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第1章:終わる夏
赤い壁
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大澤夏樹:2024年9月6日 午前7時
「決まったー! これでPKはサドンデスへと突入します!」
巨大な屋外照明によって照らされたスタジアムの中、けたたましく絶叫する実況と、心臓の鼓動を止めんとばかりに叫びを上げるチャント。
それらを振り払うように、大澤夏樹は、ペナルティマークへと向かった。
うだる様な熱気に包まれた人工芝。屈んでボールを設置すると、正面を向く。目の前には、血走った瞳のゴールキーパー。その後ろには、赤い、大きな壁があった。
その壁は、上から血をぶち撒けたかのような赤黒さで、一つ一つの元素が蠢き、叫び声を上げている。その生理的嫌悪を刺激する光景から逃げるように、夏樹は、目を瞑り深呼吸をした。すると少しは緊張がほぐれたようで、その壁が人間で出来ている事が判った。赤黒い大きな旗を犇かせるサポーターの男達が、苦悶の表情で唾を飛ばしながら、ただひたすらに祈りを捧げている。
「外せ!」「負けろ!」
これを外したら、俺はどうなってしまうのだろうか。敗北者として烙印を押され、蔑まれるのだろうか。いや、殺されるかもしれない。昔、オウンゴールをしたどこかの南米代表選手がファンによって殺害されたと聞いたことがある。一際大きな破裂音が響く。サポーターの一人が打ち上げ花火をあげたのだ。夏樹が客席に視線をめぐらすと、いつの間にか発煙筒が炊かれているのが見えた。赤い炎を根元に立ち上がった煙は、上にゆくにつれて薄まっていき、最終的には空気と同化してしまった。
なぜ俺は、こんな熱帯夜にサッカーなんてしているんだろう。馬鹿みたいじゃないか。たかが玉蹴りの為に、心体をすり減らし、死にそうなくらい緊張している。
「ははっ」
あまりの滑稽さに、夏樹は吹き出した。
そうだ。これはただの球蹴りだ。子供の頃から数え切れないほど繰り返してきたように、ただボールを足で蹴る。それだけだ。
そう考えると、彼を満たしていた緊張がかき消え、自信が漲って来た。今までのサッカー人生を辿るように、一歩一歩、助走距離を取り、体格に最も適した四十三度の入射角に位置つく。
サポーターの声にかき消されつつ、ホイッスルが響いた。夏樹はワンテンポ遅れて走り出し、ゴール右下を狙って右足を振り抜く。ボールの芯をとらえた鈍い音、足の甲に走る心地良い痛みと共に、これ以上無い重みのあるシュートが発射された。
しかし、相手キーパーは助走時の体勢からコースを読んでいた。低いコースへの対応策として、通常では左足で踏み込む所を、右足で踏み込み、低く鋭いセービングに掛かる。
伸びる腕、空を切る巨躯。
夏樹は、ボールがキーパーグローブに弾かれる音が聞こえた気がした。しかし、渾身の力で打ち出されたシュートの威力は凄まじく、キーパーの左手はなす術なく弾き飛ばされた。ボールがゴールネットを揺する音が響き渡り、相手サポーターの脱力感が大きな波となって押し寄せる。
「……っしゃあ!」
夏樹は、右手でガッツポーズをしながら叫んだ。項垂れるキーパーの顔を見てやりたい一心に駆られたが、踵を返してチームメイトの元へ向かう。彼らは、夏樹を賞賛し、ナイスシュートと叫んでいる。その声は、敵サポーター達の叫び声よりも大きい。しかし夏樹は、異常な光景を目にして立ち止まった。
チームメイトの顔が、見えないのだ。本来そこにある筈の、目や口、鼻。全てが欠落しており、顔面の部分だけを切り取った写真のように、ぽっかりと空白が佇んでいる。その、透明に透き通った顔の向こうには、広大な人工芝のピッチが広がっていた。
「なんだ、これ」
その人間らしからぬ様相に、アドレナリンが霧散したのと同時に、
何者かに右足首を掴まれた。
「うわあ!」
情けない叫び声を上げて、足元に視線を移す。すると、五本の指が植物の蔦のように絡みついているのが見えた。立てられた爪は、皮を裂き、肉を断裂せんと力を込めている。そしてその後ろには、見知った顔があった。
