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ティアドロップ・アルフライラ
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「私がまだ人魚の力を使える理由を考えていたの」
美羽の家は静かだった。あまい香りがして、どこもかしこも美羽のかけらで満たされていた。見渡す限り美羽が居る。あの思い出は、美羽がまだ知らない美羽の感情。あの思い出だって、もしかしたら私が封じ込んでしまったかもしれない、美羽の大事な記憶と感情。
美羽は、「うん」とだけ言って、私の言葉の続きを待った。
「きっとどこかで、ああもう、いっそのこと、許されなくてもいいんじゃないかしらって、思ってしまっているからだわ」
「それは、わたしが言ったせいだよ」
「いいえ、いいえ。美羽は、なんにも悪くないのよ。私が、弱いだけよ」
「わたしはもっと弱いのに?」
「違うわ。力じゃなくてね、私の心が弱いのよ」
──そう、そうよ。私の心が、美羽の心からずっとずっと遠くにあるから、そのぶんすごく弱いのよ。こんなに長い間思っていたのに、隣で縮こまるあなたのこと、まだなんにも知らないのよ。
「人魚は、恨むべき人間から見たら、すごく価値があるの。売れば一攫千金ってわけ。そうしたらもう、復讐相手の人魚は行方も知らない人間に売られて、人魚を恨むべき人間は、その復讐で一生安泰ってわけ」
美羽は「ちがう、ちがうよ」と泣いた。「復讐なんか、ちがうよ……」と悔しそうにして、布団の中で、隣でずっと泣いていた。
その夜が、生きてきた千年の中でいちばん長かった。
夜が明けた。あんなに長い夜も同じように時間が流れて、きちんと居なくなるらしい。人間の感覚はまだ当分肌に馴染む気配がない。
美羽が言うには、学校は暫くお休みになるらしい。リモート授業も検討されたらしいのだけれど、「安全面を考慮したらやっぱりやんないー、だって」と美羽がスマホを見て話していた。
じゃあ、お散歩しましょう。─私の提案に、美羽は目を丸くして「え、あ、もう歩けるの」と戸惑った声を潜めてしまった。
「ふふ、体に怪我はしていないわ。心が少し、弱くなってしまっただけよ。だからほら、おひさまを浴びて、歩きましょ」
「……ライラがいいなら、いいよ」
「私ね、早朝にお散歩する犬をね、見かけるのがちょっとした夢なの」
「あ、お隣さんが確か犬飼ってるよ。あー、でも老犬だから、お散歩は、どうかな」
なんか手押し車みたいなのがさ、あって、それに乗せてた気がする、と申し訳なさそうに言う美羽の、まだ不安そうな顔がどうしてもいやだった。
「嫌ね」
「え?」
「だめよ、美羽。幸せな顔をしていて。いつも」
「あー、気遣わせちゃった? ごめん」
美羽のそういう顔、私、好きじゃないわ。
「……あれ。こんな朝早くになんだろ、はーい」
──あまり聞き慣れない音だと思ったら、インターホンの音だった。機械的な高い音がした。
美羽の家のインターホンは滅多に音が鳴らない。来客があまりないし、来ることと言えば少ない年賀状と親戚からの助けが気持ち程度に少しあるだけ。
「みうちゃんおはよう。ごめんねぇこんな早くに起こしちゃって。はいこれ、お菓子」
「え、え、いいんですか」
「いいのよぉ」
そこまで美羽と話して、私に気付いた老婆がにこやかに微笑む。傍に紐で繋がれた老犬は、老婆に寄り添ったまま、眠たそうに瞼を閉じたり開いたりをゆっくり繰り返していた。
「あ、そうだ。最近従姉と一緒に住むことになりまして」
「聞いてるわ。いいわねぇ、賑やかになるねぇ。うふふ、嬉しいねぇ。ねえ、クリフ」
