旅する創造主――アノンの世界観

ぼん

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神話時代:祈りの丘・最初の巫女

【祈りの丘・最初の巫女】 第八話「祈りの頂」

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 夜明けの気配がようやく村を包み始めていた。

 草の上に光る露はまだ冷たいままで、風が通るたびに小さく震える。

 私は焚き火のそばで立ち尽くしていた。

 残り火は赤く沈み、煙は細い糸のように空へ消えていく。

 土の感触も、風の冷たさも、胸の奥に沈んだままの祈りも――

 全部、昨日から変わっていない。

 どこか世界と切り離されたみたいで、手のひらにも温度が戻ってこない。

 村の片隅では、子供たちが輪になって小さく話し合っていた。

 バルクも、ミレアも、ミレナも、みんな声を落としている。

 祈りが届かないことを、もう誰も口にしない。

 それでも、手探りで言葉を探しているのが分かった。

 私は、そっと膝をついて土に手を当てる。

――静寂だけが返ってきた。

 昨日は確かに感じたはずの『揺らぎ』も『脈動』も、全部沈んでいる。

 世界が息を潜めたように、森も光もどこか遠くに感じた。

 森の奥で揺れるはずの光は見えない。

 梢を渡る風も弱々しくて、精霊の気配はほとんど感じられなかった。

 ……大陸が裂けたあの日のことを、少し思い出した。

 森が泣き止み、祈りが途切れたあの静かな痛み。

 村も森も精霊も、私も。

 みんなまだ、その余波の中で歩いているのだ。

 胸の奥がきゅっと痛んだ。

 でも、その痛みを否定しようとは思わなかった。

 苦しさも孤独も、きっと『今の世界の一部』なんだと、そう思えたから。

 その瞬間、胸の奥で、ほんのわずかに光が灯った気がした。

 祈りが小さく膨らむ。

 言葉にならない願いが、静けさの中で揺れている。

――もう一度、つながりたい。

 誰かでも、世界でも、精霊でも。

 何かひとつでもつながる場所がほしい。

 私は目を閉じ、深く息を吸った。

 丘の上を風が駆け抜けていく。

 土の奥から、ごく弱いが確かな命の振動が伝わってきた。

 手のひらに、じんわりとした熱が戻り始める。

 私は小さく呟いた。

「……届いて。もう一度……」

 言葉になったのかどうかも分からないほどの声。

 でも、そのひとしずくの願いが胸の奥からこぼれていく。

――かつて外側から見ていた祈り。

 終わりと始まりが重なる瞬間を、ただ観察していた日々。

 けれど今は、そのすべてが私の身体を通して流れている。

 観察者ではなく『祈りの一部』として。

その変化を、私ははっきりと感じていた。

◇◇◇

 村の片隅で、子供たちがまた小さな輪を作っていた。

 誰かが囁くように言う。

「……さっきより、空気があったかい」

「風が、戻ってきた?」

 ミレアが芽を包むように手を伸ばす。

 昨日芽吹いた草が、うっすらと光を抱いて揺れていた。

「少し……だけど、生きてる」

「うん……ちゃんと、息してる」

 その声が、村の空気にゆっくり溶けていく。

 私は立ち上がり、丘を見る。

 土の裂け目から、淡い光がふわりとこぼれた。

 昨日よりも弱いけれど――確かに、そこに在る。

 胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。

 丘の向こうへ歩き出そうとしたときだった。

 土の底から、まるで呼吸のような微かな震えが伝わってきた。

 昨日とは違う。

 深い痛みを抱えたまま、それでも、生きようとする震え。

 私は、そっと手を重ねた。

 風が、私の周りをやわらかく巡った。

◇◇◇

――祈りは、まだ終わっていない。

 その感覚が胸の奥にふくらんだとき。

 丘の裂け目から、新しい影がゆっくりと持ち上がる。

 小さな、小さな苗木。

 昨日はなかったはずの命が、光を受けて震えていた。

 思わず息をのむ。

 バルクも気づいたのか、少し遅れて走り寄ってくる。

「……昨日、なかったよな、これ」

 ミレアも隣にしゃがみ込む。

「ちっちゃい……でも、根がある」

 ミレナは土に手を添えて、やわらかく言う。

「みんなの祈りが……届いたのかもしれないね」

 胸の奥に、あたたかなものが広がる。

 私は苗木に手を伸ばそうとして、そっと指を止めた。

 触れなくても分かる。

 この苗木は、ここにいるみんなと同じ――再生の始まりなんだ。

胸の奥に、ただ温かな感覚が広がる。

 それは特別なものではなく、日々を重ねる中で、そっと生まれていくものだった。

