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もう春なのに②
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「杏梨ちゃん。ちょっとお話しませんか?」
「しない! 誰とも話したくないの!」
「うわっ!?」
試着室から凍てつく風が吹き荒れ、急激に室温が低下した。
ぽかぽかした気温とは裏腹に、この一帯だけ真冬のような寒さに襲われる。
もうすぐ梅雨に差し掛かるこの時期に、厚手のコートやマフラーなんて有るはずがなく。
仕事用の制服はスーツに似た薄地の素材で、防寒機能はあてにならない。肌を刺すような寒気に身震いがした。
「寒い!!」
「さすが雪女。子供でも抜群の威力」
「感心している場合じゃないですよ。武ノ内さんは……平気そうですね」
喋ると冷気を吸い込み、ミントキャンディーを舐めている時のようにスーッとする。
さっきからカチカチ鳴っているのは私の顎の音らしい。少しでも体温を維持しようと無意識に腕をさする。
体を丸めて縮こまる私と違って、武ノ内さんは困ったように後頭部を掻いた。
「不本意ながら水棲だった名残りなのか、割と寒さや冷気は平気なんだよね」
「みんな嫌い! あっち行って!」
「うぅぅ…」
杏梨ちゃんの気が昂ぶると吹雪が吹き荒れ、反射的に眉間にしわが寄る。
強く瞼を閉じていると肩にわずかな重みを感じた。不思議に思い薄っすら目を開けると、肩に黒い上着が掛けられている。
「相沢さんは新婦エリアに移動して。試着室から離れればそんなに影響ないと思う」
「武ノ内さんは?」
「乾かすの手間だし。衣装が氷漬けになった、ってオーナーが知ったら面倒だから。とりあえず衣装を移動させようかな」
「それなら、私も運びます」
私は新人なのだから、こういう雑用こそ動くべきだ。スーツが落ちないように軽く握り、のろのろと立ち上がる。
「この間愚痴っちゃったお詫び。ここは俺に任せて、さっさと移動する。新人は先輩の言う事を聞いておくものだよ」
ほら、行った行った。爽やかに笑いながら告げる。私が動くまで作業に取り掛からないつもりらしく、じーっと見つめられると従うしかない。
タキシードに霜が付くのも困るので、申し訳ないと思いつつ、よたよたした足取りで場所を移る。
(私より薄着なのに本当に寒くないんだ)
筋肉量の違いもあるかもしれないけど。
武ノ内さんは本当に平気らしく、試着室付近のタキシードを次々と腕に掛け、離れた位置にあるラックに掛け直していく。
「何かそっち寒いですけど大丈……って、何これ!?」
何事かと震えながら顔を上げる。
見ると早見さんが両手で口を押さえ、慌てた様子で駆け寄ってきた。
「うわっ、唇が紫色! 大丈夫!?」
いつの間にかタメ口が定着している。些細な変化だけど嬉しい。
早見さんは近くまで来ると私の背をさすってくれた。
「杏梨ちゃんが」
「えっ?」
閉じられた試着室。次いで黙々とタキシードの場所を移し変える武ノ内さんを見て状況を察する。
一瞬で理解したものの、どうしたら良いか判断を決めかねているらしい。早見さんはずっと眉が八の字のまま唸っている。
「こんな事初めてです。いつも仲良く式場の庭園で撮影されるのに」
「私の接客に問題があったんでしょうか?」
「それはないと思う。杏梨ちゃんは賢い子だから、何かして欲しい事があればちゃんと伝えてくれるはず」
「あの、さっきの悲鳴って」
『あ……』
これだけ騒ぎになれば氷室様の耳にも入ってしまう。ドレスの試着中だったので直ぐに駆けつけられなかったらしい。
心配そうな面持ちで私達の方へ歩み寄る。
(すごい! 模擬挙式の時のモデルさんみたい!)
