水底のアジュガ 上

泡井 月

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浴槽の海

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 夜は暗いし、冷たいし、空っぽの浴槽はさみしい。冷えきった浴槽に溜まった湯に浸かってようやく満たされた気持ちになる。──と、たった二文並べただけでも感情がいくつか羅列される。さみしいと思えるのも、満たされたと思うのも、居たであろう家族が昔教えてくれたからなのは分かっている。理解はしているけれど、その感情を明確に態度や表情で表してと言われたら、わたしはそれがなかなか難しい。できないことはないけれど、難しいというだけ。
 深い海と、大きな波と、人の怒号と、砂浜と、潮風の匂いが苦手だ。理由も誰にも話したくないくらいに、苦手だ。
 浴槽に張った湯に月光が射し込むのは好きだ。浮かべた入浴剤の欠片を手に取って跡形もなく潰してしまって、それを無理矢理湯に溶かしてしまうさみしさを、手に残るざらざらとした質感で誤魔化す。たったそれだけで、今わたしはひとの作ったちいさな海の中に居るからここは怖くない、海じゃないから飲まれない。そう思えて好きだ。
 ここは海の中だと思い込む。でもあくまで終わりがあり、手を伸ばせば浴槽の端が見つかる。ここには限りがある。海と違って青くないし黒くもないし、冷たくない。あたたかいのに、穏やかでいるようで、どこか物悲しい。魚も居ない、珊瑚礁もない、でもここは海の中。そうやって思い込むと、いつかひとりでなくなる気がして、いつしか癖のように思い込むようになっていた。
今夜を除いて。
「会いたかったわ! 美羽!」
 ──言葉というのは、本当に、本当に詰まるときは詰まるらしい。
眼前には、この世のものとは思えないような眩く美しい輝きがあった。じゃあ一体それは何だと聞かれると、ちょっと答えにくい。思わず息を飲んでしまって、喉がきゅうと鳴る。湯に浸かってふわふわした体はもう疲れきっているから、そんな異常事態を飲み込む猶予はなかった。
 彼女、──いや、彼女と呼んでも果たして差し支えないだろうか。上半身は人間の女性、胸部をたくさんの装飾で綺麗に飾った貝殻で覆い、下半身は鱗がすらりと流れるように続き、その流曲線は浴槽のカーブに沿ってやわらかく折れ曲がっている。あまりに美しい流曲線に、わたしの目はひたすらにその鱗に奪われた。尻尾まで傷ひとつなく、まるで美術品のよう。しかしまあ、これだけ美しいと苦労も多かっただろうが、彼女は幻覚だし、本当に美術品かもしれない。
 人魚というのだろうか。まあ、八割方人魚の姿かたちをしているし、恐らくは人魚なんだろうな。しかしそんな幻覚もあるものか。昔、何回目かの転校先で猿の幻覚がたくさん見えるから、病院に通って薬で対処している同級生が居たけれど、彼女は元気だろうか。
 脱線した。いずれにせよ、月光が射し込んで、彼女の鱗は妖艶に、虹色に光っている。わたしの好きな月光は、鱗を照らしても美しいようで、こんな事態でもひとまず感情だけは安堵を見せたようだった。
「全然私のこと見てくれないじゃない、美羽?」
 見てる、見てるよ。それはもう凝視してるよ。
どうやら「見る」の意味が違うらしい。心でも見透かせと言うのか。わたしにあなたの心は見透かせないのだけれど、困ったな。明るいブロンドの髪はふわりふわりと夜風に揺られて、睫毛と睫毛の隙間から見えた薄紫色の瞳は悲しそうに伏せて、上品に小首を傾げている。わたしには彼女の何が見えていないのだろうか。素性かな? とりあえず、名前くらいは尋ねておきたかったので尋ねる。
「あー、なんでわたしの名前知ってるかは置いといて、せめて名乗って欲しいな」
「ないわ」
「ない? 名前がないってこと?」
「そう。必要がないから、持っていないわ」
「そっか」
 そっか。名前を尋ねておきたいと言い出したのはわたしだけれど、まさか本当に話せるとは思わなかった。幻覚とはどうやら同じ言語で、翻訳なしに意思疎通ができるらしい。しかし何故か、相手はたかが幻覚なのに、先程入浴剤を潰して溶かしておいてよかったと思ってしまった。ほら、幻覚でも、こうして話せているなら、鱗や白い肌が傷ついたら嫌だから。
