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第11話 被験者
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「しょーちゃんが大変なんです、助けてください!」
「え、助けるってどういうこと?」
いきなり何なの!?
「とにかく早く来てください。私の家の住所は……」
何が何だかわからないまま、夫の浮気相手の住所をメモさせられていた。
電話で聞いた住所のマンションの一室を訪れると、ゴミ袋でできた丸い壁に囲まれるようにして、彼女と夫が何をするでもなくただ立っていた。室内はよく冷房が効いていたが、どこかかび臭いにおいがする。
失踪したと思っていた夫だったが、こんなところにいたなんて。職場にもあらわれていないというから、てっきり遠いところに駆け落ちでもしたのかと思っていたが、わりと近所にいたようだ。
夫は、ゴミ袋の隙間から窓のほうを見ていた。夕焼けでも眺めているのだろうか。
「奥さん、何とかしてください!」
「何とかって言われても、状況がよくわからないのだけれど」
彼女――近藤さんは、恨みがましい目で私を見上げた。
「奥さんのせいですよ。浮気を治す薬があるなんて、奥さんがしょーちゃんに言うから……」
「浮気を治す薬って……。まさか、製薬会社の治験を受けたんですか?」
彼女は頷いた。
「だって、しょーちゃんは、私というものがありながら奥さんと浮気してたから、治してほしかったんです。それなのに、こんなふうになるなんて、私聞いてない」
近藤さんの言うことは全てがおかしい気がしたが、混乱した頭を抱えつつ、とりあえず今優先すべき疑問点だけをピックアップすることにした。
「こんなふうにっていうのはどういうことですか。特に変わったところはないように見えますが」
そう言いつつも、女たちが口論になっているのに、背を向けたまま窓の外を見ている夫に違和感があるのも事実だった。夫の性格なら、にやにや笑いながら近藤さんの応援をしそうなものなのだが。
日が沈むにつれ、空が真っ赤になっていく。それとは対照的に、室内はどんどん暗くなっていく。
近藤さんは、夫の手を引いて、無理矢理こっちを向かせた。
「しょーちゃん」
久しぶりに見る夫の顔には何の表情もなく、奇妙にぼんやりとしていた。すぐ目の前に私がいることにも気づいていないかのような、虚ろな目をしていた。
そのとき、屋外から子供の帰宅を促すメロディーが聞こえてきた。『遠き山に日は落ちて』だ。それにつられるように近くでカラスが鳴いた。すると、夫はかっと目を見開き、「あああ」と叫んだ。私は異様なものを感じ、思わず数歩後ずさった。
「やめて、しょーちゃん」
「あああ」
近藤さんがすがりつくようにして夫を抱きしめる。夫はそれに気づいているのかいないのか、無抵抗で、あああと叫び続ける。
「何なの、これ……」
私はおそるおそる夫に近づき、顔を覗き込んでみた。わざとやっているのかしれないとも思ったのだが……。夫は目の焦点も合っていないようだった。あきらかにおかしい。こんな芝居できっこない。夫は一体どうしてしまったのだ。
「これだけじゃないんです。しょーちゃんは、ごみ置き場を漁ったり、よそのお宅の屋根にのぼったり、ネズミを持って帰ってきたりするようになって……!」
「ええ……?」
近藤さんは、叫ぶ夫に抱きついたまま、私を睨んできた。
「全部奥さんのせいですよ」
「……私のせい?」
「そうです! 奥さんが治験のことを言うから」
「そんな……! 近藤さんが夫と浮気して、近藤さんが夫に得体の知れない治験を受けさせたんでしょう。そんなの私のせいじゃない、全部近藤さんのせいじゃ……」
「でも、私、そんなつもりじゃなかったんですもん!」
近藤さんが泣き叫ぶように声を張り上げると、夫もあああと叫んだ。
「私ただ幸せになりたかっただけなのに。もとはといえば奥さんがしょーちゃんと別れてくれないせいで、こうなったんじゃないですか」
