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完全な復讐 ―パーフェクト・リベンジ―
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橋の手すりに立つ。両手を伸ばすとバランスが取れだいぶ立ちやすくなった。
陸橋の下には線路が四本見える。電車が走っていないから地面までの距離をありのまま確認できる。といっても、高い橋の上から下を覗いても距離感は掴みにくい。近くに立っているビルの二階、いや三階ほどの高さはあるだろうか。そりゃ渡るだけで疲れるわけだ。
タイタニック号の船首に立つ女優のように両手を伸ばす僕は、陸橋の下を覗きこんで固まった。
この高さから落ちたらやっぱり、死ぬのかな。
ぼんやりとそんなことを思いながら手すりの上で風を感じる。ここ三日、同じことを繰り返している。突風が吹いたら、地震が起きたら、カラスでも飛んできたら、あっけなく僕はバランスを崩してこの細い手すりから真っ逆さまに落ちることだろう。だけどそんなことは起こらない。起こらないからもう三日目。まだ生きてる。
遠くから電車が近づいてくる。近づいてくる電車をカウントダウンにするように心の中で三つ数える。
さん。もう電車は目の前だ。
に。身体が大きく傾く。
いち。足が手すりから離れる。
「なんてね」
陸橋の歩道に着地して誰に言うでもなく一人呟く。
今日も飛び降りはしなかった。そんな気分じゃなくなった、ただそれだけ。もしかして最初から飛び降りる気なんてないのかもしれない。でも、また明日からのことを考えれば気持ちは沈むし、明日の夕方もきっと手すりに足をかけるだろう。
土の味がする。
美味しくはないし、好き好んで口にしている訳でもないので、吐き出す。
何度も唾を吐きながら身体を起こす。身体のあちこちが悲鳴をあげるも、校舎の裏に寝ているわけにもいかないので我慢しよう。
制服は土にまみれていたので叩いて落とし、鞄から放り出されて散乱した荷物を鞄に詰め直し、ため息ひとつ。北野め、と恨み言を零して、最近めっきり寒くなった空の下、重い足取りで帰路についた。
「ただいま」
今日も今日でしっかり陸橋の手すりに登ってきた。また落ちることはなく、電車をカウントダウンに帰ってきたわけだ。
返事はない。この時間家には誰もいない。なので最近出にくくなった裏声で、おかえりと返す。家の中はまた静まり返った。
BGM代わりにテレビを付けるとドラマがやっていた。再放送のみたいだ。
一人の警察官が連続殺人の犯人を追い詰めるシーンなのだが、どうやら警官側の旗色が悪く犯人と言い合いになっていた。
『確かに俺がやったのかもしれない。だが、証拠がない! 立証できなければ俺は無実。これが完全犯罪だ!』
テレビの中で犯人は声を荒立てた。
完全犯罪。言葉だけは聞いたことがある。証拠を残さずに罪を犯せば、罪には問われない。なるほど、そういう方法もあるのね。やらないだろうけど。
そのぼんやりした思考は鮮明に覆されることになった。
その日は北野の機嫌がよく、珍しくかんしゃくが降りかかってくることはなかった。昼休みになると北野は舎弟を連れ立って教室を出て行った。
いつもなら暇つぶしにいじってきたり、その日のムカつきを発散してきたりと面倒だけど、構えて待っている僕からすれば肩透かしもいいところだ。
人もまばらになった昼休みの教室に一人、立ち尽くす。
左斜め後ろの北野の席を見る。四限の教科書もノートも出しっぱなしだ。ノートは当たり前のように真っ白で、イタズラ書きでもしていたのか消しカスだけは机の上に散らばっていた。
ふと、筆箱に目が留まる。なんてことはない普通の筆箱だ。市販されている、プーマのマークの入った、なんのヘンテツのない黒い筆箱だ。普通の筆箱なのになぜか目が離せない。頭の中で絡まる思考がゆるゆるとひとつの思い付き、いや悪だくみとでもいうべき考えに結び付く。
気付けばゆっくりと手を筆箱へ伸ばしていた。
「ねえ」
指先が筆箱に触れる直前に声を掛けられ、思わず手を引っ込める。
「やめといた方がいいんじゃないの」