 艶々と煌めく虹色の鱗と、明るいブロンドにまた目を奪われ、そうして最後に、ぱっと見開いた薄紫色の、いや、薄紫と言うには明るさが足りない。パンジーのような深さはなく、藤のような儚さはない。ラベンダーか、ライラック色だ。花のような美しい色をしている。そんな瞳に、こうしていとも容易く吸い込まれる。
惚れ込んでしまいそうだ。
 彼女は人魚。名前はまだない。というより、必要がないからずっとない。そう言った。
「じゃあ、別の質問していい?」
 うん、と頷く人魚。素直だ。
「どうしてわたしを選んだの」
「え?」
「なにか理由があって来たんでしょ」
「覚えていないのね」
「うん? うーん、うん」
「昔会っているのよ。美羽が三歳の頃ね」
「そうなんだ」
 三歳。三歳か。その程度の年齢なら、まあ、幻覚だとか、夢じゃないかとか、後先考えずに接するだろうな。当時のことは、靄がかかっていつも曖昧になって、うまく思い出せないのだけれど。
 ──ああ、海は怖いな。大きいな。目の前の彼女なんか比べ物にならないくらい大きかった。飲み込んで、居なくなってしまった。
「美羽?」
「ごめん、思い出せることが、思い出したくないことしかない」
「そう、そうよね」
「三歳のとき、わたしあなたと何か話した?」
「話したわ」
「へえ。なんて?」
「約束したの」
「またそんなお決まりみたいな」
 冗談めかして言った言葉は、彼女のさみしそうな目の色で一瞬で後悔することになった。伏せた目はゆっくりと、ゆるく開いて、長い睫毛からは瞬きをする度、湯から上がる蒸気でちいさな水滴が垂れる。泣いてはいないらしい。というか、どの人間の機能があって、どの機能はないのだろう。
 ああまた脱線した。さみしくなったり、他人のさみしいを察すると、途端に何か別のことを考える癖がどうしてもついてしまっている。人魚は、「したのよ」と言って、また繰り返すように、「約束したの、でもあなたが覚えていなかったらそれは、きちんと約束かしら?」と眉を下げた。
「覚えてなくてごめん」
「いいのよ」
「でも、こうして来てくれたってことは、推測でごめんだけど、えーと。いつかまた会おうねみたいな。そういうこと?」
 人魚は首を振った。そういえば、全然気付かなかったけど、うちの浴槽じゃ狭いね。指摘して足を畳むと、人魚は器用に鱗を縮めて、そのまま丸まって座り、わたしと距離を縮めた。そんなこともできるのか!
「い、まの、もっかいやって」
「え?」
「鱗、しまうやつ」
「ふふ、いいわよ」
 人魚は問題ないと快諾して、先程しまった鱗をもう一度伸ばし、浴槽から尻尾を出すと、「縮めるわね」と目を細めて微笑んだ。首がもげそうなほど頷くと、鱗は尻尾からしゅるりしゅるりとねずみ花火のように縮んでいき、また猫のように丸まって座った。見事だ。
「ねこみたい」
「ねこ? ああ、猫、そうね。ふふ」
「友達が飼ってて」
「ええ。えーと、こうせいくんね」
「え、うん、そう紅成こうせい……え、ほんとに会ってるんだ」
「偶然見られてしまっただけよ。ねえ、それより、あなたにはきちんと怒って欲しいのだけれど、いいかしら?」
「怒るって、何を?」
 怒って欲しい、とは、また、不思議なお願いをするものだなと思った。確かに現実であるなら不法侵入ではあるかもしれないが、彼女は人魚であるし、人間の法は通じないのだし、怒るとして少なくとも過去のことなのだろうけれど、何を怒ることがあるのだろうか。
「だってこれ夢でしょ?」
「あら。私たちの約束をお決まりなんて言うのなら、その部分もお決まりなんじゃない?」
「……あ!」
「ふふふ」
「え、もう、もったいぶらないで話してよぅ」
「後悔しない?」
「しない!」
「そう」
 人魚はまた目を伏せた。しまった鱗はそのままで座っていたし、わたしから離れようともしなかった。腕を掴まれても、嫌だと振り払うこともなかった。わたしだって、かつてのあの男のように、殴りかかることもなかった。だから、彼女は静かにこう述べた。

「私のお母さま、あなたの両親を食べたの」
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