ついさっきまで凍えそうになっていた事も忘れ、同性ながら見惚れてしまった。
来店された時から細身でスタイルが良い、とは思っていたけど。
マーメイド型のドレスを着ると、きゅっと引き締まった細い腰がよく分かる。動く度にさらさらと揺れる黒髪はCMを観ているよう。
ちゃんと大人の女性の艶っぽさはあるのに、妖艶になり過ぎないのは透けている部分が少ないから。
首元~指の関節付近まで繊細な総レース素材で、程よい透け感と淑女感を演出している。
「来ないで! ママなんか大嫌い!」
氷室様の声が聞こえると一層杏梨ちゃんの力が強まる。さっきとは比べ物にならない吹雪が放たれた。
足元まで寒気が押し寄せ、空気を吸うと鼻の奥がツンと痛んだ。
私と早見さんは互いに手を取り合い、身を寄せ合う。
「寒い!」
「今は春ですよ…」
「杏梨、何をやっているの?」
「来ないで! あんりの近くに来たら、このお店を凍らせちゃうから」
『ひぇっ!?』
声を荒げる杏梨ちゃんに対し、大人の私達は情けない声をあげる。室内の気温が更に下がった事と、衣装を凍らされては困るという二重の意味で。
視界の端で武ノ内さんがうなじに手を添え、困惑しているのが見えた。
「毎年、杏梨も楽しみにしていたでしょう?」
「イヤなものはイヤなの!」
「杏梨…」
茫然と立ち尽くす氷室様。
無理やりカーテンをこじ開けるのかな、なんて思って見ていると。
氷室様はスッと人差し指を立てる。そして、ゆったりした動作でくるくると指を回し始めた。
(何をしているんだろう?)
縁日などの出店でよく見る、割り箸で綿あめを作っている仕草みたい。しばらくその動作を続けると、不意に全身から冷気が抜けていくのが分かった。
室内の温度が適温に戻り、それに伴い指先の感覚や体温が戻ってくる。
「これ以上、お店の方に迷惑をかけるのは止めなさい」
「…………っ!!」
「氷室様が杏梨ちゃんの冷気を集めて、私達の所まで来ないようにしているんです」
ぽかんとしていると、早見さんがこっそり耳打ちで教えてくれた。
「ママが人間にいじわるするからでしょ!」
攻撃が効いていない事に気付いた杏梨ちゃんは震える声で叫んだ。
思わぬ返しに氷室様も言葉を失い、店内に流れるクラシックのBGMがやけに大きく響く。
「しない! 誰とも話したくないの!」
「うわっ!?」
試着室から凍てつく風が吹き荒れ、急激に室温が低下した。
ぽかぽかした気温とは裏腹に、この一帯だけ真冬のような寒さに襲われる。
もうすぐ梅雨に差し掛かるこの時期に、厚手のコートやマフラーなんて有るはずがなく。
仕事用の制服はスーツに似た薄地の素材で、防寒機能はあてにならない。肌を刺すような寒気に身震いがした。
「寒い!!」
「さすが雪女。子供でも抜群の威力」
「感心している場合じゃないですよ。武ノ内さんは……平気そうですね」
喋ると冷気を吸い込み、ミントキャンディーを舐めている時のようにスーッとする。
さっきからカチカチ鳴っているのは私の顎の音らしい。少しでも体温を維持しようと無意識に腕をさする。
体を丸めて縮こまる私と違って、武ノ内さんは困ったように後頭部を掻いた。
「不本意ながら水棲だった名残りなのか、割と寒さや冷気は平気なんだよね」
「みんな嫌い! あっち行って!」
「うぅぅ…」
杏梨ちゃんの気が昂ぶると吹雪が吹き荒れ、反射的に眉間にしわが寄る。
強く瞼を閉じていると肩にわずかな重みを感じた。不思議に思い薄っすら目を開けると、肩に黒い上着が掛けられている。
「相沢さんは新婦エリアに移動して。試着室から離れればそんなに影響ないと思う」
「武ノ内さんは?」
「乾かすの手間だし。衣装が氷漬けになった、ってオーナーが知ったら面倒だから。とりあえず衣装を移動させようかな」
「それなら、私も運びます」
私は新人なのだから、こういう雑用こそ動くべきだ。スーツが落ちないように軽く握り、のろのろと立ち上がる。
「この間愚痴っちゃったお詫び。ここは俺に任せて、さっさと移動する。新人は先輩の言う事を聞いておくものだよ」