老婆はたいそう喜んで朗らかに笑った。ねえ、と相槌を求められた老犬はクリフと言うらしい。少し白い靄のかかった穏やかな目をしていた。なるほど、白内障か。もうあまり見えていないことが分かった。毛並みは細く、呼吸も浅い。吠えもしない。先は長くないだろう。人も動物も、人魚と違って短い命だ。
「最期にこんなに綺麗な人が見られて幸せ者だわ。ふふ」
「最期なんて、そんな」
クリフと呼ばれた老犬が喉を鳴らした。あまり力のない音。潮風に吹かれて、どこまでも往くままに流れて、儚く消えてしまいそうな、か細い音。
「はじめまして、優しいあなた。ご挨拶が遅れてごめんなさい、芹沢来笑(せりざわらいら)と申します。お名前を伺っても?」
犬は人間よりももっと短い命だけれど、彼にも心はある。生きている。懸命に。
クリフは「さっき聞いてたろ」と言いたげに目を伏せて、耳をぱたぱたと小さく動かした。
「まあまあ、うふふ、いいのよ。隣に住んでる、佐々木です。みうちゃんが越してきてから、もう何年になるかしらねぇ。たまにご飯作りに来てるのよ。みうちゃん少食だから、困っちゃうわぁ」
「紅成が食べ過ぎなんですよ」
「ま、やぁねぇ。こうせいくんは……そうねぇ。食べ盛り、にしては、食べ過ぎねぇ。贅肉にならないのがほんと羨ましいわ」
ほんとにねぇ、と美羽が声を荒らげる。美羽ったら、あなた痩せてるでしょう。
「前に筋肉つけるとかなんとか言って食べ過ぎてぶっ倒れてさ」
大して太れる体質でもないくせに何なんだろうね。
楽しそうな美羽。
「まあ、哀れ」
私が哀れだと思うこうせいくんの話を、楽しそうにする美羽。
私の知らない顔。
「居ないとこで哀れって言われる紅成おもろ」
からから笑う美羽の横で、佐々木さんがにこにこしたまま私に目線を寄越してきた。
「それにしても、らいらちゃん? 綺麗ねぇ。綺麗な目元がみうちゃんにそっくり」
「そうですか? ふふ、うれしい」
「そんな似てる?」
「ん~…んふふ」
またそうやって笑ってはぐらかす、と頬を膨らませる美羽。ああ、よかった。少しずつ、私が見たかった美羽の表情が見えてきた。
私、案外独り占めしたいタイプなのかもしれないわね。
「そうよ。長ぁい睫毛と、綺麗な二重なんか、ほら」
「だってライラ」
「ふふ」
──私が過去に犯した罪と、彼が私を恨んでいる罪は、まったく別。
だから、私がこうやって、
美羽をぎゅうっと強く抱き締めて何があってもそばに居て贖いなんかいつしかどうでもよくなるくらい愛すからふたりでずっとずっと隣でなんでもない話をして甘酸っぱいいちごタルトと紅茶を囲んで笑い合って時には海や風や大きな瓦礫の音に怯える美羽をだいじょうぶって優しく撫でてそれで、
それでね、美羽。
それでもね、美羽。
私、こんなにあなたを愛しているのに、あなたの親にはなれないの。
「隣に住んでるから、いつでも訪ねておいでね」
「ありがとうございます」
「ライラ最近キッシュにハマってます」
「ま、なぁにそれ、おしゃれねぇ。勉強してくるわ」
「わたしじゃ上手く作れないんですよ」
「任せて。頑張るから、ふふ。また来るわね」
佐々木さんはそう言って手を振りながら、クリフを抱きかかえて帰って行った。
人喰い人魚も、罪さえ犯したりしなければきっと友達になれたかもしれない、せめて知り合いくらいにはなれたかもしれない普通の人魚も、欲張って所有したりしないで、平和的に話して、和解できたらよかったのにね。
やっぱり難しいのかしら。
穏やかな日曜日。のような、今日は木曜日。ライラに起こされて目覚める、何回目かの朝。そんな朝に突然来訪した佐々木さんは、キッシュ、キッシュ、と繰り返しながらクリフを抱っこして帰って行った。
「私たち、本当はね、好きで人間を食べてる訳じゃなかったのよ」
突然ライラが切り出した。驚きでリアクションが遅れてしまう。
