天下布武~必勝!桶狭間

斑鳩陽菜

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第四章 尾張の覇者

七、尾張守護・斯波義銀追放! 恩讐の清州城

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 永禄元年十月――、北櫓から眺める空は晴朗せいろう(※空が晴れてさわやかなさま)とはいかず、この尾張で起きていることを示しているかのような陰晴いんせい(※曇ったり晴れたりすること)だった。
 
 信長は一人、ため息をついた。
 想うのは、父・信秀が成し得なかった尾張平定――。
 だが尾張を統治すべき二人の守護代は、信長を倒そうと敵対してきた。信長は決して尾張を我がものにしようなど思っていなかったが、出るくいは打たれる――の通り、排除しようと思うらしい。
 
 この乱世――、尾張の周囲は群雄割拠ぐんゆうかつきよ様相ようそうである
 駿河の今川は言うに及ばす、北には美濃の斎藤義龍さいとうよしたつ甲斐かいには武田、相模には北条、越後には上杉と勢力拡大のためにしのぎを削っているという。
 信長に父・信秀のように他国へ勢力を伸ばそうという野心はなく、ただ尾張国内での戦いは終わらなければならないと思っている。
 
「殿――、斯波義銀しばよしかねさまに不審な動きがみられる由」
 その報せに、信長は思わず振り向いた。
 尾張守護・斯波義銀――、父である前尾張守護・義統よしむねを守護代・大和守に謀殺され、信長の元に救いを求めてきた人物である。
  大広間には、さっそく家臣が集められた。
 
 
「殿、斯波さまが三河の吉良義昭きらよしあきと繋がっているようでございます」
 最初に口を開いたのは、森可成もりよしなりであった。
 それを聞いて、丹羽長秀にわながひでが眉を寄せる。
「確か、犬猿の仲だったのではないか?」

 織田と今川と二度目の停戦の折、斯波家と三河吉良家は、互いに足利一門最高の格式を誇る家柄同士であったことから席次せきじ(※会合・儀式などでの座席の順序)を巡って争っていたという。
「恐らく、利害が一致したのでしょうな」
 佐久間信盛がそう言えば、前田利家が首を傾げる。
「利害とはなんです? 佐久間さま」
 信長には、義銀がなぜ裏切ったのかわかった。
「――俺の、排除か……」
 実は三河吉良氏と信長は、直接ではないが関係がある。

 天文十八年三月、信長の叔父・織田信広の安祥城が、今川勢に攻められた。このとき織田方に協力したのが吉良義昭の兄だったという。
 ならば斯波義銀は、なにゆえ義昭とこっそり繋がろうとするのか。
 おそらく吉良義昭は、今川側の人間となったのだろう。
 まさか尾張守護まで敵対してくるとは思わなかったが、もし事実ならばまたも信長の近くから人が離れていくことになる。
 それが、この世なのだといえば終わりだが。
 そして暫くして、斯波義銀が広間にやってきた。
 
上総介かずさのすけ(※信長のこと)! いったい何事だ!? このわしを呼び出すとはっ!!」
 義銀は自尊心が高いとみえて、敷居を跨ぐなり怒声を撒き散らした。
「――座られよ」
「…………っ」
 信長は義銀を見据えると、義銀はふんと鼻を鳴らして着座した。
「斯波さま、なにか言いたいことはございませんか?」
「なんのことだ?」
 信長の問いに、義銀は目を細めた。
「今川の吉良義昭どのをご存知か?」
 次の信長の問いに、義銀の顔色が明らかに変わった。
「……きら……よしあき?」
「残念です……。斯波さま」
 守護を支え、尾張を強くするという信長の想いは見事に散った。
 信長は、義銀との縁を切るしかなかった。
「わ、わしを殺すのか!? 上総介。我が父を、守護代の大和守が殺したように……!!」
 義銀は立ち上がり激昂するが、周りを織田家家臣に囲まれていては吠えることしかできなかったようだ。


