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君がいないから気になることが多すぎて

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 満員電車の朝。人がつまっているせいで薄く感じる酸素、つけたての香水や整髪料の香料のにおいが混ざる車内の空気、憂鬱な顔をしている乗客。朝、電車に乗って学校へ向かう時間は、こんなにも不快だっただろうか。
 違う。忘れてしまうほど、気付かずにいることができたんだ。いつもアイツが隠してくれていたから。
 電車が発車して、落ち着かない気持ちをごまかそうとスマホの画面をつけた。そのタイミングでぶぶっという振動と共にメッセージの通知が来る。その内容を見て、俺は狭い空間の中、無理やり動いてなんとか鞄からイヤホン取り出した。


 
 高校に入学して初めての登校日、初めての電車通学。次々に入ってくる人に押されてようやく立ちどまれた場所で向かいに立っていたのがアイツ、貴幸だった。
 同じ駅から電車に乗った同じ制服の背の高い男子生徒。体育くらいしか体を動かしてこなかった俺と違って、肩幅が広くガタイの良い、いかにも運動部に所属していそうな体格だった。
 向かいに立った男子生徒がおなじ学校の人と知ったところで、俺のような人見知りには声をかけることなんかできない。だからと言って、こんな目の前に同学年の人がいるのに無言でいる方がかえって不審者に見えるだろうか。
 俯いて軽くパニックになっていると、ふいに上から視線を感じた。顔を上げると俺を見ている貴幸と視線がぶつかる。
 どう反応すればいいのか固まっている俺に、貴幸は自分のネクタイと俺のネクタイを交互に指差して、にっと笑った。そして『よろしく』と俺だけに聞えるような小声で言ったのだ。
 通っていた高校は、学年別にネクタイの色が違ったから、同学年という事は向こうもすぐにわかったのだろう。その日、電車を降りてからも一緒に学校まで行った。それから毎日通学を共にするようになったが、最初から待ち合わせていたわけじゃない。
 次の日も貴幸がホームにいるのをみかけた俺は、迷いながらおはようと声をかけた。
 昨日一緒に登校したのに声をかけないのも変な気がしたからだ。緊張で声が掠れていたが、貴幸はそれを笑う事無くおはようと返してくれた。
 お互い大体同じ時間に駅へ来る俺達はそんな風に声を掛け合っていたが、そのうち連絡を取り合って駅前で待ち合わせてから、ホームへ向かうようになった。声を抑えながら話し、学校の最寄りの駅まで電車に揺られるニ十分はあっという間だった。学校ではクラスが両端というのもあって毎日休憩がくるたび席に行くということはなく、たまに昼を一緒に食べる、そんな仲だった。
 急に仲良くなったのは夏休みだ。休みが終わる一週間前、貴幸から急に連絡が来た。

『修一、宿題終わった?』
「終わってるけど、なんで?」
『始業式までに終わる気がしない、助けて』 

 急遽、俺の家で夏休みの宿題をすることになった。前からテスト前後は浮かない顔をしていたから勉強が苦手なことは察していたが、貴幸が持ってきた宿題の状態は今から夏休みなのかと思うほど真っ白で、流石に俺は怒った覚えがある。
 その日をきっかけに、学校が始まってからも宿題を教えるという理由で放課後や、休日に、貴幸と会う事が増えた。 

「他に勉強教えてくれる人いないの?」
「教えてくれるけどわからん。修一が一番わかりやすい。それより今度映画見よーぜ、この間始まったやつ」

 宿題をやりながら、休日に遊びの約束をすることも増えた。
 クラスを通りかかる時に横目でみると、貴幸はいつも誰かと話していた。わざわざ俺じゃなくても誘う相手はいるだろうと思ったが、誘ってもらえるのは嬉しいから断らなかった。



 
「なぁ。同じ大学行けねぇかな」
「……それはどっちの大学のこと言ってる?」

 部屋で一緒に勉強をしている途中、急に貴幸がぼやいた。
 特に喧嘩することもなく、そのまま三年に突入した俺達は、それぞれの進路に向けて動いている。俺は文系の大学を目指していた。貴幸は相変わらず勉強が苦手で、しかし得意な運動では着実に良い結果を積み重ねて、体育系の大学を目指していた。

「……んー、一緒に体育大学?」
「無理だって、お前が勉強頑張って俺の行く大学目指すほうがまだ現実的だよ」
「いや、それは無理だよなぁ」

 会話はそこで終った。
 進路を決めていると、貴幸と一緒に同じ電車で通学するのも後少しという現実にも直面する。
 ひそひそ声で会話をする通学時間が楽しみだった。お互い学校で何があったかはもちろん、小テストの暗記を手伝ったりとか、貸し借りした漫画やDVDの感想を言い合ったりだとか。
 電車に揺られながら話す約二十分間、それが無くなる想像をすると不安になるほどには、俺にとって生活の一部になっていたのだ。
 結局、俺達は別の大学に進学が決まった。
 卒業式が終わった。もう駅に行く必要はなくて、同じ電車にも乗らなくなる。貴幸との会話が無くなる。
 そんな現実を受け入れたくなくて、俺は理由さがしては貴幸を誘ったし、向こうが声をかけてくれた時は絶対に行くと返事をした。たとえ自分が大して興味のない内容でも、会えればよかった。
 でも、もうそんな日々もまもなく終わってしまう。

「あのさ、お願いがあるんだけど」

 俺は部屋で一緒に菓子を食べていた貴幸に話しかけた。

 
 
 メッセージはの通知は貴幸からだった。開くと音声ファイルが張り付けてある。緊張しながら黒い三角のマークをタップした。
 画面には俺とアイツの顔がコラージュされて並んでいる静止画、イヤホンから音声が流れる。