それは、まあ、そうだろうけど。いやまあでも、ライラやライラの家族が好きで人間を食べてても、わたしの友人を食べてもきっと、別になんとも思わないのだろうし。それは、あなたが生きるために必要だっただけ。わたしだって、生きるために肉や魚や野菜を食べる。魚なんて特に、ライラの友達だったかもしれないのだし、わたしが怒る筋合いはない。権利くらいはあるかもしれないけれど、別に怒らないと思う。何度も言うようだけれど、選ばれたのが偶然わたしの親だっただけだ。
それに、平均的な人生よりも様々なイレギュラーを経験している自覚はあるからなんとなく分かってきたけれど、人の生き方というのは結局、ある程度安定している。突然お金も家も食べ物も何もかも失って、無くなったからその日のうちに即バタンと倒れて死にますとか、そんなことはない。人間というのは動物と違って、ある程度生きていけるようになっている。つまりあとはもう、個々の運だ。あのときも、あのときも、あのときもあのときも運が良かっただけだった。思い返せば、人生というのは思っているよりも、なるようにしかならない。そういうマインドで、生きていくしかない。
人間で言えばそう。
目の前の元人魚は例外だとして。
「前は何食べてたの?」
改めて質問をする。
「何も食べなくても生きていけたわ。海の中で、揺蕩うだけ。何もしないの。暇ができたら、魚や海藻や貝殻なんかと会話をしてね」
「話せるんだ」
「校長先生との一件のときに、鳥さんにお願いしたでしょう?」
「あー、あったね。そっか。陸の生き物相手にできるんなら、いけるか」
「あとはもうパッションよ、美羽」
「ライラらしからぬ単語が出てきたなあ」
「コミュニケーションだもの」
「そっかぁ」
そっか。なんとなく繰り返す。途方もなく長い時間を生きてきたライラにとって、コミュニケーションはパッションらしい。わたしもわたしで運とか言ったけれど、そんなもんか。深く考え過ぎても沼に嵌って抜け出せなくなることもある。きっとそういうやつなんだろうな。
「それに、美羽が言ったようにね、陸と海は分かれて、それぞればらばらに生きるべきだったの。陸は陸で、海は海で、それぞれ秩序を保って生きるべきだったわ」
「だったって、その、人を食べるようになったから、秩序が崩れたってこと?」
「そうね、結果的に、そうなってしまったわね」
「誰が悪いんだろうな」
「人魚よ」
「そうかなあ」
「あら、どうして?」
「だって、ライラと最初……じゃないけど、わたしとお風呂で会ったとき言ったじゃん。両親のことで、わたしが覚えてることって言ったら、んー、わたしへのあれは、殺意って言っても間違ってないと思うから、そう言うけどさ」
ライラがうん、と頷く。目線がばちっ、とかち合った目の、ライラック色がすっと冴える。
「そう、だから、それくらいだし、って。ライラと約束したことも、覚えてなかったんだし。忘れたんだから、ほら、時間の経過で許される罪もあるじゃんか。それが償いにならないかなって。……でも、食べなくても生きているのか。あれ、困ったな」
「ふふ、美羽、どうしても私を悪役にしたくないのね」
「そんな単純な話じゃないと思うし」
「お母さまもどうして、人間を食べようなんて言ったのかしら」
「知らないんだ」
「知らないのよ」
「そっか。知らないのも罪かな?」
「嫌ねぇ、そんなこと言っちゃったら私たち、愛をくれるはずの親から何ももらえていない、無知同士だわ」
「ご飯は愛じゃない? 食べてんの人間だけど」
「あれは食事じゃなくて……待って、美羽」
ライラが突然、「そこに置いてあるポスターが見たいの」と言うので、いやに神妙な顔も相俟って違和感を感じた。
「見せてもらってもいいかしら」
「これ? なんか学校から貰ったねそういえば。観劇だっけ。忘れてたわ。これがどうしたの」
「……お母さま」
「え?」
