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覚醒剤編

第8話 シャム猫

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 完全に日が落ちたころ、サボテンの描かれた看板が目印のテキーラ-バーに私は赴いた。
「マスター、こんばんは」
 薄暗い店内には、しかし誰もいない。いつもであれば客のいない店内で、マスターが酒瓶を拭いたり謎のメキシコ料理を試作したりしているはずなのに。
「お留守かな?」
 でもドアに鍵がかかっていなかったから、今は営業中のはずだ。一体どうしたんだろう。
 そのとき奥の方から物音がした。金属製のボウルか何かが床に落ちたときのような、ぐわんぐわんという音だ。私は奥の調理場に通じるアーチ型の開口部に向かって呼びかけてみた。
「マスター?」
「あ、ノゾミンか。すまん、今手が離せない……」
 マスターの声とともに、にゃあという鳴き声がした。
「猫? 今の猫の鳴き声ですよね。マスターったら猫を飼ったんですね! 見たいです、そっちに行ってもいいですか」
「ちょ、ちょっと待って……」
 猫の鳴き声と、再び何かが床に落下する音、マスターの諦めの滲む小さな悲鳴などなど、いろいろな音が同時に聞こえてきて、私は思わず首をすくめた。どうやら調理場では一騒動起こっているようだ。

 これは時間がかかるかもしれない。私は勝手にカウンター席に座り、マスターが出てくるのを待つことにした。

 しばらくして、マスターがよろよろといった感じで調理場から出てきた。手には黒い革のグローブをはめて、真っ白なふわふわを両手で包むようにして持っている。そのふわふわは耳の先と足の先っぽがチャコールグレーで、それ以外は雪のように白い。私に向かって青い目を向けて、にゃあと鳴いた。とても小さい子猫だった。あったかいお茶の入ったペットボトルぐらいのサイズだ。
「かっ……!」
 思わずのけぞってしまう。
「可愛い!」
「はは……」
 こんなにも愛くるしい天使を手にしているというのに、どういうわけかマスターは疲れたような笑みを浮かべていた。
「こういう毛並みの子はシャム猫っていうんでしたっけ。青い目がすっごい綺麗ですね。名前は何ていうんですか」
「名前? いや、まだないよ」
「飼って間もないんですか?」
 にゃあ、と子猫が返事をしたが、マスターは首を振った。
「本当は飼うつもりはなかったんだよなあ」
 子猫はマスターの指にがぶりと噛みついたが、グローブをしているからか、それとも甘噛みなのか、マスターは痛がるそぶりを見せなかった。
「この子、ワケアリなんですか?」
「うん。うちの店の嬢がこの子を拾って、店に連れてきちゃったんだ。家では飼えないから店で飼いたいって。そんなの営業の邪魔になるからダメに決まってるのに、まったく……。黒服たちが外に追い出したんだけど、この子は店先でずっと鳴いてたらしくてさ。じゃあ保健所を呼ぶかって話になって、店長から俺にお伺いの電話がかかってきたから、どんなもんか様子を見にいってみたら、それが運の尽き! なんだか放っておけない気持ちになったわけ」
「それでマスターが飼うことにしたと」
「そういうこと。でもバーに連れてきたのは失敗だったな。ケージの外に出せって鳴いて騒ぐし、出したら出したで暴れ回るし。かといって家に置いとくのも不安だろ?」
 子猫は話の間もずっとマスターの指を噛んでいる。おしゃぶり感覚で指を囓っている感じだ。
「この子、ノゾミンって名前にしようか」
 突然そんなことを言われてびっくりしてしまった。
「な、何でですか? あ、私みたいに可愛いからですか?」
「ははは」
 すっごい棒読みの笑い声が返ってきた。うう、ただの冗談のつもりだったのに。
「この子はね、無力で小さくて、それなのにわあわあ叫びながら俺の指にかじり付いてきた。無鉄砲なところがよく似てるよ。ノゾミンがユウゲキに入社して、初めて俺のところに家賃の回収に来たときも、こんな感じだった」
 なんだか微妙な気持ちになるな、それは。
「放っておけないんだよなあ、こういう子って」
 マスターは子猫の頭をそっと撫でた。
「だって目を離すとすぐ死ぬから」
「マスター……?」
 いつもと雰囲気が違うマスターに困惑してしまう。ふだんは気さくなおじさんなのに、今のマスターは少し怖いような雰囲気を漂わせていた。修羅場をくぐってきた人間特有の顔つきとでもいうのか。
 柳さんはこの新陶エリアでたくさんの店を経営する人だ。やはりただのおじさんではないのだということを再認識したような気持ちだった。