声の主は小渕だ。慌てて周囲を見渡すと、教室には僕と小渕しかいなかった。少し安心しつつ小渕を見る。小渕は北野の席から桂馬跳びに右後ろ、僕の三つ後ろの席の女子だ。いつも本ばっかり読んでるよくわかんないやつ。こんな風に話しかけてくるとは思わなかった。というか、まともに話すのは初めてかもしれない。
「なにそれ、心配してくれてるわけ」
どもったり、噛んだり、声が裏返ったりすることはなかったが、どこかつっかかった口調になってしまう。卑屈になってる証拠だ。これだから友達ができない。
「教室」
小渕は煩わしそうに口を開く。滑舌が悪いわけでも、声が小さいわけでもなかったが、だけれどなぜか聞き取れなくて、え、と聞き返す。
「教室、うるさくなるの、迷惑だから。何かしようとしてるなら、やめといてくれない」
正直驚いた。心配なんて言葉は彼女の中にはなく、教室が静かな方が暮らしやすいという、利己的な理由だけで「なにかしでかすならやめてくれ」とけん制してきたのだ。
なんとも自分勝手だ。自己中心的。エゴイスト、って言うんだっけか。
だからこそ、僕もジコチューにして良いって言ってもらえてるようで、笑けてくる。
「ショーコがなくてリッショーできなかったら完全犯罪らしいよ」
僕はどこかで聞き及んだ台詞を小渕に投げかけた。
「なにそれ」
小渕は心配して損した、とでも言わんばかりに肩をすくめるとまた読書に戻っていった。単に僕という存在から興味を失っただけかもしれないけど。
本の世界に戻っていった小渕を背に、僕も自分の席に着く。
小渕のおかげで意志は固まった。あとは実行するだけだ。
その日は一日中ニヤけが止まらなかった。
翌日には準備を済ませて機会を窺うだけとなったが、その日は実行には至らなかった。
絶好のチャンスを迎えたのは、週を跨いだ三日後のことだった。
昼休み、ぞろぞろとみんな教室から出ていく中に、北野とその取り巻きを見つける。
よし、第一条件はクリアだ。
この作戦の成功には条件がある。それは人目につかないことだ。事件の目撃者がいたら完全犯罪にはならないからね。被害者本人の北野に見つからないことが第一条件。他のクラスメイトがいないことが第二条件。第一条件は満たせても、第二条件も難しい。昼休みといえど、教室に残る人も少なくない。特に小渕が強敵だ。あいつの席からは北野の席は丸見えだし、本の虫というやつなのかは知らないがずっと教室で本を読んでいる。この計画を立ててから一番障害になっているのは間違いなく小渕だった。
心の中で皮肉を漏らしながら、当の本人の様子を確認する。こっちの気も知らずに小渕様は今日も優雅にお読書ですか、と。本当はおほほ笑いも付けてやりたかったが、思考が止まってそれどころじゃなかった。
小渕の席は空席だった。
そういえば、休みだったっけ。
はたと気付いて教室を見回す。教室には僕と津田しかいなかった。
津田は四限の時間から居眠りをこいていて、起きる気配はみられない。
絶好のチャンスを僕は手に入れてしまった。
机の脇に掛けてあるカバンの中に手を突っ込み、その存在を確認する。大丈夫。しっかり持ってきてる。それを掴んでゆっくり取り出す。
手の中にはプーマの黒い筆箱が握られていた。
それは北野が使っているのと同じもので、三日前に文房具屋で買った新品だ。
筆箱を握ったまま北野の机に近づく。一歩ごとに心臓が高鳴った。足が止まりそうになるが、意地で動かす。
北野の机の上には、同じ筆箱がある。北野の使っている、北野の筆箱だ。それに目線を吸い寄せられて、離れられなくなる。
早くすり替えようと思うも、緊張して中々動けなくなる。心臓は早鐘を打つ。このペースならあっという間に煩悩を振り払えそうだ。
手を北野の机に伸ばす。急がなきゃ、そう思えば思うほど手が震える。今は人がいなくても誰か戻ってくるかもしれない。先生や、他の誰か、それこそ北野が来る可能性だってある。見つかった時のことを考えると背筋に冷たいものを感じる。
北野の筆箱に手が触れる。開きっぱなしの口からペンが零れ、音を立てる。急いで津田を見るも、起きる様子は見られない。少し安堵して筆箱に向き合う。