「長谷川先輩……」
黒い短髪には砂埃が付着し、端正な顔は痛みに耐えて苦渋を刻んでいる。そして、人工芝の代わりに、下には土のグラウンドが横たわっている。
夏樹は、いつの間にか、高校のグラウンドにいることに気づいた。先ほどの鼓膜を破るようなチャントやサポーターの叫び声も消え、ただ、夕日に焼かれた校舎だけが無言で二人を見下ろしている。
「夏樹……先生を、呼んでくれ……」
力なさげに名前を呼ぶ長谷川先輩。先ほどの力はもはや無く、ただ救いを求めるように懇願している。
「ひっ……」
夏樹が、精一杯の力で振り払おうとするも、離れない。力はかけられていない筈なのに、振り解く事が出来ない。勢い余って重心を崩し、夏樹はその場で正面から転んでしまった。咄嗟に両手で受け身をとるが、頭を打ち付けた。硬い地面と骨が衝突し、焼けるような痛みが頭蓋に走る。横たわったまま後ろを振り返ると、長谷川の右脚が視界に入った。
パーツを間違えたプラモデルのようだった。
大の字に倒れた長谷川の右脚は、本来あるべき方向から直角にねじ曲がり、膝から上との接続が途切れてしまったように、力なく項垂れている。発達したハムストリングスも出来の良い模型のような、脱力感に溢れている。あり得ないほどの重症な筈なのに、血が一滴たりとも見当たらないのが逆に恐ろしい。生命感が、ないのだ。
「膝が、膝が……!」
涙を滲ませ、夏樹を見つめる長谷川。すると、その絶叫に呼応して、その身体中のパーツが屈折し始めた。右足と同様に左足が捻転すると、今度は左腕が軋みを上げ始める。みしみしと、骨が軋み、肉が裂ける音が、這うように鼓膜を伝う。夏樹は、土煙が湧き立つ硬いグラウンドを虫のようにもがいた。掌に砂利が刺さり、砂が鼻腔から体内に侵入する。指先が細かい砂の粒子に摩耗される事など気にもせずに、前へ進もうとするが、それでも、長谷川の右手は振り解けない。
「誰か」
夏樹は、這うのをやめて腕を伸ばした。指先の皮がめくれ出血をしているその指は、誰にも握られ無かった。
そして最後に、長谷川の右腕が捻れると、掴まれたままの夏樹の右足首は、力に引きずられるままに、ゆっくりと断裂した。
「決まったー! これでPKはサドンデスへと突入します!」
巨大な屋外照明によって照らされたスタジアムの中、けたたましく絶叫する実況と、心臓の鼓動を止めんとばかりに叫びを上げるチャント。
それらを振り払うように、大澤夏樹は、ペナルティマークへと向かった。
うだる様な熱気に包まれた人工芝。屈んでボールを設置すると、正面を向く。目の前には、血走った瞳のゴールキーパー。その後ろには、赤い、大きな壁があった。
その壁は、上から血をぶち撒けたかのような赤黒さで、一つ一つの元素が蠢き、叫び声を上げている。その生理的嫌悪を刺激する光景から逃げるように、夏樹は、目を瞑り深呼吸をした。すると少しは緊張がほぐれたようで、その壁が人間で出来ている事が判った。赤黒い大きな旗を犇かせるサポーターの男達が、苦悶の表情で唾を飛ばしながら、ただひたすらに祈りを捧げている。
「外せ!」「負けろ!」
これを外したら、俺はどうなってしまうのだろうか。敗北者として烙印を押され、蔑まれるのだろうか。いや、殺されるかもしれない。昔、オウンゴールをしたどこかの南米代表選手がファンによって殺害されたと聞いたことがある。一際大きな破裂音が響く。サポーターの一人が打ち上げ花火をあげたのだ。夏樹が客席に視線をめぐらすと、いつの間にか発煙筒が炊かれているのが見えた。赤い炎を根元に立ち上がった煙は、上にゆくにつれて薄まっていき、最終的には空気と同化してしまった。
なぜ俺は、こんな熱帯夜にサッカーなんてしているんだろう。馬鹿みたいじゃないか。たかが玉蹴りの為に、心体をすり減らし、死にそうなくらい緊張している。
「ははっ」
あまりの滑稽さに、夏樹は吹き出した。
そうだ。これはただの球蹴りだ。子供の頃から数え切れないほど繰り返してきたように、ただボールを足で蹴る。それだけだ。
そう考えると、彼を満たしていた緊張がかき消え、自信が漲って来た。今までのサッカー人生を辿るように、一歩一歩、助走距離を取り、体格に最も適した四十三度の入射角に位置つく。
