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第二章 キアの裏切り
第七節 月の反転
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寝具が緑の弦月に照らされて薄いビリジアンに色付く頃、私はアン・テアノムの塔の私室で目を覚ました。
魔界侵攻作戦が始まって以降、執務室の休憩所で眠る事が多くなったので、私室で眠るのは久しぶりだ。
頬を撫でる風の流れが驚くほど冷たい。
夏とは言え、なぜ東向きの窓が開け放たれているのだろうか。
起き上がろうとして、右向きに寝ている事に違和感を感じる。身体を回して、ようやく自らが発熱し汗をかいている状況に気が付いた。
「ああ、そうか。左腕を斬られたんだわ」
断片化された事象が繋がって、眠る前の出来事を一気に思い出した。
「キア!」
イルトラにしてやられた、仮にも王家の給仕だろうに、いくら薬屋の娘だからといって。
薬を仕込む事に何の躊躇も持たないイルトラは、チンキをワインに混ぜ、私を寝かしつけてから私室まで運んだのだ。
「今時間はどれぐらいなのかしら?」
十分では無いが、睡眠欲を満たせる程度には眠った感じがある。
「真夜中かな。やっぱり左手が痛い」
イルトラは遠慮無く一晩分のチンキを盛ったに違いないが、私の負傷がこれ以上の安眠を妨害した。
アン・テアノムの塔は、アンテ城要塞部にある古い塔だ。私がトノア(王位継承順位二位)となった際に同時に与えられた。
この塔は地位も伴っており、兄弟姉妹への王位の継承が起きても所持者をより高い王位継承順位に留め置く。魔法使いの血を王族から絶やさぬためのヘリオトス独自の制度だ。
古い塔は残り二つあり、一つはアン・アナアムの塔、もう一つがピーラリオが使っているアン・アンテムの塔だ。
頑丈だが狭く、住み心地が良い訳では無いので好んで住んでいるのはピーラリオぐらいだ。
ベッドから上半身だけを起こすと、脇にある取っ手を押して、西向きの鎧窓を開ける。私室は最上階なので眺めは良い。
西向きの窓からは魔界を示す赤い月が見え、すでに開いている東向きの窓からは人間界を示す緑の月が見える。
「月が高い、やっぱり真夜中か……魔界脱出から半日経ってしまった……キアと魔王はどうなったんだろう」
夏の風が草の臭いを含んだ生ぬるい空気の流れとなって、東から西に二つの窓の間を抜けていく。
肌に張り付いた寝間着が風に冷やされ、私は震える。寝ている間に、寝具を湿らすほどの大量の汗をかいた様だ。
「無理も無いか、傷だらけだものね」
黄水晶の剣に斬られた左手の傷は深くは無いが、出血が止まらないので隙間が無いほど縫合された。
「キア、ごめん。私は助けに行けなかった。魔王に屈しないでね」
汗で流れてしまった水分を補うために、部屋の外に詰めている夜勤の侍女を呼ぶ。
「誰かいるなら、水を持って来てくれない」
「かしこまりました」
聞き知った声が欠伸をかみ殺して答えた。
「イルトラなの?」
「他に誰もいませんでしたので、今日は夜勤です」
イルトラは平然とした顔で、水差しとコップが乗った盆を持って、私の私室に入ってきた。
今アンテ城は、人間同盟の指揮官など中途半端に偉い訪問者が多く、使用人の人手が足りていない。
「イルトラ! 貴女ね、世界が滅びたらどうするの……」
「僭越ですが、世界の運命を決めるのは勇者様であって、殿下ではありませんよ」
「分かってるわよ……」
勇者は聖剣が選んだ世界のあり方であり、その死を含めてキアの選択が世界の意志となる。
自らの後ろ暗い暗躍のせいなのか、キアと魔王の関係に対する疑念なのか、私にはどこかキアが世界の滅びを選ぶかも知れないという不安を持っている。
「殿下、汗をかいてらっしゃいますね。私は給仕ですが汗を拭きましょう」イルトラは魔法で灯りを灯した。
不必要なまでのお節介さは、私達が笑顔を奪う前のキア・ピアシント、前の給仕班長にそっくりだ。
イルトラは寝間着の前を外して、私の乳房を取り出すと身体に挟まれた部分を丹念に拭いた。
「班長の頃のキアを覚えている?」
「新人の給仕だった私を、一人前にしてくれたのはキア先輩です」
「変わってしまった……いや、私が変えてしまったのね」
「いえ、変わったのだと思いますよ、勇者様は」
「そう……」
その時、寝具を照らす月の色が薄いビリジアンから、ひたすら明るいカドミウムレッドに変わった。
私はベッドの上に立ち上がり西向きの窓から身を乗り出して、巨大化した赤い月を凝視した。