筆箱の中身を取り出し、新しい筆箱に入れ替える。ペンが三本に消しゴムが一つ。この消しゴム使ったことあるけど、消えにくいやつだ。北野にとっては消えやすさなんてどうでもいいのかもしれない。北野の筆箱の中を見て、中に目立つ汚れなんかがないことを確認する。ないみたいで、また一安心。
北野の筆箱を持って急いで席に戻り、カバンに突っ込む。津田を見るとまだ舟を漕いでいる。勝った。成功だ。勝利の美酒というわけでもないが、お茶のペットボトルを取り出し喉を潤した。緊張からか、喉が渇いて仕方がなかった。
まだ心臓は音を立てている。ちょっと苦しいくらいだ。この苦しさに似た感覚に心当たりがある。橋の上だ。
陸橋の手すりの上の光景を思い出す。そういえばあの日から手すりの上に立ってはいない。この計画に夢中になっていたからだろうか、橋の上に行きたいとは思わなくなっていた。
今、手すりの上にいるのと同じだ。今やっていることは、あれとなにも変わらない。
そう、変わらない。変わらない、小さなことにすぎない。そう言い聞かせ、全身から溢れてしょうがない衝動を抑え込む。
脱力して深呼吸していると、ちらほらとクラスメイトが教室に帰ってくる。時計を見ると、もう昼休みは終わりかけていた。緊張や集中やらで、ごちゃまぜになった僕の頭ではあっという間に感じたが、かなりの時間がたっていたらしい。
もうすぐ北野も帰ってくるだろう。バレることはないと信じているが、また胸の鼓動は早くなり、鳩尾あたりがつままれたように痛くなった。
結局、北野に筆箱のことがバレることはなかった。
しかし、それは北野が持っている筆箱のことだ。同じ筆箱はもう一つ存在する。カバンの中に隠した、元々北野が使っていた筆箱だ。北野が入れ替えた筆箱を使い続け、それに違和感を覚えなくても、僕が同じ筆箱をもう一つ、普段使いのものとは別に持っていたら、それはそれは怪しいことだろう。
だから、この筆箱にはこの世からなくなってもらう。証拠隠滅であり、この計画の第二段階であり最終目的だ。
日の傾いた校舎裏に人影はない。この時間まで居残る振りをするのに、図書室で本を読んでいたが、どんな本を何ページ読んでも何も頭に入ってこなかった。
思った通りこの時間になると、焼却炉には火が入れられ、橙の炎を灯していた。
この学校には今どき珍しく焼却炉があり、放課後になると用務員の爺さんが火をつけ、その日のゴミを燃やしている。危ないから近づくなとお触れが出されているが、フェンスや囲いはなく、容易に近づくことができる。だからこそ、消したい証拠を投げ入れるにはおあつらえ向き、というわけだ。
ここに、この筆箱を投げ入れれば、証拠は消えてなくなる。完全犯罪達成だ。
また、鼓動が早くなる。駆け寄りたい衝動を抑えて、一歩また一歩と近づく。全身が汗ばむが、それは火に近いからか興奮しているかはもうわからない。きっと今鏡を覗けば顔を真っ赤にしていることだろう。
筆箱に目を向ける。北野の顔を思い浮かべると、自然と体は動いた。
気が付くと筆箱は焼却炉の中へ放り込まれ、燃え盛る炎に飲まれていく。
くふふ、と妙な笑い声が零れた。自分の笑い声を聞いて、今自分は笑っているのかと気付く。自分で認識してしまうと、もう抑えることはできなかった。膝から崩れ落ち、気が狂ったように笑い声を上げた。
目の前では北野の筆箱はどんどん灰へと変えられていく。その光景は今までにないくらいに鮮明に目に焼き付いてきた。「完全犯罪だ。完全犯罪達成だ」と笑いながらつぶやく。北野はこれから何にも疑うことなく筆箱を使い続けるだろう。僕がくれてやった筆箱を、だ。ありがたく使うんだな、と勝手に炎に映し出した北野に吐き捨てる。もう筆箱は跡形もなく、見る影もなくなってしまった。おかしくてしょうがない。愉快だ。痛快極まりない。おかしすぎておかしくなりそうだ。
ついに腹がよじれて、倒れ込んでしまう。文字通り、笑い転げる。
紅葉の赤なのか、落ち葉の赤なのか。夕焼け空の橙なのか、焼却炉の火の橙なのか、わからなくなるほど笑い転げ、笑い続けた。
あれから、陸橋の手すりの上に立つことはなくなった。今もしもあの場所に立ったら、怖くて怖くて足を滑らしてしまいそうだ。今後一切あの場所に行きたいと思うことはないだろう。そんな予感がする。
そして一週間が経っても、北野が筆箱の変化に気付く様子は見られないし、他の奴が何か言ってくることもない。