──そんなまさか、と思った。そんな偶然。都合よく、現れるものか。わたしが恨んで憎むことが正しい、悪だと言うべき、本来は怒り狂って暴れるのが普通らしいその感情が。親からきちんと直接手から手へと受け取らなかったがゆえに知らないそれが、人となって、今現れようというのか。
「十二月、十二月ね」
「会えるかも、なんだね」
「ええ」
その瞬間のライラは、ひどく冷たい瞳をしていた。目が合ったら石になってしまいそうなほどの、冷たさと、鋭さ。
「……あ、あー、でもなんか、言われた気もするわ。詳しいことは忘れたけど」
「そうね」
ていうかそもそも学校にまたちゃんと行けるかどうかだよね、と続けて返す。
わたしの高校は秋に体育祭があり、ある程度人間関係が成立した後での行事なので、割と毎年どの学年もきちんと一致団結して体育祭を楽しんでいる。寒い地方だと秋にはもう雪が降ってしまうから春先にさっさとやってしまう(プラス大人の事情が付随している)ような学校もあるけれど、わたしが通っている高校は秋開催だ。スポーツの秋、行楽の秋、芸術の秋がきちんと揃う。食欲は紅成のようにびっくりするほど季節が関係ない人間も居るので省いた。──が、省いてもそもそもその体育祭自体開催できる状況にあるか分からない。恐らくは否定的に捉えていたほうが、心持ちとしてはいいのかもしれないが、高二の体育祭とかいちばん楽しい行事じゃんやらせてよ、の気持ちも、もちろんある。
それはそれとして、ポスターに目線を移す。ライラがお母さまと呼んだ女性は、赤いドレスに身を包んでおり、まるで椿の花の開いたようだった。
「この、主演の人?」
尋ねると、ライラは繰り返し「そうね」と返して、また「……そう、そうね」と言い聞かせるように何度も何度も繰り返した。
「つばき、っていうのね」
本当に椿と言うらしい。容姿の見たままだった。
「椿さん」
口の中でつばきさん、と繰り返してみる。わたしが、恨むべき人。憎むべき人。そんな実感なんて欠片も湧かない、ライラと同じ血を引く、美しい人。
「芸名かしら」
「もし家族になったら、芹沢椿だね」
何気なく言ったつもりだったのだけれど、ライラにとっては致命的に衝撃的な一言だったらしい。ライラは息を深く吸い込むと、首を小さく振って「ああもう、美羽」と表情を暗くした。
「……美羽、あのね、本当に、本当にお願いだから怒って。お願いだから」
「前も言ったけど、わたしは怒れないよ」
「あなたが怒ってくれなきゃ私だって、お母さまだって、お兄さまだって、ほかのたくさんのきょうだいたちだって、救われないのよ」
「きょうだいが居るんだ?」
「居たの。もう会えないわ。お母さまみたいに、こうやって偶然が巡り巡って会えるかもしれないけれど。お母様だって、まだ分からないわ。このお芝居自体なくなってしまったら、お母さまが当日居なかったら……」
「ねえライラ」
「なに?」
「もし居ても、居なくてもさ。まだわかんないことを憂いても、あんまよくないと思うんだよね。それにライラは、わたしと会えた。それじゃだめ?」
「……そうね。欲張ってしまったわ」
「まずさ、お母さん居るかもなんじゃん? てことは、まずお母さんには会いに行こうよ。お兄さんとかは、これから考えようよ。お母さん知ってるかもだし」
「……美羽」
「ん?」
「……やっぱりやめておくわ。今ここで色々憶測を並べても仕方ないもの」
「そっか。じゃあ、……えーと、十二月の五日? えこれもしかして学年みんなで行く感じだな」
「?」
「あ、もしかしたらこれも学校行事かもって。冬休み…よりちょっと前だし」
「まあ。みんなで観に行くの?」
「そうそう。……そうなんだけど、いいの?」
「いいのって?」
「え、だって、気まずくない? 親のこととか何となく行方不明とかなんとか言ってぼかしてるじゃん、ライラ」
「そうねぇ……」
「─あ、でもさ。絶対分かってることはあるよ」