――自分でも気づかない深い場所で、アノンとしての『想い』が、静かに苗木へと注がれていく。

 それは、言葉にも祈りにもならない、ごく淡い感情だった。

 ただ『ここで生きてほしい』『この命がどうか守られますように』と、世界にさえ届かぬ祈りが、ひとしずく流れ落ちるように、苗木へとそっと沁みていく。

◇◇◇

 朝の光が丘を照らし始める。

 村も森も、ゆっくりと新しい一日を受け止めようとしていた。

 私は胸に手を置き、小さく息を吸った。

 痛みも孤独も祈りも――ぜんぶ抱えたまま、歩いていく。

 この場所で、生きていく。

 丘の上を、柔らかな風が駆け抜けた。

 私は苗木から目を離せずにいた。

 昨日まで世界のどこにも触れられなかった手のひらが、いまはほんの少しだけ、あたたかさを思い出している。

 胸の奥に宿った微かな鼓動が、土の震えと重なって、体の奥にゆっくり染みこんでいく。

――つながっている。

 たったそれだけのことが、こんなにも救いになるなんて。

 私は気づいたように、静かに息を吸った。

◇◇◇

 村の人たちは、それぞれの仕事に戻りながらも、ふとした瞬間に丘の裂け目へ視線を向けていた。

 バルクは水汲みの途中で立ち止まり、遠くに見える小さな影に眉を上げる。

「……あそこ、もう一つ芽が出てる」

 ミレナは薪を抱えたまま、それを見て微かに笑った。

「緑が……また増えたね」

 エルマは薬草の束を陽に干しながら、何度も丘のほうへ目をやる。

 ゴドーは鍬の動きを止め、裂け目の影を確かめるようにしばらく静かに見つめていた。

 誰も駆け寄ったりはしない。

 ただ、自然と見守るという形になっていた。

 苗木の存在が、村の空気をほんのり温めていた。

 遠くで鳥たちが鳴き始め、森の気配も昨日よりやわらかい。

 私は丘の上に立ち、胸に手を置く。

 痛みも喪失も、まだどこにも行かない。

 でも、その真ん中で芽吹くものがある。

――世界は、ゆっくり息をしている。

 そう思った瞬間、胸の奥がふっと軽くなった。

 私は苗木の前にしゃがみ込み、そっと指を近づける。

 触れない程度に。

 でも、届くほどに近い距離で。

 葉の先が、やさしく揺れた。

 風のせいか、それとも――

 どちらでも構わない。

 その揺れが、生きようとする『応え』のように思えたから。

「……強いんだね」

 自分でも驚くくらい自然に声が漏れた。

 その瞬間、胸の奥でかすかに反響が生まれる。

 それは、村や森や精霊たち、そして私自身の祈りや願いが、遠く離れていても、どこかで重なり合っているという実感だった。

 この世界の祈りと重なることを、私はようやく受け入れていた。

◇◇◇

 丘を吹き抜ける風が柔らかくなったころ、村の空気にも再び静けさが戻ってきていた。

 焚き火の煙は細く上へ伸び、小川のせせらぎが遠くでゆっくり流れている。

 私は立ち上がり、ゆっくり村を見渡した。

 昨日まで、みんなの表情は強ばっていた。

 祈りが届かないという不安が、胸を締めつけていた。

 でも、今は少し違う。

 重さは残っている。

 痛みも消えてはいない。

 それでも――

 村の空気には、確かに温もりの揺らぎが戻っていた。

 バルクが薪を運びながらぼそりと言う。

「……なんか、今日は息がしやすいな」

 ミレアが頷き、小さく笑った。

「うん……昨日より、あったかい感じがする」

 ミレナは空を仰ぎ、ゆっくり瞬きをする。

「風の音、戻ってきた……」

 その声は誰に向けたものでもなく、ただ空と森と村へ静かに落ちていく。

 精霊の気配も、うっすらと息を吹き返していた。

 光の粒が風に乗って、草の上で淡く揺れている。

 私は胸に手を添えて、そっと目を閉じた。

 世界が、ゆっくりと再び歩き出している。

 そう実感できた。

◇◇◇

 私は丘の上に戻り、最後にもう一度だけ苗木を見つめる。

 葉に落ちた朝の光が、透けるように輝いていた。

 不思議と、何も言葉はいらなかった。

 ただ、この場所で生き続ける小さな命が、村や森や精霊たちと結び目を作っていく。

 そのことだけで胸が温かくなった。

 私は深く息を吸う。

 祈りはまだ言葉にならない。

 でも、それでいい。

 痛みも孤独も願いも、全部この朝の中に溶けていく。

 風がゆるやかに吹き抜けた。

 苗木の葉が、そっと揺れる。

 村の一日がまた始まる。

 静かな光が、丘も村も森も包み込んでいった。

――始まりの静けさの中で、私はそっと目を閉じた。

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