完全犯罪成立だ。誰にも気づかれることなく、なにも影響を与えない。僕の気が治まるだけの完璧な完全な復讐。
さて、次はどうしようか。
陸橋の下には線路が四本見える。電車が走っていないから地面までの距離をありのまま確認できる。といっても、高い橋の上から下を覗いても距離感は掴みにくい。近くに立っているビルの二階、いや三階ほどの高さはあるだろうか。そりゃ渡るだけで疲れるわけだ。
タイタニック号の船首に立つ女優のように両手を伸ばす僕は、陸橋の下を覗きこんで固まった。
この高さから落ちたらやっぱり、死ぬのかな。
ぼんやりとそんなことを思いながら手すりの上で風を感じる。ここ三日、同じことを繰り返している。突風が吹いたら、地震が起きたら、カラスでも飛んできたら、あっけなく僕はバランスを崩してこの細い手すりから真っ逆さまに落ちることだろう。だけどそんなことは起こらない。起こらないからもう三日目。まだ生きてる。
遠くから電車が近づいてくる。近づいてくる電車をカウントダウンにするように心の中で三つ数える。
さん。もう電車は目の前だ。
に。身体が大きく傾く。
いち。足が手すりから離れる。
「なんてね」
陸橋の歩道に着地して誰に言うでもなく一人呟く。
今日も飛び降りはしなかった。そんな気分じゃなくなった、ただそれだけ。もしかして最初から飛び降りる気なんてないのかもしれない。でも、また明日からのことを考えれば気持ちは沈むし、明日の夕方もきっと手すりに足をかけるだろう。
土の味がする。
美味しくはないし、好き好んで口にしている訳でもないので、吐き出す。
何度も唾を吐きながら身体を起こす。身体のあちこちが悲鳴をあげるも、校舎の裏に寝ているわけにもいかないので我慢しよう。
制服は土にまみれていたので叩いて落とし、鞄から放り出されて散乱した荷物を鞄に詰め直し、ため息ひとつ。北野め、と恨み言を零して、最近めっきり寒くなった空の下、重い足取りで帰路についた。
「ただいま」
今日も今日でしっかり陸橋の手すりに登ってきた。また落ちることはなく、電車をカウントダウンに帰ってきたわけだ。
返事はない。この時間家には誰もいない。なので最近出にくくなった裏声で、おかえりと返す。家の中はまた静まり返った。
BGM代わりにテレビを付けるとドラマがやっていた。再放送のみたいだ。
一人の警察官が連続殺人の犯人を追い詰めるシーンなのだが、どうやら警官側の旗色が悪く犯人と言い合いになっていた。
『確かに俺がやったのかもしれない。だが、証拠がない! 立証できなければ俺は無実。これが完全犯罪だ!』
テレビの中で犯人は声を荒立てた。
完全犯罪。言葉だけは聞いたことがある。証拠を残さずに罪を犯せば、罪には問われない。なるほど、そういう方法もあるのね。やらないだろうけど。
そのぼんやりした思考は鮮明に覆されることになった。
その日は北野の機嫌がよく、珍しくかんしゃくが降りかかってくることはなかった。昼休みになると北野は舎弟を連れ立って教室を出て行った。
いつもなら暇つぶしにいじってきたり、その日のムカつきを発散してきたりと面倒だけど、構えて待っている僕からすれば肩透かしもいいところだ。
人もまばらになった昼休みの教室に一人、立ち尽くす。
左斜め後ろの北野の席を見る。四限の教科書もノートも出しっぱなしだ。ノートは当たり前のように真っ白で、イタズラ書きでもしていたのか消しカスだけは机の上に散らばっていた。
ふと、筆箱に目が留まる。なんてことはない普通の筆箱だ。市販されている、プーマのマークの入った、なんのヘンテツのない黒い筆箱だ。普通の筆箱なのになぜか目が離せない。頭の中で絡まる思考がゆるゆるとひとつの思い付き、いや悪だくみとでもいうべき考えに結び付く。
気付けばゆっくりと手を筆箱へ伸ばしていた。
「ねえ」
指先が筆箱に触れる直前に声を掛けられ、思わず手を引っ込める。
「やめといた方がいいんじゃないの」
声の主は小渕だ。慌てて周囲を見渡すと、教室には僕と小渕しかいなかった。少し安心しつつ小渕を見る。小渕は北野の席から桂馬跳びに右後ろ、僕の三つ後ろの席の女子だ。いつも本ばっかり読んでるよくわかんないやつ。こんな風に話しかけてくるとは思わなかった。というか、まともに話すのは初めてかもしれない。