ああでも、じゃあ、せっかくだから。ライラが言ってよ。ライラが言うべきだよ。そう促すと、ライラは嬉しそうに声を上げた。
「お母さまも、陸に上がっているのね!」
美羽の家は静かだった。あまい香りがして、どこもかしこも美羽のかけらで満たされていた。見渡す限り美羽が居る。あの思い出は、美羽がまだ知らない美羽の感情。あの思い出だって、もしかしたら私が封じ込んでしまったかもしれない、美羽の大事な記憶と感情。
美羽は、「うん」とだけ言って、私の言葉の続きを待った。
「きっとどこかで、ああもう、いっそのこと、許されなくてもいいんじゃないかしらって、思ってしまっているからだわ」
「それは、わたしが言ったせいだよ」
「いいえ、いいえ。美羽は、なんにも悪くないのよ。私が、弱いだけよ」
「わたしはもっと弱いのに?」
「違うわ。力じゃなくてね、私の心が弱いのよ」
──そう、そうよ。私の心が、美羽の心からずっとずっと遠くにあるから、そのぶんすごく弱いのよ。こんなに長い間思っていたのに、隣で縮こまるあなたのこと、まだなんにも知らないのよ。
「人魚は、恨むべき人間から見たら、すごく価値があるの。売れば一攫千金ってわけ。そうしたらもう、復讐相手の人魚は行方も知らない人間に売られて、人魚を恨むべき人間は、その復讐で一生安泰ってわけ」
美羽は「ちがう、ちがうよ」と泣いた。「復讐なんか、ちがうよ……」と悔しそうにして、布団の中で、隣でずっと泣いていた。
その夜が、生きてきた千年の中でいちばん長かった。
夜が明けた。あんなに長い夜も同じように時間が流れて、きちんと居なくなるらしい。人間の感覚はまだ当分肌に馴染む気配がない。
美羽が言うには、学校は暫くお休みになるらしい。リモート授業も検討されたらしいのだけれど、「安全面を考慮したらやっぱりやんないー、だって」と美羽がスマホを見て話していた。
じゃあ、お散歩しましょう。─私の提案に、美羽は目を丸くして「え、あ、もう歩けるの」と戸惑った声を潜めてしまった。
「ふふ、体に怪我はしていないわ。心が少し、弱くなってしまっただけよ。だからほら、おひさまを浴びて、歩きましょ」
「……ライラがいいなら、いいよ」
「私ね、早朝にお散歩する犬をね、見かけるのがちょっとした夢なの」
「あ、お隣さんが確か犬飼ってるよ。あー、でも老犬だから、お散歩は、どうかな」
なんか手押し車みたいなのがさ、あって、それに乗せてた気がする、と申し訳なさそうに言う美羽の、まだ不安そうな顔がどうしてもいやだった。
「嫌ね」
「え?」
「だめよ、美羽。幸せな顔をしていて。いつも」
「あー、気遣わせちゃった? ごめん」
美羽のそういう顔、私、好きじゃないわ。
「……あれ。こんな朝早くになんだろ、はーい」
──あまり聞き慣れない音だと思ったら、インターホンの音だった。機械的な高い音がした。
美羽の家のインターホンは滅多に音が鳴らない。来客があまりないし、来ることと言えば少ない年賀状と親戚からの助けが気持ち程度に少しあるだけ。
「みうちゃんおはよう。ごめんねぇこんな早くに起こしちゃって。はいこれ、お菓子」
「え、え、いいんですか」
「いいのよぉ」
そこまで美羽と話して、私に気付いた老婆がにこやかに微笑む。傍に紐で繋がれた老犬は、老婆に寄り添ったまま、眠たそうに瞼を閉じたり開いたりをゆっくり繰り返していた。
「あ、そうだ。最近従姉と一緒に住むことになりまして」
「聞いてるわ。いいわねぇ、賑やかになるねぇ。うふふ、嬉しいねぇ。ねえ、クリフ」
老婆はたいそう喜んで朗らかに笑った。ねえ、と相槌を求められた老犬はクリフと言うらしい。少し白い靄のかかった穏やかな目をしていた。なるほど、白内障か。もうあまり見えていないことが分かった。毛並みは細く、呼吸も浅い。吠えもしない。先は長くないだろう。人も動物も、人魚と違って短い命だ。
「最期にこんなに綺麗な人が見られて幸せ者だわ。ふふ」
