとは思うが」
土岐頼芸の背を押したのは、義龍である。
身内を策に利用するのは、この世では珍しくはない。故に妹である帰蝶を、義龍も利用した。
そもそも義龍は、今回の尾張との和睦は反対であった。
この際、敵は一つでも多く減らしておくべきだ。義龍はそう思っている。
元美濃守護・土岐頼芸をたきつけたのは彼の守護復帰を思ってのことではなく、この際に守護復帰を諦めぬ頼芸も討たれれば幸いと思ってのことだ。
――私は私なりに、この美濃のことを思っているのです。父上。
義龍は、道三を見据えた。
彼の視線は、まだ尾張の方角に向けられたままだ。
なのに、義龍に向けられる道三の目は厳しく、口調も冷たい。
今回の画策にあたり、証拠は一切消した。道三に露見することはないだろう。
――認めさせてやる……! この義龍があなたの後を継ぐに相応しい男だということを!
義龍は道三に背を向け、その場をあとにした。
◆◆◆
木曽川国境では、乱闘が続く。
帰蝶に振り下ろされようとしていた刀は、ピタリと真上で止まった。
男は信じられぬといった顔で「うっ」と呻き、そのまま倒れた。背には矢が刺さっている。帰蝶は矢が放たれた方向へと視線を運び、目を見開いた。
そこには、騎乗の四人の男がいた。
矢を放ったのは、中心にいた男で帰蝶が変わらなそうな若い男で、緋と鬱金色の小袖を片肌脱ぎにしていた。
「な、何者だ!?」
稲葉たちが身構える。
「人様の土地で、賊が悪さをしていると聞いたんでな」
帰蝶たちを襲ってきた雑兵は、ほとんど彼らに倒されていた。
動揺する者が多い中、帰蝶は違う意味で動揺していた。
実は彼女が木曽川にきたのは、これが初めてではない。
帰蝶は今回の輿入れの際、どうしても相手のことを知っておきたくなった。二度の婚姻のときは幼かったこともあり道三の言うがままに従ったが、今回夫となる織田信長という男はうつけだという。とてもうまくいくとは思えなかったが、否と言える立場ではない。 帰蝶は尾張まで見に行くと、楓に言った。当然反対されたが帰蝶の決心は変わらず、男装して木曽川に来たのだ。
その時出会ったのが、その風変わりな男であった。
ただそのときは帰蝶としてではなく、楓としてだったが。
「おのれ……、邪魔だて致すとは……」
雑兵たちは、歯軋りをしている。
「文句があるなら、いつでも那古野城に来るといい。織田軍を相手にする勇気があるならな」
「お、織田――!?」
「俺は那古野城主・織田三郎信長だ」
その名乗りに、雑兵たちはもちろん美濃方にも動揺が広がった。
「乗れ。帰蝶!」
馬上から差し出される手に、帰蝶に迷いはなかった。
忽ち信長の背の人となった帰蝶に、斎藤家家臣が慌て始めた。
「ま、待たれよ! 我が姫をどうされるおつもりか!?」
「愚問だな」
信長が嘲笑って、手綱を引く。
ただ帰蝶に随行していた家臣たちの災難は、賊との交戦冷めやらぬうちに、信長に連れ去られた帰蝶のあとを追わせられるという事態が待っていた。
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