『三年間、俺が学校に通えたのは修一のおかげ。ありがとう。……あー、何話せばいいんだよ、ニ十分? 無理だろ。あのさ。電車で聞くから今度おすすめの再生リスト教えて、三十分くらい。俺が好きな曲は――』

 途中沈黙を挟んだり、少し慌てながらアイツが一人で話す声がイヤホンから流れてくる。



 
『寂しいから、電車で聞くから、話している声を録音させて』

 最後に会った日、部屋で一緒に菓子を食べていた貴幸に俺が言ったことだ。
 かなり勇気を出して実行したが、断られた。恥ずかしいから嫌だ、と。
 いきなりそんな事言われても困るだろうと予想はしていたし、断られることは想定していた俺は、ショックもなく受け入れた。けど、寂しくはあった。
 だから貴幸から音声ファイルが送られてきた時、動揺した。
 流れる音声を聞きながら口元が緩みそうになるのをひたすら堪えた。
 ただ、一つ訂正するなら、俺は二十分間聞けるようになんて言ってない。そんな無茶、言わない。
 俺の大学までの通学時間なんて知らないから、今まで一緒に電車へ乗っていた時間を想定したんだろう。足りなくても繰り返し聞けばいいだけなのに、二十分もとらなきゃと考えるところが貴幸らしい。

『あぁ、もう無理だ。一人で話す事なんか、そんなねぇって。一人じゃ話してもつまんないし……。あぁ、それじゃ……これ言っとこうかな。こんな時じゃないと言えないし。あのさ、今だから言うけど俺、電車が苦手なんだ。初めて会った日も、凄い憂鬱で家に引き返したかったくらい苦手。けど、目の前にお前がいて、すっごい良い匂いがして、なんかすごい落ち着いた。知ってるか? お前の癖毛、電車が揺れるとちょうど俺の口の下くらいで揺れるんだよな。良い匂いだなって思いながら見てて、見つかった時はすげー気まずかった。けど、いっそのこと仲良くなろうって思って。あの時声かけて良かった。とにかくお前がいるとすごい居心地良かったんだよ。サイズ感も寝ている時に使う抱き枕っていうのか? 丁度良いし。いや、抱いたことはねぇけど、なんとなくそんな感じで傍にいると安心すんの。これからお前がいない電車に乗るの想像したら怖くてたまらないくらい。なぁ、今何分? 俺にはまた無茶なこと言うっていうけど、お前も結構無茶な事言うよな。……あぁ、じゃあさ。お前の匂いってシャンプー? それとも柔軟剤? 後、俺にも声送ってよ……』

 流れてくる声が少し掠れて、いつもの勢いがしぼんでいく。
 電車が苦手なのは初耳だった。体格がいいアイツは、いつも平気な顔して俺の傍に立っていてくれたから。
 押されてぶつかっても相手がアイツだったから、大きな体が余計なものを隠してくれたから、不快な音やにおいからも気がそれていたのもアイツと話していたから。
 全て、今日一人で満員電車に乗って実感したことだ。

『お前からああやって言ってくれて、俺、嬉しかったよ。つい恥ずかしくて嫌だって言ったけど同じ気持ちなんだなぁって。なぁ、どうせならあの日、お前と話してる声を録音すれば良かったなぁ。だって一人の声じゃ寂しいじゃん。だからさ、次の休み、会おう。半日だけの日とか……あぁ、でも俺部活は出ねぇと。やっぱり休みだな。とにかく会いたい。お前がいないと寂しい。好き。あー! もうしゃべれねぇ、無理。頼むからブロックするなよ。じゃあな』

 そこで音声は切れた。流石に二十分話し続けることはなかった。
 けど、そんな事は今どうでも良い。最後、うっかり聞き逃しそうになるほど早口で口走った二文字。不安とは逆の意味で胸が苦しくなって、俺は床に視線を落とした。
 なんでこんな内容、電車に乗ってから送るんだ。そんなの卑怯だ。これを聞いたら、一回家で聞いて心の準備をしてからだって動揺するだろう。
 今、人に見られて恥ずかしくない顔を保つ自信がなかった。
 好き、俺も好きだ。だから、離れても寂しくないように声を強請った。そばにお前がいてくれるって思いたかった。

 (匂いは多分シャンプー、使っているのはあれ。好きな音楽は、あれと、それと――)

 俺は必死に他の質問の答えを頭の中で考えて、それを反復した。数学が好きな人は落ち着くために素数を数えるっていうから。
 せめて大学の駅に着くまでに平常心に戻らなければ、今日これから初めて知り合う人の、俺の第一印象がめちゃくちゃだ。
 質問を反復しながら、なんとか貴幸に返信した。

 『ありがとう。シャンプーの名前とか、音楽とか、次に会った時に。楽しみにしてる』
 『それだけ?』

 焦ったスタンプと一緒にアイツから返信が届いて、好きと言ってくれたことへの返事を書いていなかったことに気がついた。

 『俺も好き。電車にお前がいないから顔隠せなくて困ってる。こんなこと不意打ちで送るな、バカ』

 すぐに既読になったが、アイツからの返信は途絶えた。電車が駅についたのか、それとも動揺しているのか。
 どうか後者であって欲しい。俺一人動悸が収まらないで困っているなんて、何だか悔しいから。

 
 人がつまっているせいで薄く感じる酸素、つけたての香水や、整髪料の香料のにおいが混ざる車内の空気、憂鬱な顔をしている乗客。
 降車駅まで残り約十分――。俺はこの動悸を治める為に、邪魔だと思っていたそれら全てに意識を集中させた。
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