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最終話 さようなら夫よ。あなたはもう知らない人です。
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「どこにいるの、梅ちゃん」
まさか交通事故にでも遭ったんじゃ……嫌な想像をしてしまい、ああ、やっぱり家に連れて帰るべきだったと後悔して下唇を噛んだとき。
港脇の駐車場で、仰向けになっておなかを撫でられている黒猫を見つけた。安堵のあまり長い溜息が出た。ああ、良かった、事故に遭ったわけじゃなかった……。
猫を撫でているのは誰だろうと視線を上げたときの私の驚きは、多分どう表現してもうまく言いあらわせないと思う。
彼は立ち上がると、コートの裾をはためかせて、私のほうに向かって歩きだした。私は立ち尽くしたまま、彼との距離が一歩一歩縮まっていくのをただ見守ることしかできなかった。
「僕はやっぱり優しい人間じゃないから、三緒さんの意思を尊重してそっとしておくことができませんでした」
「幸希くん……」
「探しました。もし見つからなかったら一生探し続けるところでした。あ、そうだ、例の女についてですけど、ケリをつけましたから安心してください。もう手出しはさせません」
涙があふれてきて、彼の顔がよく見えない。
「これからも、いろいろと問題が起こるかもしれません。でも、全部乗り越えてみせる。だから、三緒さんには僕と一緒にいてほしい。僕は優しくないから、人のものだとわかっていても、奪ってでも三緒さんがほしかった。その気持ちはずっと変わらないから」
「幸希くん……!」
先に手を伸ばしたのは私か、それとも彼だったか。ただ、強くしっかりと抱き合ったことだけは確かだった。
☆☆☆
――数年後。
美容室を出ると、私は待ち合わせ場所へと急いだ。約束の時間を過ぎていた。美容室は混んでいて、思ったより時間がかかってしまったのだ。走ったほうがいいかもしれない。せっかくセットしてもらった髪が乱れてしまうかもしれないけれど。
数歩駆け出したときだった。
「あ、おい、待ってくれ!」
ジャージ姿の中年男性に通せんぼされてしまった。一瞬、変質者かもしれないと思って身構えたが、その顔には見覚えがあった。
「三緒……」
別れた夫だった。私は信じられない思いで、元夫を見つめ返した。毛玉だらけのジャージで外出するだなんて、私と結婚していたときには考えられないことだった。無精髭を生やした夫は年齢よりずっと老けて見えたが、しかし私が最後に見たときのような異様な感じはしなかった。
「治験の……後遺症が治ったの……?」
「ああ、うん、治るまではいかないけど、大分良くはなったよ。いまはリハビリ中。さっき病院帰りのバスの中からおまえを見かけてさ。もうびっくりして、慌てて下車したよ。ちょっとそこのカフェにでも行って話さないか」
「……今さら何の話があるの」
「いや、だって聞いてくれよ。俺は今彼女と一緒に実家住まいなんだけどさ、彼女と親が毎日喧嘩してて居心地が悪いんだよね」
「……」
「彼女は家事をサボるくせに、「私の味方をしてくれないなんてひどい」って言って泣くし、親は「あんな女さっさと追い出して、家事ができる嫁を連れてこい」ってうるさいし。そんなときにおまえを見かけたもんだから、これはチャンスだと思ったんだよ」
「……チャンス?」
「よりを戻すチャンスだよ。彼女はもう追い出すから、帰ってきていいぞ」
あんまりな言葉に私は絶句した。近藤さんを追い出す? 家事は苦手かもしれないけれど、それでもあの親と同居してあなたを支えてくれた人を?
こんなに身勝手な人だったなんて。
私が呆れているのにも気づかず、元夫は調子よくしゃべり続けた。
「また俺のためにロールキャベツをつくってくれよ。固いけど文句言わずにちゃんと食べてやるから。はあ、良かった、おまえが戻ってきてくれたら親も静かになるわ」
元夫はほっとしたとでも言いたげに笑った。私が拒否するわけがないと思い込んでいるようだ。その自信はどこからくるのだろう。
「私、あなたとよりを戻すつもりはないよ」
きっぱりと宣言したけれど、夫はにやにやするだけだった。
「ああもう、意地を張るなよ。働くこともできないくせに」
「働いてるよ」
「……え?」
「私、あなたと別れてからずっと働けてたんだよ。……今はちょっとお休み中だけど」
元夫は大きな声でからからと笑った。
「ほらやっぱり! お休み中ってつまり無職ってことだろ? おまえに仕事なんかできるわけないもんなあ」
「そうじゃなくて……!」
「はいはい、もう言い訳はいいからうちに帰るぞ。洗濯物がたまってるんだよ」
手を伸ばしてきたので、私は一歩下がって、左手を突き出した。薬指にはまっている指輪がよく見えるよう指を伸ばす。
元夫は、ぽかんと口をあけて指輪をまじまじと見つめた。
「私、再婚したの。だから何を言われても無理。もう私にかかわらないで」
元夫は顔を歪めた。
「嘘だろ……なあ、そんなの嘘だって……」
「嘘じゃない。私は再婚して、今とっても幸せなんだよ」
言いなりになる都合の良い家政婦はもうどこにもいないとこれで理解してくれただろうか。
「三緒さん、どうかした?」
そのとき、待ち合わせ場所にいるはずの夫が、ベビーカーを押してやってきた。途中買い物に寄ったみたいで、腕にはエコバッグを掛けている。袋からはキャットフードの袋が少しだけはみ出していた。
「遅いから迎えにきたんだけど、こちらの方は……?」
「ううん、知らない人。ちょっと道を聞かれただけだよ。待たせちゃってごめんね。それじゃあ、いきましょう」