「人の夫に手を出しておきながら、あまりにも勝手な言い分ですね」
「……返します」
「え?」
「もうしょーちゃんは壊れちゃったから、いらないので返します」
「な、何を言っているの……? 人の人生を狂わせておいて、返すだなんて、あまりにも物事を軽く考えすぎですよ」
彼女に離婚を迫られたときよりも、不愉快だった。
「だって、私はしょーちゃんと結婚してないし、面倒をみる義務はないですよね?」
「近藤さん、あなた、本気で言っているの? 自分がしでかしたことの責任をとるつもりがないの?」
「だって、全部奥さんが悪いんですもん。私、かわいそう……」
まるで話が通じない。
離婚しろといって家に突撃してきたと思えば、今度は夫を引き取れといって呼びつけて、それで自分が被害者であるかのように振る舞っている彼女は、一体頭の中がどうなっているんだろうか。
「私、悪くないもん……」
「近藤さん、それは違います。どうしたって不倫した人が悪いんです。誰かのせいにはできません。だから、責任はとらなきゃ。あなたも大人なのだから」
これは自分に言い聞かせるための言葉でもあった。彼女は目に涙をためて私をにらむばかりで、理解してもらうことはできないかもしれないけれど、言わずにはいられなかった。
「不倫の慰謝料なんて私は要りません。ただ、こんなふうになった夫を放り出して逃げるなんて、許しません。人に迷惑をかけるだけかけておいて、面倒が起きたら知らんぷりなんて許しません」
「ひどい……」
溜息が出る。
「夫の今後のことは、義父母に相談してみましょう。でも、私がやるのはそこまで。もし義父母が夫を引き取ることを拒否したら、近藤さん、あなたが面倒をみてあげないとだめですよ。私は浮気して出ていった夫の面倒なんか見るつもりはありません」
彼女はしくしくと泣き出した。まるで悲劇のヒロインであるかのように。その程度の覚悟で不倫したのかと思うと、妙に腹立たしかった。
結局、義父母が夫の面倒をみることになった。
事情を知った義父母は、息子の浮気癖を嘆き、えたいのしれない治験を受けさせられたことを嘆き、そして、息子が離婚していたことを嘆いた。
私は知らなかったが、離婚届が出されていたのだ。
サインした覚えがないから、夫と近藤さんで勝手に偽造したのだろう。離婚届に書かれた日付は、夫が失踪する直前のものだった。
私たちはもう夫婦じゃなくなっていた。
あっけなく、知らない間に終わっていた。
義父母は「離婚無効の申し立てをしてほしいんだけど……。もう一度夫婦に戻って、息子を支えてあげて」と私に言ってきたが、私は断った。
「じゃあ、近藤とかいう女を新しい嫁としてうちに迎えるわ。それでもいいの?」と脅すように言われたので、「私は構いません」と伝えると、「なんて薄情なの。もう二度と顔も見たくない」と絶縁宣言をされた。でも後悔はなく、むしろほっとしたような気持ちだった。
私は住んでいた賃貸マンションの契約を解除し、安いアパートに引っ越した。幸いなことに新居近くで仕事を見つけることができた。
離婚したので相田ではなくなったことを幸希くんに伝えたものかどうか迷っていたら、私の新居を見てみたいと幸希くんが言い出した。
「ダメですか?」
「ダメじゃないけど、たいして面白くないと思うよ?」
「そうかな。相田さんの家に行ったら、きっととても面白いことがあるような気がします」
夫は失踪中で、でも婚姻関係はそのままであると幸希くんは思っている。最近では夫に関することは、極力言わないようにしていた。夫のことを相談することで親密になったのに、親密になったら夫の話題を避けているなんて、おかしなものだ。
離婚したことを知られてしまったら、きっと二人の関係に影響を与えるだろう。私はそれを怖れていた。どうなることを怖れているのかは、自分でもよくわからないのだけれど。
次の休みの日、彼が遊びにやってきた。
「え、助けるってどういうこと?」
いきなり何なの!?