「なにそれ、心配してくれてるわけ」
どもったり、噛んだり、声が裏返ったりすることはなかったが、どこかつっかかった口調になってしまう。卑屈になってる証拠だ。これだから友達ができない。
「教室」
小渕は煩わしそうに口を開く。滑舌が悪いわけでも、声が小さいわけでもなかったが、だけれどなぜか聞き取れなくて、え、と聞き返す。
「教室、うるさくなるの、迷惑だから。何かしようとしてるなら、やめといてくれない」
正直驚いた。心配なんて言葉は彼女の中にはなく、教室が静かな方が暮らしやすいという、利己的な理由だけで「なにかしでかすならやめてくれ」とけん制してきたのだ。
なんとも自分勝手だ。自己中心的。エゴイスト、って言うんだっけか。
だからこそ、僕もジコチューにして良いって言ってもらえてるようで、笑けてくる。
「ショーコがなくてリッショーできなかったら完全犯罪らしいよ」
僕はどこかで聞き及んだ台詞を小渕に投げかけた。
「なにそれ」
小渕は心配して損した、とでも言わんばかりに肩をすくめるとまた読書に戻っていった。単に僕という存在から興味を失っただけかもしれないけど。
本の世界に戻っていった小渕を背に、僕も自分の席に着く。
小渕のおかげで意志は固まった。あとは実行するだけだ。
その日は一日中ニヤけが止まらなかった。
翌日には準備を済ませて機会を窺うだけとなったが、その日は実行には至らなかった。
絶好のチャンスを迎えたのは、週を跨いだ三日後のことだった。
昼休み、ぞろぞろとみんな教室から出ていく中に、北野とその取り巻きを見つける。
よし、第一条件はクリアだ。
この作戦の成功には条件がある。それは人目につかないことだ。事件の目撃者がいたら完全犯罪にはならないからね。被害者本人の北野に見つからないことが第一条件。他のクラスメイトがいないことが第二条件。第一条件は満たせても、第二条件も難しい。昼休みといえど、教室に残る人も少なくない。特に小渕が強敵だ。あいつの席からは北野の席は丸見えだし、本の虫というやつなのかは知らないがずっと教室で本を読んでいる。この計画を立ててから一番障害になっているのは間違いなく小渕だった。
心の中で皮肉を漏らしながら、当の本人の様子を確認する。こっちの気も知らずに小渕様は今日も優雅にお読書ですか、と。本当はおほほ笑いも付けてやりたかったが、思考が止まってそれどころじゃなかった。
小渕の席は空席だった。
そういえば、休みだったっけ。
はたと気付いて教室を見回す。教室には僕と津田しかいなかった。
津田は四限の時間から居眠りをこいていて、起きる気配はみられない。
絶好のチャンスを僕は手に入れてしまった。
机の脇に掛けてあるカバンの中に手を突っ込み、その存在を確認する。大丈夫。しっかり持ってきてる。それを掴んでゆっくり取り出す。
手の中にはプーマの黒い筆箱が握られていた。
それは北野が使っているのと同じもので、三日前に文房具屋で買った新品だ。
筆箱を握ったまま北野の机に近づく。一歩ごとに心臓が高鳴った。足が止まりそうになるが、意地で動かす。
北野の机の上には、同じ筆箱がある。北野の使っている、北野の筆箱だ。それに目線を吸い寄せられて、離れられなくなる。
早くすり替えようと思うも、緊張して中々動けなくなる。心臓は早鐘を打つ。このペースならあっという間に煩悩を振り払えそうだ。
手を北野の机に伸ばす。急がなきゃ、そう思えば思うほど手が震える。今は人がいなくても誰か戻ってくるかもしれない。先生や、他の誰か、それこそ北野が来る可能性だってある。見つかった時のことを考えると背筋に冷たいものを感じる。
北野の筆箱に手が触れる。開きっぱなしの口からペンが零れ、音を立てる。急いで津田を見るも、起きる様子は見られない。少し安堵して筆箱に向き合う。
筆箱の中身を取り出し、新しい筆箱に入れ替える。ペンが三本に消しゴムが一つ。この消しゴム使ったことあるけど、消えにくいやつだ。北野にとっては消えやすさなんてどうでもいいのかもしれない。北野の筆箱の中を見て、中に目立つ汚れなんかがないことを確認する。ないみたいで、また一安心。
