旅する創造主――アノンの世界観

ぼん

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伝承時代:星見の岬フィラリア・魔王と勇者伝説

【星見の岬フィラリア・魔王と勇者伝説】 第三話:「恐れと希望の間で」

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 雲が夜の端を覆い、村の家並みに淡い闇が降りていた。

 石造りの壁に残る昼の温もりが、ゆっくりと冷えはじめていく。

 小道を渡る風は遠慮がちで、家々の間をそっとすり抜けていった。

 窓辺からは夕食の湯気が立ち、灯りがひとつ、またひとつと柔らかく揺れる。

 家族が食卓を囲む声、鍋の蓋が開く音。

 そんな日常の気配が、村全体を穏やかに包んでいた。

 けれど、その温かさの奥――

 ほんのわずかなざわめきが潜んでいることを、誰もが気づかぬふりをしていた。

 母が食事の手を止め、ふと外へ目を向ける。

 父は言葉なくパンをちぎり、妹は静かな声で祈りをつぶやいていた。

 村の片隅では、犬の遠吠えがかすかに響く。

 昼間、畑の端にはグラスラットの群れが集まっていたという話を耳にした。

 家畜の鳴き声はどこか沈み、鳥たちも羽音をひそめている。

「明日……晴れるかな」

 妹の小さな言葉に、母はやわらかく微笑み、父は静かに頷いた。

 それだけで会話は途切れ、湯気と沈黙だけが家に残った。
◇◇◇
 しばらくして、玄関先からレオンの声がした。

 がっしりした影が夕闇に浮かぶ。

「おい、外の空気吸わないか? なんか……妙に静かでさ」

 僕はうなずき、外へ出る。

 村の道端には、サラが猫耳を揺らしながら立っていた。

 背の弓を軽く整え、足元の気配を読むように視線を落とす。

「畑の端、今日も足跡があった。たぶんフォグウルフ」

 勝気な声だったが、揺れる尾はいつもより控えめだった。

 レオンは肩をすくめて笑ってみせる。

「こんな夜は、早く寝た方がいいかもな。サラ、お前も無理すんなよ」

 軽い冗談に聞こえるのに、その目はどこか張りつめていた。

 僕は二人に手を振り、静かな道を離れる。

 家々の灯りは次第に消え、夜の気配が深まっていく。

 ふと空を見上げると、雲の切れ間に星がわずかに瞬いていた。

 岬の向こうから吹く冷たい風。

 遠くでフォグウルフの鳴き声が木霊する。

 村の静けさのなかに、微かな異変が紛れ込んでいた。

◇◇◇

 誰にも気付かれないように、星見の岬へ向かって歩く。

 草むらを踏む音だけが、夜の空気に淡く溶けた。

 岬の先端――

 昼のざわめきも、村の灯りも届かない静謐な闇に包まれた場所に辿り着く。

 その場に立ち尽くしていると、ふと足元に淡い光が揺れた。

 空気の密度が変わったように感じる。

 風が止まり、草葉の擦れる音さえ失われる。

 夜の闇に柔らかな光が点々と浮かび、自然と僕の周囲へ集まってくる。

 その気配は言葉を持たない。

 ただ、静かにこちらを見ているようだった。

 遠く、草むらの先に誰かの気配があった。

 白銀の髪が夜気を受け、ほのかに揺れた。

 星詠みの巫女、フィラリア。

 彼女は、なにかを確かめるように静かに僕を見つめていた。

 やがて、一歩ずつ近づいてくる。

「……精霊たちが、あなたに集まっていますね」

 夜に溶けるようなその声。

「こんな現象はめったに起きません。もしかすると――あなたは精霊に選ばれたのかもしれません」

 言葉が胸に落ちていく。

 静かな動揺が広がり、思考が追いつかない。

 淡い光は言葉の代わりに僕の周囲を巡り、胸の奥に微かな振動が広がる。

 風が止まり、世界が息を潜めたようだった。

 どれほど時間が過ぎたのだろう。

 フィラリアがもう一歩、優しく間を詰める。

「恐れなくていいんです」

 夜明け前の星のような声音。

「精霊があなたのもとに集まる理由は、きっとあります。……でも、その答えは急がなくていい」

 彼女の横顔は星の光を映し、揺れのない静けさを宿していた。

 僕は何も返せなかった。

 ただ、心の奥で渦巻くもの――『普通でいたい』という願いと『選ばれる』ことへの戸惑い――が、ゆっくりと言葉にならず沈んでいく。

 フィラリアは祈るように目を伏せる。

「夜明けは、必ず訪れます。揺れる心もまた、星の下では祈りのひとつです」

 その言葉が、今夜は特別に胸へ残った。

 やがて精霊の光は夜風に溶け、気配ごと消える。

 フィラリアも静かに踵を返した。

◇◇◇

 岬には再び静けさだけが残った。

 僕はひとり、夜の空気に身を委ねながら問いを抱える。

『普通でいたい』という願いは、本当に僕自身のものなのか。

選ばれるということは、何かを捨てることなのか。

それとも、まだ見ぬ何かへ手を伸ばすことなのか。

 答えはどこにもない。

 問いだけが夜空へ溶けていく。

 そのとき、遠くの村から朝を告げる鳥の声が響いた。

 東の空に淡い光が生まれ、夜の境界が静かに揺れる。

 岬の風が、夜と朝の狭間をすくい上げた。

 僕はゆっくりと目を閉じる。

 胸の奥で、小さな『何か』が芽吹く気配がした。

――始まりの静けさ。

 世界はまた、淡い余韻のなかで歩みを続けていく。

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