「それで用件は? 何かあったんだろう」
 マスターに水を向けられて、私は少し面食らいつつも、遠慮なく切り出した。
「キャバ嬢の間で覚せい剤が流行っているって聞いたんですけど、本当なんでしょうか」
 マスターはしばらく無言で子猫に指を囓らせていたが、
「今に始まったことじゃないさ」と吐き捨てるように言った。
 驚く私に、マスターは笑いかけた。どこか投げやりな感じのする笑みだった。
「昭和のころからずっと続いてることだよ。お決まりのパターンとしては、店に来たヤクザと付き合うようになって、薬に誘導されて薬物依存になって、売春させられて、身も心もぼろぼろになって稼げなくなった頃合いで逮捕されるか山中に埋められるか……。でも最近は自分から薬を求める嬢も増えたみたいだな」
「自分から? そんな、なんで……」
「何かにすがらないと生きていけない子が多いからね。みんな心に傷を抱えているよ。薬をやるのも、ブランドものに全財産をつぎ込むのも、整形を繰り返すのも、ホストにはまるのだってみんな同じ理由さ。何かに寄りかかりたいんだよ」
 そうしないと生きていけない悲しみを抱えて、幸せになれないとわかっていてもほかに方法もなくて、どれだけの女たちが新陶の夜に沈んでいったことだろう。
 胸の奥がしんと冷えるような気持ちだった。
 よく聞くキャバ嬢の成功談に、若い頃にがんがん稼いで、年をとったらすぱっと辞めて昼の世界に戻る、そんな話がある。お金持ちの男に見初められて、玉の輿に乗るという話もよく聞く。しかし、そんなふうに「上手くやる」ことができなかった人の話は、なかなか表には出てこない。
「何かに寄りかからないと生きていけない弱さを抱えていて、でも寄りかかったらお金を吸い上げられてしまう。弱い者が食い物にされる世界なんですね、夜の世界は」
「否定はしないよ」
 子猫が大あくびをした。退屈してきたのだろうか。マスターはカウンターテーブルの横に設置されたペット用ケージに子猫を戻した。
「ただまあ、言いわけかもしれないけれど、夜の世界でしか生きていけない子もいるからね」
「ええ、否定はしません」
 何が正しくて、何が間違いか。そんなことを考えていたら身動き取れなくなる。この盛り場では、わかりやすい正しさなんてきっと誰も欲しがっていない。
 白も黒もない世界で、ただ唯一、みんなが絶対的に信じているものがある。それはお金だ。新陶では、お金こそが正義である。
「私はお給料をもらえれば……それ以外は考えないようにしたいです。考えたらわからなくなるから」
 それでも考えずにはいられないことが多いけれど。
 マスターは寂しげに微笑んだ。
「清濁併せのむのが一人前ってやつだな。だが、それだけじゃやりきれない。人生なんて上質なテキーラなしに耐えられるもんじゃないぞ。一杯やっていけ」
「遠慮しておきます。私、下戸なので。でも、マスター」
 私は話をもとに戻した。
「昔から薬物が流行っているのだったら、どうして最近になって急にキャバ嬢が売春してまで薬代を稼がなきゃいけなくなったんでしょう」
 柳さんは、そこで初めて首をかしげた。
「それは確かに奇妙だな。薬の価格が上がったのか?」
 たしかマーシャもそんなことを言っていたっけ。
「売人が無理にふっかけてるのだとしたら、金以外のものが目的なのかもしれないな」
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