「最期なんて、そんな」
クリフと呼ばれた老犬が喉を鳴らした。あまり力のない音。潮風に吹かれて、どこまでも往くままに流れて、儚く消えてしまいそうな、か細い音。
「はじめまして、優しいあなた。ご挨拶が遅れてごめんなさい、芹沢来笑(せりざわらいら)と申します。お名前を伺っても?」
犬は人間よりももっと短い命だけれど、彼にも心はある。生きている。懸命に。
クリフは「さっき聞いてたろ」と言いたげに目を伏せて、耳をぱたぱたと小さく動かした。
「まあまあ、うふふ、いいのよ。隣に住んでる、佐々木です。みうちゃんが越してきてから、もう何年になるかしらねぇ。たまにご飯作りに来てるのよ。みうちゃん少食だから、困っちゃうわぁ」
「紅成が食べ過ぎなんですよ」
「ま、やぁねぇ。こうせいくんは……そうねぇ。食べ盛り、にしては、食べ過ぎねぇ。贅肉にならないのがほんと羨ましいわ」
ほんとにねぇ、と美羽が声を荒らげる。美羽ったら、あなた痩せてるでしょう。
「前に筋肉つけるとかなんとか言って食べ過ぎてぶっ倒れてさ」
大して太れる体質でもないくせに何なんだろうね。
楽しそうな美羽。
「まあ、哀れ」
私が哀れだと思うこうせいくんの話を、楽しそうにする美羽。
私の知らない顔。
「居ないとこで哀れって言われる紅成おもろ」
からから笑う美羽の横で、佐々木さんがにこにこしたまま私に目線を寄越してきた。
「それにしても、らいらちゃん? 綺麗ねぇ。綺麗な目元がみうちゃんにそっくり」
「そうですか? ふふ、うれしい」
「そんな似てる?」
「ん~…んふふ」
またそうやって笑ってはぐらかす、と頬を膨らませる美羽。ああ、よかった。少しずつ、私が見たかった美羽の表情が見えてきた。
私、案外独り占めしたいタイプなのかもしれないわね。
「そうよ。長ぁい睫毛と、綺麗な二重なんか、ほら」
「だってライラ」
「ふふ」
──私が過去に犯した罪と、彼が私を恨んでいる罪は、まったく別。
だから、私がこうやって、
美羽をぎゅうっと強く抱き締めて何があってもそばに居て贖いなんかいつしかどうでもよくなるくらい愛すからふたりでずっとずっと隣でなんでもない話をして甘酸っぱいいちごタルトと紅茶を囲んで笑い合って時には海や風や大きな瓦礫の音に怯える美羽をだいじょうぶって優しく撫でてそれで、
それでね、美羽。
それでもね、美羽。
私、こんなにあなたを愛しているのに、あなたの親にはなれないの。
「隣に住んでるから、いつでも訪ねておいでね」
「ありがとうございます」
「ライラ最近キッシュにハマってます」
「ま、なぁにそれ、おしゃれねぇ。勉強してくるわ」
「わたしじゃ上手く作れないんですよ」
「任せて。頑張るから、ふふ。また来るわね」
佐々木さんはそう言って手を振りながら、クリフを抱きかかえて帰って行った。
人喰い人魚も、罪さえ犯したりしなければきっと友達になれたかもしれない、せめて知り合いくらいにはなれたかもしれない普通の人魚も、欲張って所有したりしないで、平和的に話して、和解できたらよかったのにね。
やっぱり難しいのかしら。
穏やかな日曜日。のような、今日は木曜日。ライラに起こされて目覚める、何回目かの朝。そんな朝に突然来訪した佐々木さんは、キッシュ、キッシュ、と繰り返しながらクリフを抱っこして帰って行った。
「私たち、本当はね、好きで人間を食べてる訳じゃなかったのよ」
突然ライラが切り出した。驚きでリアクションが遅れてしまう。
それは、まあ、そうだろうけど。いやまあでも、ライラやライラの家族が好きで人間を食べてても、わたしの友人を食べてもきっと、別になんとも思わないのだろうし。それは、あなたが生きるために必要だっただけ。わたしだって、生きるために肉や魚や野菜を食べる。魚なんて特に、ライラの友達だったかもしれないのだし、わたしが怒る筋合いはない。権利くらいはあるかもしれないけれど、別に怒らないと思う。何度も言うようだけれど、選ばれたのが偶然わたしの親だっただけだ。