北野の筆箱を持って急いで席に戻り、カバンに突っ込む。津田を見るとまだ舟を漕いでいる。勝った。成功だ。勝利の美酒というわけでもないが、お茶のペットボトルを取り出し喉を潤した。緊張からか、喉が渇いて仕方がなかった。
まだ心臓は音を立てている。ちょっと苦しいくらいだ。この苦しさに似た感覚に心当たりがある。橋の上だ。
陸橋の手すりの上の光景を思い出す。そういえばあの日から手すりの上に立ってはいない。この計画に夢中になっていたからだろうか、橋の上に行きたいとは思わなくなっていた。
今、手すりの上にいるのと同じだ。今やっていることは、あれとなにも変わらない。
そう、変わらない。変わらない、小さなことにすぎない。そう言い聞かせ、全身から溢れてしょうがない衝動を抑え込む。
脱力して深呼吸していると、ちらほらとクラスメイトが教室に帰ってくる。時計を見ると、もう昼休みは終わりかけていた。緊張や集中やらで、ごちゃまぜになった僕の頭ではあっという間に感じたが、かなりの時間がたっていたらしい。
もうすぐ北野も帰ってくるだろう。バレることはないと信じているが、また胸の鼓動は早くなり、鳩尾あたりがつままれたように痛くなった。
結局、北野に筆箱のことがバレることはなかった。
しかし、それは北野が持っている筆箱のことだ。同じ筆箱はもう一つ存在する。カバンの中に隠した、元々北野が使っていた筆箱だ。北野が入れ替えた筆箱を使い続け、それに違和感を覚えなくても、僕が同じ筆箱をもう一つ、普段使いのものとは別に持っていたら、それはそれは怪しいことだろう。
だから、この筆箱にはこの世からなくなってもらう。証拠隠滅であり、この計画の第二段階であり最終目的だ。
日の傾いた校舎裏に人影はない。この時間まで居残る振りをするのに、図書室で本を読んでいたが、どんな本を何ページ読んでも何も頭に入ってこなかった。
思った通りこの時間になると、焼却炉には火が入れられ、橙の炎を灯していた。
この学校には今どき珍しく焼却炉があり、放課後になると用務員の爺さんが火をつけ、その日のゴミを燃やしている。危ないから近づくなとお触れが出されているが、フェンスや囲いはなく、容易に近づくことができる。だからこそ、消したい証拠を投げ入れるにはおあつらえ向き、というわけだ。
ここに、この筆箱を投げ入れれば、証拠は消えてなくなる。完全犯罪達成だ。
また、鼓動が早くなる。駆け寄りたい衝動を抑えて、一歩また一歩と近づく。全身が汗ばむが、それは火に近いからか興奮しているかはもうわからない。きっと今鏡を覗けば顔を真っ赤にしていることだろう。
筆箱に目を向ける。北野の顔を思い浮かべると、自然と体は動いた。
気が付くと筆箱は焼却炉の中へ放り込まれ、燃え盛る炎に飲まれていく。
くふふ、と妙な笑い声が零れた。自分の笑い声を聞いて、今自分は笑っているのかと気付く。自分で認識してしまうと、もう抑えることはできなかった。膝から崩れ落ち、気が狂ったように笑い声を上げた。
目の前では北野の筆箱はどんどん灰へと変えられていく。その光景は今までにないくらいに鮮明に目に焼き付いてきた。「完全犯罪だ。完全犯罪達成だ」と笑いながらつぶやく。北野はこれから何にも疑うことなく筆箱を使い続けるだろう。僕がくれてやった筆箱を、だ。ありがたく使うんだな、と勝手に炎に映し出した北野に吐き捨てる。もう筆箱は跡形もなく、見る影もなくなってしまった。おかしくてしょうがない。愉快だ。痛快極まりない。おかしすぎておかしくなりそうだ。
ついに腹がよじれて、倒れ込んでしまう。文字通り、笑い転げる。
紅葉の赤なのか、落ち葉の赤なのか。夕焼け空の橙なのか、焼却炉の火の橙なのか、わからなくなるほど笑い転げ、笑い続けた。
あれから、陸橋の手すりの上に立つことはなくなった。今もしもあの場所に立ったら、怖くて怖くて足を滑らしてしまいそうだ。今後一切あの場所に行きたいと思うことはないだろう。そんな予感がする。
そして一週間が経っても、北野が筆箱の変化に気付く様子は見られないし、他の奴が何か言ってくることもない。
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