まさにその瞬間、人間界は永続を失って破滅し、虐殺と飢餓と戦争に祝福され、世界の滅びは約束された。
キアが人間を裏切り、勇者の導き手である魔王に従い、世界の滅びを確定させたのだ。
魔界侵攻作戦が始まって以降、執務室の休憩所で眠る事が多くなったので、私室で眠るのは久しぶりだ。
頬を撫でる風の流れが驚くほど冷たい。
夏とは言え、なぜ東向きの窓が開け放たれているのだろうか。
起き上がろうとして、右向きに寝ている事に違和感を感じる。身体を回して、ようやく自らが発熱し汗をかいている状況に気が付いた。
「ああ、そうか。左腕を斬られたんだわ」
断片化された事象が繋がって、眠る前の出来事を一気に思い出した。
「キア!」
イルトラにしてやられた、仮にも王家の給仕だろうに、いくら薬屋の娘だからといって。
薬を仕込む事に何の躊躇も持たないイルトラは、チンキをワインに混ぜ、私を寝かしつけてから私室まで運んだのだ。
「今時間はどれぐらいなのかしら?」
十分では無いが、睡眠欲を満たせる程度には眠った感じがある。
「真夜中かな。やっぱり左手が痛い」
イルトラは遠慮無く一晩分のチンキを盛ったに違いないが、私の負傷がこれ以上の安眠を妨害した。
アン・テアノムの塔は、アンテ城要塞部にある古い塔だ。私がトノア(王位継承順位二位)となった際に同時に与えられた。
この塔は地位も伴っており、兄弟姉妹への王位の継承が起きても所持者をより高い王位継承順位に留め置く。魔法使いの血を王族から絶やさぬためのヘリオトス独自の制度だ。
古い塔は残り二つあり、一つはアン・アナアムの塔、もう一つがピーラリオが使っているアン・アンテムの塔だ。
頑丈だが狭く、住み心地が良い訳では無いので好んで住んでいるのはピーラリオぐらいだ。
ベッドから上半身だけを起こすと、脇にある取っ手を押して、西向きの鎧窓を開ける。私室は最上階なので眺めは良い。
西向きの窓からは魔界を示す赤い月が見え、すでに開いている東向きの窓からは人間界を示す緑の月が見える。
「月が高い、やっぱり真夜中か……魔界脱出から半日経ってしまった……キアと魔王はどうなったんだろう」
夏の風が草の臭いを含んだ生ぬるい空気の流れとなって、東から西に二つの窓の間を抜けていく。
肌に張り付いた寝間着が風に冷やされ、私は震える。寝ている間に、寝具を湿らすほどの大量の汗をかいた様だ。
「無理も無いか、傷だらけだものね」
黄水晶の剣に斬られた左手の傷は深くは無いが、出血が止まらないので隙間が無いほど縫合された。
「キア、ごめん。私は助けに行けなかった。魔王に屈しないでね」
汗で流れてしまった水分を補うために、部屋の外に詰めている夜勤の侍女を呼ぶ。
「誰かいるなら、水を持って来てくれない」
「かしこまりました」
聞き知った声が欠伸をかみ殺して答えた。
「イルトラなの?」
「他に誰もいませんでしたので、今日は夜勤です」
イルトラは平然とした顔で、水差しとコップが乗った盆を持って、私の私室に入ってきた。
今アンテ城は、人間同盟の指揮官など中途半端に偉い訪問者が多く、使用人の人手が足りていない。
「イルトラ! 貴女ね、世界が滅びたらどうするの……」
「僭越ですが、世界の運命を決めるのは勇者様であって、殿下ではありませんよ」
「分かってるわよ……」
勇者は聖剣が選んだ世界のあり方であり、その死を含めてキアの選択が世界の意志となる。
自らの後ろ暗い暗躍のせいなのか、キアと魔王の関係に対する疑念なのか、私にはどこかキアが世界の滅びを選ぶかも知れないという不安を持っている。
「殿下、汗をかいてらっしゃいますね。私は給仕ですが汗を拭きましょう」イルトラは魔法で灯りを灯した。
不必要なまでのお節介さは、私達が笑顔を奪う前のキア・ピアシント、前の給仕班長にそっくりだ。
イルトラは寝間着の前を外して、私の乳房を取り出すと身体に挟まれた部分を丹念に拭いた。
「班長の頃のキアを覚えている?」
「新人の給仕だった私を、一人前にしてくれたのはキア先輩です」
「変わってしまった……いや、私が変えてしまったのね」
「いえ、変わったのだと思いますよ、勇者様は」
「そう……」
その時、寝具を照らす月の色が薄いビリジアンから、ひたすら明るいカドミウムレッドに変わった。
私はベッドの上に立ち上がり西向きの窓から身を乗り出して、巨大化した赤い月を凝視した。
まさにその瞬間、人間界は永続を失って破滅し、虐殺と飢餓と戦争に祝福され、世界の滅びは約束された。
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