それに、平均的な人生よりも様々なイレギュラーを経験している自覚はあるからなんとなく分かってきたけれど、人の生き方というのは結局、ある程度安定している。突然お金も家も食べ物も何もかも失って、無くなったからその日のうちに即バタンと倒れて死にますとか、そんなことはない。人間というのは動物と違って、ある程度生きていけるようになっている。つまりあとはもう、個々の運だ。あのときも、あのときも、あのときもあのときも運が良かっただけだった。思い返せば、人生というのは思っているよりも、なるようにしかならない。そういうマインドで、生きていくしかない。
人間で言えばそう。
目の前の元人魚は例外だとして。
「前は何食べてたの?」
改めて質問をする。
「何も食べなくても生きていけたわ。海の中で、揺蕩うだけ。何もしないの。暇ができたら、魚や海藻や貝殻なんかと会話をしてね」
「話せるんだ」
「校長先生との一件のときに、鳥さんにお願いしたでしょう?」
「あー、あったね。そっか。陸の生き物相手にできるんなら、いけるか」
「あとはもうパッションよ、美羽」
「ライラらしからぬ単語が出てきたなあ」
「コミュニケーションだもの」
「そっかぁ」
そっか。なんとなく繰り返す。途方もなく長い時間を生きてきたライラにとって、コミュニケーションはパッションらしい。わたしもわたしで運とか言ったけれど、そんなもんか。深く考え過ぎても沼に嵌って抜け出せなくなることもある。きっとそういうやつなんだろうな。
「それに、美羽が言ったようにね、陸と海は分かれて、それぞればらばらに生きるべきだったの。陸は陸で、海は海で、それぞれ秩序を保って生きるべきだったわ」
「だったって、その、人を食べるようになったから、秩序が崩れたってこと?」
「そうね、結果的に、そうなってしまったわね」
「誰が悪いんだろうな」
「人魚よ」
「そうかなあ」
「あら、どうして?」
「だって、ライラと最初……じゃないけど、わたしとお風呂で会ったとき言ったじゃん。両親のことで、わたしが覚えてることって言ったら、んー、わたしへのあれは、殺意って言っても間違ってないと思うから、そう言うけどさ」
ライラがうん、と頷く。目線がばちっ、とかち合った目の、ライラック色がすっと冴える。
「そう、だから、それくらいだし、って。ライラと約束したことも、覚えてなかったんだし。忘れたんだから、ほら、時間の経過で許される罪もあるじゃんか。それが償いにならないかなって。……でも、食べなくても生きているのか。あれ、困ったな」
「ふふ、美羽、どうしても私を悪役にしたくないのね」
「そんな単純な話じゃないと思うし」
「お母さまもどうして、人間を食べようなんて言ったのかしら」
「知らないんだ」
「知らないのよ」
「そっか。知らないのも罪かな?」
「嫌ねぇ、そんなこと言っちゃったら私たち、愛をくれるはずの親から何ももらえていない、無知同士だわ」
「ご飯は愛じゃない? 食べてんの人間だけど」
「あれは食事じゃなくて……待って、美羽」
ライラが突然、「そこに置いてあるポスターが見たいの」と言うので、いやに神妙な顔も相俟って違和感を感じた。
「見せてもらってもいいかしら」
「これ? なんか学校から貰ったねそういえば。観劇だっけ。忘れてたわ。これがどうしたの」
「……お母さま」
「え?」
──そんなまさか、と思った。そんな偶然。都合よく、現れるものか。わたしが恨んで憎むことが正しい、悪だと言うべき、本来は怒り狂って暴れるのが普通らしいその感情が。親からきちんと直接手から手へと受け取らなかったがゆえに知らないそれが、人となって、今現れようというのか。
「十二月、十二月ね」