サポーターの声にかき消されつつ、ホイッスルが響いた。夏樹はワンテンポ遅れて走り出し、ゴール右下を狙って右足を振り抜く。ボールの芯をとらえた鈍い音、足の甲に走る心地良い痛みと共に、これ以上無い重みのあるシュートが発射された。
しかし、相手キーパーは助走時の体勢からコースを読んでいた。低いコースへの対応策として、通常では左足で踏み込む所を、右足で踏み込み、低く鋭いセービングに掛かる。
伸びる腕、空を切る巨躯。
夏樹は、ボールがキーパーグローブに弾かれる音が聞こえた気がした。しかし、渾身の力で打ち出されたシュートの威力は凄まじく、キーパーの左手はなす術なく弾き飛ばされた。ボールがゴールネットを揺する音が響き渡り、相手サポーターの脱力感が大きな波となって押し寄せる。
「……っしゃあ!」
夏樹は、右手でガッツポーズをしながら叫んだ。項垂れるキーパーの顔を見てやりたい一心に駆られたが、踵を返してチームメイトの元へ向かう。彼らは、夏樹を賞賛し、ナイスシュートと叫んでいる。その声は、敵サポーター達の叫び声よりも大きい。しかし夏樹は、異常な光景を目にして立ち止まった。
チームメイトの顔が、見えないのだ。本来そこにある筈の、目や口、鼻。全てが欠落しており、顔面の部分だけを切り取った写真のように、ぽっかりと空白が佇んでいる。その、透明に透き通った顔の向こうには、広大な人工芝のピッチが広がっていた。
「なんだ、これ」
その人間らしからぬ様相に、アドレナリンが霧散したのと同時に、
何者かに右足首を掴まれた。
「うわあ!」
情けない叫び声を上げて、足元に視線を移す。すると、五本の指が植物の蔦のように絡みついているのが見えた。立てられた爪は、皮を裂き、肉を断裂せんと力を込めている。そしてその後ろには、見知った顔があった。
「長谷川先輩……」
黒い短髪には砂埃が付着し、端正な顔は痛みに耐えて苦渋を刻んでいる。そして、人工芝の代わりに、下には土のグラウンドが横たわっている。
夏樹は、いつの間にか、高校のグラウンドにいることに気づいた。先ほどの鼓膜を破るようなチャントやサポーターの叫び声も消え、ただ、夕日に焼かれた校舎だけが無言で二人を見下ろしている。
「夏樹……先生を、呼んでくれ……」
力なさげに名前を呼ぶ長谷川先輩。先ほどの力はもはや無く、ただ救いを求めるように懇願している。
「ひっ……」
夏樹が、精一杯の力で振り払おうとするも、離れない。力はかけられていない筈なのに、振り解く事が出来ない。勢い余って重心を崩し、夏樹はその場で正面から転んでしまった。咄嗟に両手で受け身をとるが、頭を打ち付けた。硬い地面と骨が衝突し、焼けるような痛みが頭蓋に走る。横たわったまま後ろを振り返ると、長谷川の右脚が視界に入った。
パーツを間違えたプラモデルのようだった。
大の字に倒れた長谷川の右脚は、本来あるべき方向から直角にねじ曲がり、膝から上との接続が途切れてしまったように、力なく項垂れている。発達したハムストリングスも出来の良い模型のような、脱力感に溢れている。あり得ないほどの重症な筈なのに、血が一滴たりとも見当たらないのが逆に恐ろしい。生命感が、ないのだ。
「膝が、膝が……!」
涙を滲ませ、夏樹を見つめる長谷川。すると、その絶叫に呼応して、その身体中のパーツが屈折し始めた。右足と同様に左足が捻転すると、今度は左腕が軋みを上げ始める。みしみしと、骨が軋み、肉が裂ける音が、這うように鼓膜を伝う。夏樹は、土煙が湧き立つ硬いグラウンドを虫のようにもがいた。掌に砂利が刺さり、砂が鼻腔から体内に侵入する。指先が細かい砂の粒子に摩耗される事など気にもせずに、前へ進もうとするが、それでも、長谷川の右手は振り解けない。
「誰か」
夏樹は、這うのをやめて腕を伸ばした。指先の皮がめくれ出血をしているその指は、誰にも握られ無かった。
そして最後に、長谷川の右腕が捻れると、掴まれたままの夏樹の右足首は、力に引きずられるままに、ゆっくりと断裂した。
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