ほら、行った行った。爽やかに笑いながら告げる。私が動くまで作業に取り掛からないつもりらしく、じーっと見つめられると従うしかない。
タキシードに霜が付くのも困るので、申し訳ないと思いつつ、よたよたした足取りで場所を移る。
(私より薄着なのに本当に寒くないんだ)
筋肉量の違いもあるかもしれないけど。
武ノ内さんは本当に平気らしく、試着室付近のタキシードを次々と腕に掛け、離れた位置にあるラックに掛け直していく。
「何かそっち寒いですけど大丈……って、何これ!?」
何事かと震えながら顔を上げる。
見ると早見さんが両手で口を押さえ、慌てた様子で駆け寄ってきた。
「うわっ、唇が紫色! 大丈夫!?」
いつの間にかタメ口が定着している。些細な変化だけど嬉しい。
早見さんは近くまで来ると私の背をさすってくれた。
「杏梨ちゃんが」
「えっ?」
閉じられた試着室。次いで黙々とタキシードの場所を移し変える武ノ内さんを見て状況を察する。
一瞬で理解したものの、どうしたら良いか判断を決めかねているらしい。早見さんはずっと眉が八の字のまま唸っている。
「こんな事初めてです。いつも仲良く式場の庭園で撮影されるのに」
「私の接客に問題があったんでしょうか?」
「それはないと思う。杏梨ちゃんは賢い子だから、何かして欲しい事があればちゃんと伝えてくれるはず」
「あの、さっきの悲鳴って」
『あ……』
これだけ騒ぎになれば氷室様の耳にも入ってしまう。ドレスの試着中だったので直ぐに駆けつけられなかったらしい。
心配そうな面持ちで私達の方へ歩み寄る。
(すごい! 模擬挙式の時のモデルさんみたい!)
ついさっきまで凍えそうになっていた事も忘れ、同性ながら見惚れてしまった。
来店された時から細身でスタイルが良い、とは思っていたけど。
マーメイド型のドレスを着ると、きゅっと引き締まった細い腰がよく分かる。動く度にさらさらと揺れる黒髪はCMを観ているよう。
ちゃんと大人の女性の艶っぽさはあるのに、妖艶になり過ぎないのは透けている部分が少ないから。
首元~指の関節付近まで繊細な総レース素材で、程よい透け感と淑女感を演出している。
「来ないで! ママなんか大嫌い!」
氷室様の声が聞こえると一層杏梨ちゃんの力が強まる。さっきとは比べ物にならない吹雪が放たれた。
足元まで寒気が押し寄せ、空気を吸うと鼻の奥がツンと痛んだ。
私と早見さんは互いに手を取り合い、身を寄せ合う。
「寒い!」
「今は春ですよ…」
「杏梨、何をやっているの?」
「来ないで! あんりの近くに来たら、このお店を凍らせちゃうから」
『ひぇっ!?』
声を荒げる杏梨ちゃんに対し、大人の私達は情けない声をあげる。室内の気温が更に下がった事と、衣装を凍らされては困るという二重の意味で。
視界の端で武ノ内さんがうなじに手を添え、困惑しているのが見えた。
「毎年、杏梨も楽しみにしていたでしょう?」
「イヤなものはイヤなの!」
「杏梨…」
茫然と立ち尽くす氷室様。
無理やりカーテンをこじ開けるのかな、なんて思って見ていると。
氷室様はスッと人差し指を立てる。そして、ゆったりした動作でくるくると指を回し始めた。
(何をしているんだろう?)
縁日などの出店でよく見る、割り箸で綿あめを作っている仕草みたい。しばらくその動作を続けると、不意に全身から冷気が抜けていくのが分かった。
室内の温度が適温に戻り、それに伴い指先の感覚や体温が戻ってくる。
「これ以上、お店の方に迷惑をかけるのは止めなさい」
「…………っ!!」
「氷室様が杏梨ちゃんの冷気を集めて、私達の所まで来ないようにしているんです」
ぽかんとしていると、早見さんがこっそり耳打ちで教えてくれた。
「ママが人間にいじわるするからでしょ!」
攻撃が効いていない事に気付いた杏梨ちゃんは震える声で叫んだ。
思わぬ返しに氷室様も言葉を失い、店内に流れるクラシックのBGMがやけに大きく響く。
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