「会えるかも、なんだね」
「ええ」
その瞬間のライラは、ひどく冷たい瞳をしていた。目が合ったら石になってしまいそうなほどの、冷たさと、鋭さ。
「……あ、あー、でもなんか、言われた気もするわ。詳しいことは忘れたけど」
「そうね」
ていうかそもそも学校にまたちゃんと行けるかどうかだよね、と続けて返す。
わたしの高校は秋に体育祭があり、ある程度人間関係が成立した後での行事なので、割と毎年どの学年もきちんと一致団結して体育祭を楽しんでいる。寒い地方だと秋にはもう雪が降ってしまうから春先にさっさとやってしまう(プラス大人の事情が付随している)ような学校もあるけれど、わたしが通っている高校は秋開催だ。スポーツの秋、行楽の秋、芸術の秋がきちんと揃う。食欲は紅成のようにびっくりするほど季節が関係ない人間も居るので省いた。──が、省いてもそもそもその体育祭自体開催できる状況にあるか分からない。恐らくは否定的に捉えていたほうが、心持ちとしてはいいのかもしれないが、高二の体育祭とかいちばん楽しい行事じゃんやらせてよ、の気持ちも、もちろんある。
それはそれとして、ポスターに目線を移す。ライラがお母さまと呼んだ女性は、赤いドレスに身を包んでおり、まるで椿の花の開いたようだった。
「この、主演の人?」
尋ねると、ライラは繰り返し「そうね」と返して、また「……そう、そうね」と言い聞かせるように何度も何度も繰り返した。
「つばき、っていうのね」
本当に椿と言うらしい。容姿の見たままだった。
「椿さん」
口の中でつばきさん、と繰り返してみる。わたしが、恨むべき人。憎むべき人。そんな実感なんて欠片も湧かない、ライラと同じ血を引く、美しい人。
「芸名かしら」
「もし家族になったら、芹沢椿だね」
何気なく言ったつもりだったのだけれど、ライラにとっては致命的に衝撃的な一言だったらしい。ライラは息を深く吸い込むと、首を小さく振って「ああもう、美羽」と表情を暗くした。
「……美羽、あのね、本当に、本当にお願いだから怒って。お願いだから」
「前も言ったけど、わたしは怒れないよ」
「あなたが怒ってくれなきゃ私だって、お母さまだって、お兄さまだって、ほかのたくさんのきょうだいたちだって、救われないのよ」
「きょうだいが居るんだ?」
「居たの。もう会えないわ。お母さまみたいに、こうやって偶然が巡り巡って会えるかもしれないけれど。お母様だって、まだ分からないわ。このお芝居自体なくなってしまったら、お母さまが当日居なかったら……」
「ねえライラ」
「なに?」
「もし居ても、居なくてもさ。まだわかんないことを憂いても、あんまよくないと思うんだよね。それにライラは、わたしと会えた。それじゃだめ?」
「……そうね。欲張ってしまったわ」
「まずさ、お母さん居るかもなんじゃん? てことは、まずお母さんには会いに行こうよ。お兄さんとかは、これから考えようよ。お母さん知ってるかもだし」
「……美羽」
「ん?」
「……やっぱりやめておくわ。今ここで色々憶測を並べても仕方ないもの」
「そっか。じゃあ、……えーと、十二月の五日? えこれもしかして学年みんなで行く感じだな」
「?」
「あ、もしかしたらこれも学校行事かもって。冬休み…よりちょっと前だし」
「まあ。みんなで観に行くの?」
「そうそう。……そうなんだけど、いいの?」
「いいのって?」
「え、だって、気まずくない? 親のこととか何となく行方不明とかなんとか言ってぼかしてるじゃん、ライラ」
「そうねぇ……」
「─あ、でもさ。絶対分かってることはあるよ」
ああでも、じゃあ、せっかくだから。ライラが言ってよ。ライラが言うべきだよ。そう促すと、ライラは嬉しそうに声を上げた。
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