私は幸希くんと並んで歩き出す。うしろを振り返ったりなんかしなかった。
<完>
まさか交通事故にでも遭ったんじゃ……嫌な想像をしてしまい、ああ、やっぱり家に連れて帰るべきだったと後悔して下唇を噛んだとき。
港脇の駐車場で、仰向けになっておなかを撫でられている黒猫を見つけた。安堵のあまり長い溜息が出た。ああ、良かった、事故に遭ったわけじゃなかった……。
猫を撫でているのは誰だろうと視線を上げたときの私の驚きは、多分どう表現してもうまく言いあらわせないと思う。
彼は立ち上がると、コートの裾をはためかせて、私のほうに向かって歩きだした。私は立ち尽くしたまま、彼との距離が一歩一歩縮まっていくのをただ見守ることしかできなかった。
「僕はやっぱり優しい人間じゃないから、三緒さんの意思を尊重してそっとしておくことができませんでした」
「幸希くん……」
「探しました。もし見つからなかったら一生探し続けるところでした。あ、そうだ、例の女についてですけど、ケリをつけましたから安心してください。もう手出しはさせません」
涙があふれてきて、彼の顔がよく見えない。
「これからも、いろいろと問題が起こるかもしれません。でも、全部乗り越えてみせる。だから、三緒さんには僕と一緒にいてほしい。僕は優しくないから、人のものだとわかっていても、奪ってでも三緒さんがほしかった。その気持ちはずっと変わらないから」
「幸希くん……!」
先に手を伸ばしたのは私か、それとも彼だったか。ただ、強くしっかりと抱き合ったことだけは確かだった。
☆☆☆
――数年後。
美容室を出ると、私は待ち合わせ場所へと急いだ。約束の時間を過ぎていた。美容室は混んでいて、思ったより時間がかかってしまったのだ。走ったほうがいいかもしれない。せっかくセットしてもらった髪が乱れてしまうかもしれないけれど。
数歩駆け出したときだった。
「あ、おい、待ってくれ!」
ジャージ姿の中年男性に通せんぼされてしまった。一瞬、変質者かもしれないと思って身構えたが、その顔には見覚えがあった。
「三緒……」
別れた夫だった。私は信じられない思いで、元夫を見つめ返した。毛玉だらけのジャージで外出するだなんて、私と結婚していたときには考えられないことだった。無精髭を生やした夫は年齢よりずっと老けて見えたが、しかし私が最後に見たときのような異様な感じはしなかった。
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「ああ、うん、治るまではいかないけど、大分良くはなったよ。いまはリハビリ中。さっき病院帰りのバスの中からおまえを見かけてさ。もうびっくりして、慌てて下車したよ。ちょっとそこのカフェにでも行って話さないか」
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「いや、だって聞いてくれよ。俺は今彼女と一緒に実家住まいなんだけどさ、彼女と親が毎日喧嘩してて居心地が悪いんだよね」
「……」
「彼女は家事をサボるくせに、「私の味方をしてくれないなんてひどい」って言って泣くし、親は「あんな女さっさと追い出して、家事ができる嫁を連れてこい」ってうるさいし。そんなときにおまえを見かけたもんだから、これはチャンスだと思ったんだよ」
「……チャンス?」
「よりを戻すチャンスだよ。彼女はもう追い出すから、帰ってきていいぞ」
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こんなに身勝手な人だったなんて。
私が呆れているのにも気づかず、元夫は調子よくしゃべり続けた。
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元夫はほっとしたとでも言いたげに笑った。私が拒否するわけがないと思い込んでいるようだ。その自信はどこからくるのだろう。
「私、あなたとよりを戻すつもりはないよ」
きっぱりと宣言したけれど、夫はにやにやするだけだった。
「ああもう、意地を張るなよ。働くこともできないくせに」
「働いてるよ」
「……え?」
「私、あなたと別れてからずっと働けてたんだよ。……今はちょっとお休み中だけど」
元夫は大きな声でからからと笑った。
「ほらやっぱり! お休み中ってつまり無職ってことだろ? おまえに仕事なんかできるわけないもんなあ」
「そうじゃなくて……!」
「はいはい、もう言い訳はいいからうちに帰るぞ。洗濯物がたまってるんだよ」
手を伸ばしてきたので、私は一歩下がって、左手を突き出した。薬指にはまっている指輪がよく見えるよう指を伸ばす。
元夫は、ぽかんと口をあけて指輪をまじまじと見つめた。
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「嘘だろ……なあ、そんなの嘘だって……」
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「三緒さん、どうかした?」
そのとき、待ち合わせ場所にいるはずの夫が、ベビーカーを押してやってきた。途中買い物に寄ったみたいで、腕にはエコバッグを掛けている。袋からはキャットフードの袋が少しだけはみ出していた。
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「ううん、知らない人。ちょっと道を聞かれただけだよ。待たせちゃってごめんね。それじゃあ、いきましょう」
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