「殿――」
 数日後――、上段の間で書状を開いていた信長の前に、池田恒興が座る。
 またも裏切り者が出たことで信長が落胆していると思っているのか、恒興は憂色(※心配そうな顔つき)を濃くしていた。
「そんな顔をするな、恒興。人から嫌われることには、昔から慣れている」
「殿が私を勝三郎ではなく恒興と呼んでくるときは、心が揺れておられるときです」
 さすが勝三郎だと、信長は思った。
「俺がやせ我慢をしているように見えるか?」
「何年お側で見てきたとお思いですか?」
 恒興とは、信長が十二歳のときから共にいる。
 二人だけの時は主従を越えて、「勝三郎」「信長さま」と呼び合い、信長が素直に心を吐露できるのも家臣の中では恒興だけだ。
 尾張守護・斯波義銀は、信長の決断により尾張を去った。
 だが信長の顔が冴えないと見えたのなら、それはそのことではない。

「さっき……、末森城から書状がきた」
「末森城から……?」
 恒興が、胡乱に眉を寄せる。
「待ちに待った、信行からの書状だ。俺に逢いたいという。嬉しいはずなのだが……、心は少しも喜んでいない」
  父・信秀の死後――、信長は幾度も信行に書状を送った。
 内容は単なる機嫌伺のようなものだったが、信行から返事が来ることはなかった。
 そして漸く届いた、信行からの書状――。
「それでお返事はなんと?」
「来月、この清須にて会うとするつもりだ」
 
                     ◆◆◆

 かくして――、永禄元年十一月二日。
 末森城を単騎で清州城に向かった信行は、途中で馬を止めた。
 そこは濃尾平野を一望する崖で、夕闇が山も野も茜に染めていた。
 

「見ろ! 勘十郎(※信行)。うさぎを獲ったぞ!」
 深く茂る草叢くさむらで、兄・吉法師(※信長)が野兎のうさぎを高々と持ち上げる。
「兄上、兎を仕留めたのは父上です」
 勘十郎の指摘に、吉法師は笑っている。
 父・信秀とともに、三人で訪れた鷹狩りの場。
 このとき吉法師、十歳。勘十郎、八歳。
 思えば三人が一緒になることは滅多になく、吉法師だけが那古野城で城主となって離れていた。なのにこの日は信秀が、三人で鷹狩りに行くという。勘十郎は、兄と再会するのが嬉しかった。
 陽が暮れれば、兄は那古野城へ帰ってしまう。
 今度はいつ、逢えるのだろうか。

 いつ――。

 
 信行は暮れゆく濃尾平野を見つめ、遠き日に想いを馳せる。
 末森城にいても、信長は逢いに来てはくれた。
 だが彼への噂が家中に流れ始めると、信行の心も揺れた。子供の時代は終わり、父のような武将になることを信行も憧れた。
 だが支えようと思う兄・信長は、家臣も背を向ける大うつけ。
 変わらぬ兄と、変わろうとする弟。
 そんな兄に見切りをつけた時、信行の心は暴走を始めた。
 周りの噂に流されず、信長を信じていれば、兄と弟が争うことはなかったのに。

 ただ――。
 
 信長を信じていた人物が、信行の近くにいた。
 
 そう思うと兄への思慕は嫉妬となり、このままではさらなる戦いが始まる。
 

「――織田勘十郎信行、兄上に逢いに参った!」
 清州城門前で、信行は声を張った。

                        ◆

 末森城城内は静かだった。
 信行が清州城に行くと言った時、末森城にいる家臣たちは訝しんだ。
 罠かも知れないというのだ。
 信行が清州城に来た目的の建前は、病で臥せっているという兄・信長を見舞うためだ。 家臣たちは、その病というのは罠だというのだ。
 確かに、そうかも知れない。
 兄・信長も、信行との争いに決着をつけようと思っているだろう。
 信行は、本当はこんな再会はしたくはなかった。
 足は意図せず足音を立てぬように運んでおり、周りの気配を窺う己がいる。これでは、見舞いに来たとはいえない。
 信長が臥せっているという座敷の前で息を整え、襖を開ける。

 ――兄上。

 久しぶりに見る、兄の後ろ姿だった。
 髪を緋色の組み紐で高く括り、その後髪が広い背に流れている。
 父・信秀によく似たその背を、信行はなんど求め続けたことだろう。
 待ち続けた兄の来訪――、なぜ来てはくれなかったと彼を責めるのは間違っていると信行はわかっている。
 母や家臣たちになんと言われようと、逢いに行けばよかったのだと。
 今から成り直せるだろうか。

 いや――。

 信行は、懐から短刀を抜くと眠る信長に向かって振り下ろした。
 
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