「とにかく早く来てください。私の家の住所は……」
何が何だかわからないまま、夫の浮気相手の住所をメモさせられていた。
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失踪したと思っていた夫だったが、こんなところにいたなんて。職場にもあらわれていないというから、てっきり遠いところに駆け落ちでもしたのかと思っていたが、わりと近所にいたようだ。
夫は、ゴミ袋の隙間から窓のほうを見ていた。夕焼けでも眺めているのだろうか。
「奥さん、何とかしてください!」
「何とかって言われても、状況がよくわからないのだけれど」
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「だって、しょーちゃんは、私というものがありながら奥さんと浮気してたから、治してほしかったんです。それなのに、こんなふうになるなんて、私聞いてない」
近藤さんの言うことは全てがおかしい気がしたが、混乱した頭を抱えつつ、とりあえず今優先すべき疑問点だけをピックアップすることにした。
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そう言いつつも、女たちが口論になっているのに、背を向けたまま窓の外を見ている夫に違和感があるのも事実だった。夫の性格なら、にやにや笑いながら近藤さんの応援をしそうなものなのだが。
日が沈むにつれ、空が真っ赤になっていく。それとは対照的に、室内はどんどん暗くなっていく。
近藤さんは、夫の手を引いて、無理矢理こっちを向かせた。
「しょーちゃん」
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そのとき、屋外から子供の帰宅を促すメロディーが聞こえてきた。『遠き山に日は落ちて』だ。それにつられるように近くでカラスが鳴いた。すると、夫はかっと目を見開き、「あああ」と叫んだ。私は異様なものを感じ、思わず数歩後ずさった。
「やめて、しょーちゃん」
「あああ」
近藤さんがすがりつくようにして夫を抱きしめる。夫はそれに気づいているのかいないのか、無抵抗で、あああと叫び続ける。
「何なの、これ……」
私はおそるおそる夫に近づき、顔を覗き込んでみた。わざとやっているのかしれないとも思ったのだが……。夫は目の焦点も合っていないようだった。あきらかにおかしい。こんな芝居できっこない。夫は一体どうしてしまったのだ。
「これだけじゃないんです。しょーちゃんは、ごみ置き場を漁ったり、よそのお宅の屋根にのぼったり、ネズミを持って帰ってきたりするようになって……!」
「ええ……?」
近藤さんは、叫ぶ夫に抱きついたまま、私を睨んできた。
「全部奥さんのせいですよ」
「……私のせい?」
「そうです! 奥さんが治験のことを言うから」
「そんな……! 近藤さんが夫と浮気して、近藤さんが夫に得体の知れない治験を受けさせたんでしょう。そんなの私のせいじゃない、全部近藤さんのせいじゃ……」
「でも、私、そんなつもりじゃなかったんですもん!」
近藤さんが泣き叫ぶように声を張り上げると、夫もあああと叫んだ。
「私ただ幸せになりたかっただけなのに。もとはといえば奥さんがしょーちゃんと別れてくれないせいで、こうなったんじゃないですか」
「人の夫に手を出しておきながら、あまりにも勝手な言い分ですね」
「……返します」
「え?」
「もうしょーちゃんは壊れちゃったから、いらないので返します」
「な、何を言っているの……? 人の人生を狂わせておいて、返すだなんて、あまりにも物事を軽く考えすぎですよ」
彼女に離婚を迫られたときよりも、不愉快だった。
「だって、私はしょーちゃんと結婚してないし、面倒をみる義務はないですよね?」
「近藤さん、あなた、本気で言っているの? 自分がしでかしたことの責任をとるつもりがないの?」
「だって、全部奥さんが悪いんですもん。私、かわいそう……」
まるで話が通じない。
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「不倫の慰謝料なんて私は要りません。ただ、こんなふうになった夫を放り出して逃げるなんて、許しません。人に迷惑をかけるだけかけておいて、面倒が起きたら知らんぷりなんて許しません」
「ひどい……」
溜息が出る。
「夫の今後のことは、義父母に相談してみましょう。でも、私がやるのはそこまで。もし義父母が夫を引き取ることを拒否したら、近藤さん、あなたが面倒をみてあげないとだめですよ。私は浮気して出ていった夫の面倒なんか見るつもりはありません」
彼女はしくしくと泣き出した。まるで悲劇のヒロインであるかのように。その程度の覚悟で不倫したのかと思うと、妙に腹立たしかった。
結局、義父母が夫の面倒をみることになった。
事情を知った義父母は、息子の浮気癖を嘆き、えたいのしれない治験を受けさせられたことを嘆き、そして、息子が離婚していたことを嘆いた。
私は知らなかったが、離婚届が出されていたのだ。
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